SS : 一番星に祈って
夕陽が、燃え立つオレンジ色の光で部屋を満たしていく。勉強机に備え付けられた棚の、その一番上にいるぼくは今、長い眠りから覚めた。じんわりと身体に広がる、夕陽の温かさ。まるで氷が解けていくように、錆びついた身体が、心が、ほぐれていくのが分かった。
なんだろう。なんだか、泣きたいくらいに懐かしい感覚だ。この温かさに似たものを、ぼくは知っている。そんな事を少しの間、ぼんやりと考えた。そうして記憶を探っていくうちに、あの子との温かい思い出の切れ端が、ぼくの手に触れた。そうか。この温かさは、あの子と過ごしたかけがえのない日々に似ていたんだ。
あの子がぼくの主人になってから、本当にたくさんの思い出ができた。二人でお揃いのアコーディオンを手に、歌を歌い、音を奏であった日々。ぎこちなく、でも丁寧に油を差して身体を磨いてくれた、あの小さな手の温もり。大きくなったら、お前を連れて旅に出るんだ。そして知らない場所で、お前といっぱい歌を歌うんだ。知らない異国のことが書かれた本を開いて、目を輝かせながら夢を語ったあの子の、弾むような声。その一つひとつが、今も変わることなく、胸の中できらきらとした光を放っている。
その思い出たちを慈しむように噛みしめながら、ぼくは、すっかり錆びついてしまった自分の身体を見下ろす。これではもう、あの日のように音を奏でることも、あの子に駆け寄ることさえできないだろう。思わず、悲しい笑い声がこぼれた。
時は飛ぶように過ぎ去り、あの子は目を見はるほどに成長した。でも、その背がぐんぐんと伸びるにつれて、昔のような屈託のない笑みは、すっかり影を潜めてしまった。ぽつぽつとニキビができはじめた顔はいつからか、眉間にしわがよるようになっていった。この棚いっぱいにあったはずの異国の本は、難しそうな参考書の群れに追いやられて、あっという間に姿を消してしまった。
あれだけたくさんの音に溢れ、笑い声が弾けていたこの部屋は、あの子が本のページをめくり、ペンを走らせる音だけが響くようになった。そういえば、あの子がぼくに目もくれなくなったのは、いつからだっただろう。今となってはもう、思い出せないや。
どうしてかな。夜遅くまで黙々と勉強をするあの子の鋭い、でもどこか諦めたような眼差し。それを見るたびに、ぼくの、あるはずのない心臓が、きゅっと締め付けられるんだ。出るはずのない涙が、出そうになっちゃうんだ。
ぼくはこのまま、あの子に忘れ去られてしまってもいい。でもどうか、どうかあの子の人生が、これからも健やかで、幸せに満ちていますように。そしていつか、いつかまた、あの無邪気な笑顔が見られますように。
すっかり日が沈んで、少しずつ夜がにじみ出した空。そこに小さく瞬きはじめた冬の一番星に向かって、ぼくはそう祈るしかなかった。
☆こちらは、『Stellar Magic』の世界観にのっとった、とある小さな自動人形の物語です。アコーディオニストであるcoba氏の楽曲「空に願う」から着想を得ております。
以前X(旧Twitter)にて公開した作品に細かい修正を加え、再投稿いたしました。
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