ゴドーを待ちながら

知ってる誰かに見せるとかっこつけてしまうしなにも話さないままではふわふわと消えていくのでここに書く。

2020年12月19日・20日、劇団アンゲルス本公演「おーい、ゴドーおーい」に参加した。S・ベケット作「ゴドーを待ちながら」をもとにした作品である。

「ゴドーを待ちながら」は1950年代にフランス語で書かれた作品。私の生まれる前。第二次世界大戦のあと。英語題は「waiting for Godot」

あらすじ(wikipediaより)
『ゴドーを待ちながら』は2幕劇。木が一本立つ田舎の一本道が舞台である。第1幕ではウラディミールとエストラゴンという2人の浮浪者が、ゴドーという人物を待ち続けている。2人はゴドーに会ったことはなく、たわいもないゲームをしたり、滑稽で実りのない会話を交わし続ける。そこにポッツォと従者・ラッキーがやってくる。ラッキーは首にロープを付けられており、市場に売りに行く途中だとポッツォは言う。ラッキーはポッツォの命ずるまま踊ったりするが、「考えろ!」と命令されて突然、哲学的な演説を始める。ポッツォとラッキーが去った後、使者の少年がやってきて、今日は来ないが明日は来る、というゴドーの伝言を告げる。
第2幕においてもウラディミールとエストラゴンがゴドーを待っている。1幕と同様に、ポッツォとラッキーが来るが、ポッツォは盲目になっており、ラッキーは何もしゃべらない。2人が去った後に使者の少年がやってくる。ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みるが失敗し、幕になる。

アンゲルスでは1幕のエストラゴンとヴラジミールを高校生の男の子2人で演じ、2幕はヴラジミールは男性が、エストラゴンをAとBに分けて女性2人で演じた。私は二幕のエストラゴンのB役。

廃墟は具体的に原爆の残骸という解釈で、後ろに大きなスクリーンを置き、原爆が落ちる映像などを流した。

稽古期間は約2ヶ月。とても難しいお話だった。終わった今も達成感がない。なにもつかめなかったし、苦しかった。

正直最初に脚本を読んだときわけが分からなかった。言葉が終始抽象的で、そして全体を通してなにも起こらない。これは舞台にするものだな、と思った。文字だけでは立体感がゼロ。

「ゴドーを待ちながら」のゴドーとは、「ゴッド」の暗示だ、という解釈が最も有力で、定説である。つまり2人の男は来るかもしれない神を廃墟の中で待ち続けているのである。
しかしながら、この作品はそういった定説に縛られない不思議な魅力を持っている。それぞれの劇団ごとにさまざまな解釈を付し、さまざまに演じることができるから、一見つまらない作品なのにいつまでも名作と言われているのである。
エストラゴンとヴラジミールはブラックの俳優にし2人は常に警官の銃の音に怯え、ポッツォを白人の俳優にした映画もあるという。(正直それは安易すぎるなと思った。アンゲルスの精神世界的な解釈のほうが好み。)


以下、私がやりながら感じたこと。作品に関しても、私を取り巻く世界に関しても、私に関しても。

・稽古に通いながら、わたしは常に「あー明日いきなり芝居がうまくなってないかな」とか「いいことないかな」とか、「晴れないかな」とか、そんなことばかり考えていることに気づいた。「応募したオーディション受からないかな」「インターン受からないかな」って、私は今を生きながら、未来に起こるであろう物事に期待している。なにか劇的な合図があって、私の人生が一変しないかと思っている。すべての事柄について、私はなにかを待っている。ひとつひとつの行動すべて、突き詰めれば良き未来のための行動であり、それがなにかに変わることを待っている。そしてそのすべての先になにがあるのか、それは「死」である。結局わたしは「死」に向かって生きているのであり、言い換えれば人類みんな「死」を待っていて、それが訪れるのを待つ間じっとしていては退屈なのでやりがいとか恋人とか、そういう暇つぶしをして時間を埋める。ディディが「われわれは、一見合理的に見えるがすでに習慣となっている挙動を行わざるを得ない」とゴゴに説く。我々は(わたしは)それをする必要がある、と思ってやっていることが、習慣となっていく過程に生きている。

・物事は「意味」や「解釈」を持たなければならないのだろうか。最後になにかが起こる必要がある、という芝居に慣れすぎた我々はなにも起こらない舞台に虚無を感じる(つまらないと感じる)。わたしは常に「なぜ」を考える。なぜ生まれたのか、なぜ死ぬのか。でもそんなのって別に考えなくても良いのかもしれない。すべての物事に理論付けしたり意味を付したりしなくても良いのかもしれない。動物のようにただ食べて逃げて死ねばいい。(動物だって考えているかもしれないけど。)

・わたしは(われわれ現代人は)もうなんの可能性もなく待つ、という行為ができない。「行きますよ」という知らせなしに期待することはできない。連絡手段もないのに待ち続けることはできない。ましてや廃墟の中で。
確信がないと行動できないのは特に私の悪い癖だ。可能性を信じることができない。


考えたこと、以上。

自分の芝居があまりに陳腐だった。

岡井先生(演出家)は最後のあいさつでこう言っていた。

「現代日本人は本当の悲しみなんて知らない。廃墟の中に立ったことなどない。日本の演劇人はともすれば顔を伏せて泣くけれど、両親が爆撃で殺された子どもに泣いている暇などない。自分が生き残るために前を向いて逃げまどう。」

つぶやいたり涙を流して悲しむことなんてだれにでもできる。俳優ならば、その奥にたどり着かなければ。
本当の悲しみは誰にも見られていないときに湧き上がるのだ。


むずかしく、たのしく、くるしいお話だった。

しばらくやりたくないがまたやりたい。

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