砂の女
高校生(中学生だったかも)の時にいちど読んだ安部公房著作の「砂の女」を読み返した。
あの時はおもしろさなんて全くわからなくて、砂に捕らえられた主人公のことを「カワイソウだな」としか思わなかった。塾の先生に勧められて読んだのだけれど、なぜそんな本を勧めてきたのか不思議で仕方がなかった。
22歳になったいま改めて読むと、悲しいほどに納得した。大変おもしろい小説だった。
高校生の頃に比べて読解力が上がった、と言えばそれまでだけど、
たぶんそうじゃなくて、消費社会・競争主義の疲れとか、情愛・性欲の愚かさとか、砂への憧憬みたいなものを、ちょっと学んでしまったからだと思う。
主人公が砂に惹かれてしまう気持ちなんてあの頃はわからなかったのに、
いまは地中、地表、空気中、ところかまわず這って回る形のない「砂」という粒子に私はひどく憧れる。
作中の「女」のへつらった態度も、諦めに似た希望も、場をわきまえない性欲も、理解したいものではなかったのに、いまでは哀しく感じる。自分が持って生まれた恵まれた環境のことを考えた。20年前に生まれていたら?違う国に生まれていたら?違う家庭に生まれていたら?大学に行けなかったかもしれないし、パソコンなんて持っていなかったかもしれない。明日食べるものに追われて暮らしていたかもしれない。「女」のように砂を掻き出し、ラジオを欲しがる毎日がデフォルトだったかもしれない。
フェミニズムを学んだ私はもはやその「男」に同情はない。
勝手に入り込んできたくせにあまりに傲慢すぎる。やるだけやって出すだけ出して、そのあともっともらしい屁理屈をこさえて勝手に白けて、文学作家気取りのただのナルシストだ。食事くらいきみも作れ。
彼の傲慢さはちょっと笑えてくるレベルで、昭和30年代にはこんな奴ばっかだったのかと思うと本当に「今の時代に生まれてよかった~」って感じだ。
ひとがどうしても誰のものにもならなくて、結局は他人同士であるということがひどく悲しい。
大事な人をとびきり大事にする方法がわからない。電波はメッセージを飛ばすけれど、虚しさが募るのは私だけか。
そんなことを考える初秋。
知らなかった感情を知ることはエキサイティングだけど同時にすごく恐ろしく、せつない。
おわり!