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ムーンライトストレンジ

東京には夢だけが溜まって、それを消化する手段はなく、わたしたちはそういうものの上を今日も歩いている。


わたしが東京にきた理由は、明確なものではなくて、逃亡のような、羨望のような、運試し程度のものでした。

今は表現者としてステージに立っているけれど、当初からの夢だったわけではなく。承認欲求や憧れで目指すのが正しい場所、それ以外ならすぐに頷いてもらえないことは始める前からわかっていました。どのオーディションにいっても、憧れの人を聞かれて、この世界は誰かの作った道を歩かなきゃいけないのかと、エンターテイメントは不自由だと、肩を落としてしまいました。

実際に、外から見ていたものとその場所に立ってみる景色には大きな差異があって、これがエンターテイメントかと、誰かの手から離れてしまったそういうものに手を合わせて、わたしの未来に託すことしか、今はできません。

いつでも正しくありたいと思うけれど、正しいだけではいろいろなものに潰されてしまうようでした。こうして先人は悔しい思いをしてその道を歩くことをやめてしまったのかなあと、安易に想像ができるほど現実はあまりに大きく、不自由なもの。だけど、それでもわたしは、誰の道も歩くつもりはなく、村ごと燃やして更地で踊ろうと思っています。

会ったこともない先人だけでなく、近くにいる友人が歩くことをやめたとき、後悔はないと言った声が震えていたこと、悔しそうだったこと、今でもつよく思い出してしまう。真実を知ってしまっているからこそ、知らずにおいしいところだけ食べる人々の曇りのない笑顔を黙って受け入れるしかない。わたしたちは商品であり人間ではない、法律ではなく権力が虚勢を張ってしまう世界で人間として存在できる方法はきっと先人の道を歩くことでは叶わない。と、不自由な世界でまた今日も。


音楽は共鳴であってほしい。脳みその可視化でまだ生きられる、予定変更、終わりの延長。言えないことも言わないことも行間を読んで呼吸の隙間を縫ってほしい。きっとわたしみたいな人が今もどこかで失望を重ねているけれど、まだ見ぬきみと出会えていないけれど、わたしが大きくなればきっと見つけてもらえると信じています。

ぬるま湯で野菜は煮え切らないし、叶いもしない未来に笑いかけることも、こんな人生では平和ボケできるほどもうあまりはないみたい。

何も経験しなければよかったか、何にも気づかなければよかったか、ずっと平和ボケできるほど綺麗な世界をみられたらよかったか。でもだからこそ作り上げられた人格、一円にもならない思考をわたしは愛しています。誰よりエンターテイメント。

わたしの向こう側、透視して共鳴できたらいいななんてこれは叶いもしない未来ではないから。一緒に更地で踊りましょう、まだ見ぬきみとあなたへ。

わたしの夢が地面に落ちてしまわないように、その上を歩かなくていいように、いつかこの人生を昇華できることを祈って、澄んだ排気ガスを吸ってまた明日も。

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