【短編小説】ベランダでピルエット

ベランダでピルエット
 

 
 
 窓一面が結露に覆われて、ベランダはぼんやりと靄がかかったように見えた。だから、何かが飛び跳ねたように見えても、室内が映ったとか、光のいたずらか何かだろうと思って、はっきりと見ようとはしなかった。

「夏美、ちょっときて」

 部屋の外で、母が私に言った。私はこたつに未練を覚えながらも立ち上がった。久しぶりの帰省だし、手伝えることは何だって手伝うつもりだった。

「なあに」
「ほら、これ」
「あ」

 母は階段を下りてくるところで、白い箱を持っていた。ちょうどホールケーキくらいの大きさに見えるが、中身は違う。私の中で眠っていた記憶が、母の足取りに合わせて、ひとつひとつとよみがえる。

「バレエシューズ。押入れの奥から出てきたよ」
「押入れ?」
「整理しようと思って」

 バレエシューズの箱は少々黄ばんでいるけれど、元の白さがきちんとわかる。角も擦り切れずに残っていた。懐かしい家のにおいがする。開けると、外側を包んでいた桃色のサテンリボンまで綺麗にたたまれて入れてあった。白いシューズはほんのり黒ずんで、箱の中で何年も思い出といっしょに熟成されていたみたいにやわらかくなっている。

「なつかしい、とっくに捨てたんだと思ってたわ」
 言うと、母は笑う。
「捨てないよ、思い出の品だもの」

「でも、整理するんでしょ?」
「捨てられないものばっかりでこまってるところ」
「なんじゃそりゃ」

 私はシューズのリボン部分をなでてみた。つめたい。はじめてシューズを手にした瞬間を、わずかに思い出した。このクロスしたリボンが、私には翼に見えてしょうがなかった。これをはいてどこにでもいける。本気で思っていた。

 バレエ教室に通い出したのは五歳の時。それなりに楽しかったはずだけれど、うまくできないことが増えてきて、たしか小学校二年か三年生でやめてしまったっけ。それから、ピアノとか、習字とか、やりたいと言ったことはいくつかやらせてもらったけれど、どれもうまくは続かなかった。

 今シューズを前にしているからなのか、それがはじめての習い事だったからか、バレエの記憶は体の底の方できらきらと輝いている。ピアノよりも、習字よりも、ずっと鮮明に。

 
 だいじょうぶだよ、だいじょうぶだよ。

 
 ふと、長く思い出していなかった声が、記憶の底から呼びかけてきた。
 ハッとして、目を開ける。つい目を閉じて思い出に浸ってしまっていた。母が微笑んで立っていて、ちょっと恥ずかしくなる。

「夏美もとっておきたいでしょ?」

 そう言われ、うなずくしかない。私は箱ごともらって、自室へと戻った。
 自室はしばらく離れていたとは思えないくらいそのままで、だけどほこりはきちんと払われている。シューズの状態のよさといい、実家を出るまではわからなかった母の几帳面さに、私はほうっとため息をつく。

 勉強机の真ん中に箱を置き、改めてじっくりと眺めた。

 さっき思い出された声は、同じバレエ教室にいた、同い年の女の子だったはずだ。名前も顔も忘れてしまったけれど、隣にいてくれたことは覚えている。

 下手な私が、それを理由に落ち込んだり、泣いたりしていたとき、彼女は手をにぎってくれたのだ。彼女もあんまり上手じゃない方で、私と彼女はなんとなくセットみたいに、端の方でレッスンをしていた。私が自信をなくしていると必ず現れて、寄り添ってくれていた。だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。そう繰り返して。

 夕食後、私は母に聞いてみた。

「バレエやってた時の写真、まだある?」
「あるある、たしかそのためのアルバムがあったよ」

 私たちは食器を片付けるのもそこそこに、押入れへと向かった。
 整理の半ばということもあり、アルバムはすぐに出てきた。リボンやレースで縁取られた表紙に、バレリーナのイラストまで添えられている。母はこういうことに凝るのが好きなのだ。

 一枚めくると、集合写真があった。幼い子どもたちがみんな同じお団子ヘアにして、同じ白い服を着て、二十人ほどならんでいる。にっこり笑う子、笑わない子。少し背の高い子。ピースサインなどはしないで、すました格好で映っている少女たち。隅に二人だけ、男の子もいる。

「わ、覚えてる? この子、ルカくん」

 母が男の子のひとりを指すけれど、まるで思い出せない。それよりも、私はあの子の姿が見たかった。

 ひとりひとり、指先で追いながら顔を見ていく。あどけなく頬をそめて、梅干しでも並んでいるみたいな子たち。どの顔も、なんだか、違う。あの子ではないと思った。

 おかしいな。もう一度、右上から全員を見ていく。そりゃあ、あの子の顔だってよくは覚えていない。だけど、この子じゃないっていうのはわかる。この子でもない。この子も。この子も。

 私は次のページをめくっていく。バーレッスンをする私。アラベスクを真似る私。ピルエットで少しぶれている私。他の子といっしょにピースを作って映っている写真。発表会らしい舞台の上で、スポットライトをあびる私。決して厚くないアルバムの半ばあたりで、写真は途切れてしまった。私が早々にやめてしまったからだ。

「でも夏美、がんばってたよね。この最後の発表会の時、うんと上手だったよ」

 母が声を弾ませて、私がひとり映っている写真を指している。でも、私が見たいのはそれではなかった。

 私が見たかったあの子。
 あの子は一枚も映っていなかったのだ。
 バレエ教室にいるうちのずいぶん長い時間、あの子と一緒にいた気がしていたのに。

「ねえ、ひとりさ、仲良しの子がいたはずなんだけど」
「バレエに?」
「うん。いつも一緒にいた子。なんて名前だっけ」
「ああ、そうだね。よく、なにちゃんだったかな。夏美が話してたね。でも顔は見たことなかったような」
「え、そうなの?」
「今日もその子と遊んだんだって。よく話してたよ。思えばその子の親御さんも知らないし、不思議なもんだね」
「そっか」

 それからしばらく、なつかしいなつかしいと言いながら、いろいろなアルバムを開いた。幼稚園のアルバム。小学校のアルバム。家族旅行のアルバム。昔飼っていた犬のアルバム。よくもこんなにきれいにとっておけるものだと感心してしまう。

「お母さん、別に整理する必要なんてないじゃない。めっちゃまとまってるし」
「お母さんだっていつどうなるかわからないんだから、綺麗にしておきたいんだよ」
 母は少しだけ悲しそうに笑った。
 

 母は、ぽつり、ぽつりと、自分の病気のことを話した。私は何も言葉が出なかった。
 すぐに死ぬとかそういうのではないけれど、来年どうなっているかはわからないのだという。ああ、そうだというように、母が立ち上がり、保険の資料を持ってきて、万が一のときのあれこれについて話し出した。私は聞いているふりをしながら、文字を指し示す母の、指ばかり見ていた。
 

 夕食の片付けを済ませ、すこしの団欒をすごし、ようやく自室に戻ると、突然に涙がこぼれた。

 しばらく帰っていなかった私に、ほとんど頼み込むように母が「帰っておいで」といっていた理由がわかってしまって、そんな想像すらしていなかった自分が恥ずかしかった。

 母はいなくなってしまうかもしれないんだ。

 私はどうしたらいいんだろう。どうしてもっと、母と一緒の時間を過ごしてこなかったんだろう……。

 後悔と不安で氷漬けにされていくみたいな心地がした。

 勉強机に、開けたままのバレエシューズの箱がある。くたびれた白と少しのよごれが私の心みたいで、とっさに蓋をしめた。箱をまくらにして、私はつっぷしてしまった。目の前が真っ暗だった。暖房のついていない部屋で、足先がどんどん冷えていく。私は冷たさの浸食に身をまかせてみる。押入れのにおいと自分の息のあたたかさを、腕の中にとじこめるみたいにして、じっとしてみた。
 時計の秒針の音。
 その向こうに、少しずつ声が浮かび上がってくる。
 
 だいじょうぶだよ。だいじょうぶ。なっちゃんはだいじょうぶ。
 
 本当は、いちばん不安なのは母なんだろうと思う。だいじょうぶ。私がそう言ってあげたかった。

 あの子みたいに。

 あの子はどうしているんだろう。どこへ行っても、私みたいな泣き虫の子に寄り添っているんだろうか。あの子は誰だったんだろう。私はどうして、名前すら思い出せないんだろう……。

 
 だいじょうぶだよ。おもいだせなくても、わすれてしまっても。
 

 記憶の底に響いていたはずの声が、不意に私の心にこたえた。顔を上げる。抱きしめていた箱を持ち上げると、ずいぶんと軽くなっていた。

 蓋を開けてみた。声がそこから聞こえてきたような気がしたから。だけど箱の中には何もなかった。入っていたはずのバレエシューズも、リボンも、何もかもなくなっていた。

 バレエシューズはどこへ?

 机の上、下、まわり、部屋の床、棚の中、ざっと見わたした。ない。どこにもないのだ。もう一度、ぐるりとめぐらせた視線が、ベランダの方へすいよせられた。カーテンを閉め忘れている窓は、結露で真っ白に曇っていた。その結露の向こうに、何か、白い影がうごめいている。

 ゆらゆら、くるくる。くるり。

 うごめく影はレース細工のようで、さっき写真で見たシルエットと重なった。バレエの動きだ。

 私はたまらなくなって、窓をあける。冷たい空気が目をさして、思わずまぶたを閉じた。部屋中に冬が満ちていく。私は冬の真ん中で、ゆっくりと、目をあけた。

 さして広くはないベランダに、月あかりのスポットライトがさしこんでいた。

 真ん中で、ひとりのバレリーナがちょうどくるりと回ったところだった。

 私と同じくらいの年に見える女の子。頭のてっぺんでお団子を作って、白いタイツとスカートに月明かりを反射させながら、まるで水の中にいるみたいにして踊っている。音楽はない。彼女の踊りが音楽そのものだった。

 足元のバレエシューズが、ほこらしげにリボンのはしをゆらした。

 私のバレエシューズをはいたその子は、私の方を見て、ふっとほほ笑む。

 だいじょうぶだよ、と手をにぎってくれたあの子の笑顔が、あたたかな頬が、ひといきに思い出された。

 ああ、そうか、と思う。

 私のバレエシューズは、ずっと私に寄り添って、いっしょに踊ってくれていたんだ。

 そして私と同じ時間をかけて、押入れの中で大きくなって、そして、こんなに踊れるようになったんだね。


 年月が、体の冷たくなっていたところに染みこんでいく。バレエをやめて他のことを始めてしまったときも、それをまたやめてしまったときも。母と過ごした時間も、そうでない時間も。みんな、だいじょうぶだ、と私に語りかけてくれる。


 私は寒さも忘れて、しばらくそこに立っていた。バレリーナが泡のように消えて、ベランダにバレエシューズだけが残されたあとも、ずっと。


#リプ来た3つの絵文字でお話を書く  ❺
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