【短編小説/タイトルは..】
冷たい風が頬を撫でる中、公園のベンチに座る後ろ姿を見つめていた。
冬の薄暗い夕暮れの中、そのシルエットはまるで、大学時代のあの日々をそのまま切り取ったようだった。
名前を呼ぼうとして、声が出ない。
手のひらに冷たい汗が滲む。
彼女は振り返らない。
ベンチの傍らに置かれたコーヒーカップから湯気が立ち上り、その細い肩を静かに包む。
意を決して、呼び名を口にした。
「……ユウ」
その瞬間、彼女の肩が微かに震えた。
そして、ゆっくりと振り返った顔――それは、確かに彼女だった。
「……覚えてるの？」
彼女の目に浮かんだ涙が夕陽を受け、揺れている。
同時に胸が引き裂かれるような感覚が押し寄せた。
「私は……どっちなんだろうね」
その言葉が冷たい空気の中に静かに溶けていった。
第1章: 「消えた冬の日」
リビングの空気が冷たかったのは、暖房がついていなかったせいではない。
ストーブの赤い光が揺れているのに、部屋の中はどこか寒々しく、息苦しかった。
母の背中が小さく見えたのを覚えている。
その日は学校の帰り道に小雨が降っていた。傘を忘れた俺は、濡れたまま玄関を開けた。
「ただいま」
返事はなかった。
いつもなら台所から「おかえり」の声が聞こえるはずだったのに、家の中は静まり返っていた。
「おかえり」
ようやく聞こえた母の声は、どこか冷たい響きを帯びていた。
振り返った母の手には父のスマホが握られていた。
画面には、知らない女性とのメッセージが映し出されている。
『今日は楽しかった。また会えるのを楽しみにしてるね』
そんな言葉が並んでいた。
「これ……どういうことだと思う？」
母の声が震えていた。何も知らないふりをする俺に、答えは求められていなかったのかもしれない。
母の沈黙
その日を境に、家の中の空気が変わった。
母は父と言葉を交わさなくなり、食卓に座るたびに無言のままだった。
それでも俺の前では普通を装おうとしていたのか、優しく微笑みながら「勉強は順調？」なんて聞いてきた。
でもその瞳の奥には、どこか暗い影が漂っていた。
夜中に目を覚ますと、母のすすり泣きが聞こえることが増えた。
キッチンのテーブルにうつ伏せた母の背中は、まるで誰かに押しつぶされているようだった。
ストーブの炎が揺れているのに、部屋全体が冷えきっているような感覚が俺の胸に刺さった。
父との言い争い
ある晩、ついに母が父に問い詰めた。
「どうして……こんなことするの？私たち家族を壊したいの？」
母の声は震え、言葉にならない怒りと悲しみが混じっていた。
「そんなに大げさにすることか？ただの仕事仲間だ」
父の冷たい言葉がリビングに響いた。
俺は隣の部屋にいたが、壁越しに聞こえるそのやりとりに耳を塞ぎたくなった。
だが、耳を塞いでも声は止まらなかった。
母の叫び声と、父の無関心な返事が繰り返される。
「タカヤのために頑張ってきたのに、どうしてこんな裏切りをするの！」
「タカヤには関係ないことだろう」
母の声が嗚咽に変わり、リビングは静まり返った。
母の最期
ある朝、俺が学校に行こうとすると、母が小さな声で言った。
「タカヤ、大人になっても自分を守れる人になりなさい」
その一言が、母との最後の会話になるとは思っていなかった。
その夜、母は自分の部屋で静かに息を引き取った。
俺が見つけたとき、部屋の中は穏やかで、まるで眠っているようだった。
ただ、手の中には父の写真が握られていて、その頬には涙の跡が残っていた。
リビングにはいつも通りストーブがついていた。
だが、その赤い光は何の温もりも与えてはくれなかった。
父の再婚
母が亡くなった数ヶ月後、父は新しい女性と再婚した。
「タカヤ、これからは新しい家族と前向きに生きていこう」
その言葉が、どれほど空虚で無神経なものか、父は気づいていなかった。
俺は新しい家に移り住むことを拒み、高校卒業と同時に一人暮らしを始めた。
それ以来、父とは会っていない。
母の死を引きずりながらも、俺は自分だけで生きていく覚悟を決めた。
第2章: 「彼女がくれた光」
孤独だった大学生活
大学生活は、俺にとってただの延長だった。
人と交わらず、ひたすら授業を受けて帰るだけの日々。
サークルの勧誘にも興味は持てず、何度も話しかけてくる同級生の誘いもすべて断った。
俺が心を許せる相手なんて、この世にはいないと思っていたからだ。
家族からも見放されたような記憶だけを引きずり、人との関係を築くことを諦めていた。
唯一の居場所は、大学の図書館だった。
静かで、人と話さなくて済む空間。俺にはちょうどよかった。
ユウとの出会い
その日もいつものように図書館の隅の席に座り、課題に向かっていた。
黙々とノートに数式を書き込んでいると、不意に声をかけられた。
「この席、空いてますか？」
顔を上げると、茶髪のロングヘアの女性が立っていた。
「どうぞ」
俺は無愛想にそう答え、再びノートに視線を戻した。
彼女は「ありがとう」と微笑みながら、俺の隣に座った。
それがユウだった。
彼女は静かにノートを開き、何かを書き込んでいた。
ときどきページをめくる音が聞こえるだけで、俺たちの間には会話はなかった。
だが、隣に誰かがいるという感覚が、不思議と居心地悪くはなかった。
小さなきっかけ
次の日、同じ席に座っていると、また彼女が現れた。
「今日もここにいると思った」
彼女がそう言って笑うと、俺は少し驚いた。
「別に、ここが好きなだけ」
「私もここが好き」
それだけの会話だったのに、心の中に何かが広がる感覚があった。
その後も彼女はたびたび俺の隣に座るようになり、少しずつ会話が増えていった。
授業の話や、大学での些細な出来事。
彼女はよく笑い、俺の短い返事にも楽しそうに反応してくれた。
「タカヤくんって、不器用だけど優しいよね」
その言葉に俺は戸惑い、どう答えていいのか分からなかった。
二人の特別な時間
やがて、図書館だけでなく授業の後に一緒にカフェに行くようになった。
彼女はホットチョコレートをよく頼み、湯気を楽しむように手を温めていた。
「これが一番おいしいんだよ」
そう言って笑う彼女の顔を見ていると、自分もつられて微笑んでいることに気づく。
ある日、彼女がふと話し始めた。
「タカヤくんって、何か背負ってる感じがするよね」
「そうかな」
「うん。でも、無理に言わなくていいよ。私はただ、一緒にいられるだけでいいから」
その言葉に、俺は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
誰にも話せなかった母のことを、彼女には話してもいいかもしれないと思った。
心を開く瞬間
冬の寒い日、彼女と公園を歩いていると、思い切って言った。
「俺、母親を失ったんだ。父のせいで」
彼女は驚いたように足を止め、俺の顔を見つめた。
「……話してくれる？」
それから、母が父の裏切りに苦しみ、自ら命を絶ったこと。
父が再婚し、俺が家族というものを信じられなくなったことを話した。
声が震え、言葉が詰まりそうになるたび、彼女はそっと手を握ってくれた。
「タカヤくんがここまで頑張ってきたの、すごいことだよ」
その言葉が、俺の胸に深く刺さった。
彼女は泣かない。俺が泣き崩れそうになるたび、ただ「大丈夫だよ」と微笑むだけだった。
失った温もり
大学4年の冬、彼女は突然学校に来なくなった。
LINEも既読がつかず、電話も繋がらない。
授業が終わるたび、図書館に行けばまた彼女が隣に座っているんじゃないかと期待してしまう自分が嫌だった。
「忙しいだけだろう」
そう自分に言い聞かせながらも、不安が胸を締めつけた。
卒業式の日、彼女の姿はどこにもなかった。
あの冬の日を境に、彼女は俺の前から消えた。
第3章: 「交錯する記憶」
再会の瞬間
カフェのガラス越しに見えた彼女の姿を目にした瞬間、全てが止まったような気がした。
3年前の彼女と同じ茶髪のロングヘア、唇の下に並ぶ二つのホクロ。
間違いなくユウだった。
鼓動が早まり、手のひらに冷たい汗が滲む。
彼女のいるカフェに入るべきかどうか、足がすくむ。
もし話しかけて拒絶されたらどうしよう。
それでも俺は、意を決して扉を押した。
「久しぶり」
出てきた言葉はそれだけだった。
彼女は顔を上げ、驚いたように目を見開いた。
だが、その反応はすぐに冷たいものに変わった。
「誰ですか？」
その一言に、胸が砕け散ったようだった。
俺は何とか笑顔を作ろうとしたが、喉が締めつけられ言葉が出ない。
違和感
彼女は席を立つと、静かにカウンターに向かい、ホットチョコレートを注文していた。
俺は何も頼むことができず、ただその後ろ姿を見つめるだけだった。
彼女がこちらに戻ってくると、再び声をかけた。
「ユウだよな？」
彼女は眉をひそめ、警戒心を滲ませた表情で答えた。
「違います。私はユウじゃありません」
「でも……そのホクロ、それにその顔、声も」
言葉がうまく繋がらなかった。
彼女は一瞬だけ視線を落とし、ため息をついた。
「その人は……私の双子の姉です」
双子の存在
「ユウには双子の妹がいたなんて……聞いてない」
混乱した頭で、彼女の言葉を理解しようとした。
「姉のことを知っているんですね」
そう言った彼女の表情は、どこか寂しげだった。
彼女――双子の妹だと言うその人は、言葉を選びながら話し始めた。
「姉は大学生の頃に……とても苦しい経験をしました」
「苦しい経験？」
彼女は一瞬、視線を外して小さな声で続けた。
「電車の中で、痴漢に遭ったんです。それがきっかけで、心の病気を抱えるようになって……」
その言葉に、俺の記憶が彼女の苦しそうな表情に重なった。
そういえば、ユウはよく人混みを避けていた。
電車では俺の腕を掴んで、緊張した様子を見せていたことがあった。
そのときのことが、頭の中で鮮明に蘇る。
語られる姉の苦しみ
「その後、姉は家族とも疎遠になり、誰にも頼れなくなっていったみたいです」
彼女の言葉は続く。
「……でも、最期の方で少しだけ仲良くしていた人がいたって聞いています」
それは俺のことか？
けれど、その事実を今さら彼女に伝えるべきなのか。
俺の中で言葉が絡み合い、どうしてもその答えが出せなかった。
「姉は……その後、鬱がひどくなり、家を出てしまいました」
彼女の言葉の続きを聞くのが怖かった。
「そして、自分で命を……」
その瞬間、俺は椅子の背もたれに深くもたれかかり、視界がぼやけた。
心の奥にあった何かが音を立てて崩れていくのを感じた。
疑念と真実の入り口
その後、俺は彼女――ユウの双子の妹と名乗る人物と、言葉を交わすうちに少しだけ心が動き始めていた。
でも、どうしてもどこか違和感が残る。
本当に彼女はユウではないのか？
声、仕草、そしてあの笑顔――どれも、俺が愛した彼女そのものだ。
ある日、彼女と再び会ったとき、勇気を出して問いかけた。
「君の名前を聞いてもいいか？」
彼女は少し困ったように笑いながら言った。
「サクラです」
サクラ――でもその名前にも、どこか違和感があった。
第4章: 「交差点の記憶」
「あなたがタカヤさん……？」
初めて名前を聞いたとき、私は胸の奥で小さな棘が刺さるような感覚を覚えた。
姉の過去を詳しく知らない私にとって、その名前はどこか重たく、触れるのが怖いものだった。
それでも、私は話を聞きたかった。
姉が何を思い、どんな日々を過ごし、なぜ自ら命を絶つという選択をしたのか。
姉のことを知る唯一の手がかりが、この人だと思ったから。
姉と私の距離
ユウ姉さんは、私にとって少し遠い存在だった。
小さい頃から、私は姉の影に隠れるようにして生きてきた。
姉は美しく、頭が良く、誰にでも愛される人だった。
その反面、家族の誰よりも繊細で、時折見せる疲れた表情が印象的だった。
大学に進学してからは、姉と話す機会も減っていった。
「サクラ、あなたは自分の人生を生きなさい」
そう言い残して、姉はどんどん遠ざかっていった。
そして、姉が電車の中で痴漢に遭い、それをきっかけに心を病んだことを知ったのは、ずっと後のことだった。
その頃には姉は家族ともほとんど連絡を取らず、一人で生きる道を選んでいた。
彼の視点に触れる
タカヤさんの話を聞いていると、私は知らなかった姉の一面が見えてきた。
彼の言葉は途切れ途切れで、それでも姉への思いがあふれているのが分かった。
「ユウは、俺にとって光みたいな人だった」
彼がそう言ったとき、胸が締めつけられるような思いがした。
私は姉に何もしてあげられなかった。
でも、この人は姉のそばにいて、支えようとしてくれていた。
その事実が、私を不思議と安心させたと同時に、嫉妬のような感情も生んでいた。
真実の断片
タカヤさんと会うたびに、姉がどんな人だったのかを少しずつ知ることができた。
二人がディズニーランドに行った話、課題を一緒にこなした話、彼女の好きだったホットチョコレートのこと。
「ユウは、俺の母の話を黙って聞いてくれた唯一の人だったんだ」
彼のその言葉に、私は深く頷いた。
姉は、誰かの痛みを自分のことのように受け止める人だったから。
だが、タカヤさんが語る姉の記憶と、私が知っている姉の姿には、微妙なズレがあった。
彼が語るのは、ユウの温かい部分だけだった。
痴漢に遭い、PTSDと闘っていた姉の苦しみについては、一切触れられなかった。
公園のベンチで
ある日、タカヤさんが突然言った。
「サクラ、今度一緒に公園に行かないか？」
その提案に、私は戸惑った。
「どうして？」
「ユウと最後にデートしたのが、その公園だったんだ」
その言葉に、胸がざわめいた。
タカヤさんにとって、その公園がどれだけ特別な場所なのか、彼の表情から容易に察することができた。
その日は晴れた冬の日だった。
ベンチに座り、彼と並んでいると、彼の視線が遠くに向けられているのが分かった。
彼は誰を見ているんだろう。私はただ黙って彼の横顔を見つめていた。
謎めく一瞬
タカヤさんがふと口を開いた。
「サクラ、君が振り返ったとき、ユウに見える瞬間があるんだ」
その言葉に、胸が大きく高鳴った。
私自身も、どこかで姉に憧れ、姉のようになりたいと思っていた。
でも、それが何を意味するのか、このときの私はまだ知らなかった。
第5章: 「最後の記憶」
冬の空は低く垂れ込め、細かな雪が舞っていた。
公園のベンチに座るサクラの背中を遠目に見ながら、俺は大きく息を吸った。
彼女がふと振り返った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられた。
彼女の顔には戸惑いが浮かび、目が俺を探るように動いている。
「タカくん……？」
その言葉が耳に届いた瞬間、鼓動が高鳴った。
タカくん――それはユウだけが俺を呼ぶときに使っていた名前だった。
どうして、その名前を口にしたのか分からなかった。
目の前の男性を見た瞬間、口をついて出た言葉だった。
「タカくん……」
でも、その名前が誰のものなのか、どうして私がそれを知っているのか、分からない。
記憶の断片がちらついては消えていく感覚に、頭がクラクラした。
「サクラ……いや、ユウ？」
彼がそう言った瞬間、胸がざわめいた。
ユウ――その名前が自分の中で何かを揺さぶるのを感じた。
「私はサクラだよ」
そう答えたものの、声が震えていた。
蘇る断片
タカくん――目の前の彼のことをそう呼んでいた記憶が、かすかに蘇る。
一緒に笑ったこと、冬の寒い日に温かいココアを分け合ったこと、雪の降る夜に手を繋いで歩いたこと。
でも、なぜそれを思い出しているのか分からない。
私はサクラ。ユウなんて名前じゃない。
なのに、どうしてこんなにも胸が痛むのか。
「サクラ、君が振り返ったとき、ユウに見える瞬間があるんだ」
彼の言葉に、私は…胸にぬくもりが広がった。
彼女が小さく震えながら、目を伏せたのを見た。
「本当のことを知りたい。俺に君の過去を教えてほしい」
サクラはしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……私、ユウ姉さんのことがずっと羨ましかった」
そう切り出した言葉に、俺は耳を傾けた。
「姉は、みんなに愛されていた。でも、私はいつもその影に隠れてた」
彼女の声は次第に小さくなり、涙が一筋頬を伝った。
「でも、姉は本当はすごく苦しんでた。それを分かってあげられなかったのが、私には……」
その言葉に、俺は胸が締めつけられる思いだった。
彼女が話す「姉」と、俺が知るユウ――その両方が重なり、そして少しずつ違っている気がした。
ユウとの記憶
「ユウは、俺にとって大切な人だった」
その言葉に、サクラは顔を上げた。
「彼女は俺の孤独を救ってくれた。俺の過去を、何も言わずに受け止めてくれたんだ」
ユウとの思い出が、言葉と共に蘇っていく。
ディズニーランドでのデート、夜遅くまで一緒に課題をこなした時間、雪の降る日に手を繋いで帰った記憶――。
「彼女は、いつも笑っていた。でも、その笑顔の奥に何かを抱えている気がしてた」
その言葉に、サクラはふと目を伏せた。
真実の入り口
「タカくん……私、たぶん……」
サクラが口を開きかけた瞬間、彼女の目から再び涙が零れた。
「私がサクラなのか、ユウなのか……分からない」
彼女の声は震えていて、その姿を見ているだけで胸が痛んだ。
俺はそっと彼女の肩に手を置き、小さく頷いた。
「大丈夫だよ、サクラ……いや、ユウ。どっちであっても、俺は君のそばにいる」
彼女は小さく頷き、手を伸ばして俺の指先に触れた。
最終章: 「雪に残る足跡」
ベンチに座るサクラの姿を見つめながら、胸の奥がざわついていた。
彼女の横顔には、ユウの面影が滲んでいる。
その瞳が揺れ動き、何かを思い出そうとしているのが伝わった。
「タカくん……」
名前を呼ぶ声は確かにユウのものだった。
俺は彼女の隣に座り、静かに言った。
「サクラ……いや、ユウ。本当はどうなんだ？」
彼女は微かに震える声で答えた。
「私……自分でも分からない。でも、少しずつ思い出してるの」
断片的な記憶
「大学の頃……電車で痴漢に遭ってから、どんどん怖くなったの」
彼女が目を伏せ、ぽつぽつと語り始めた。
「夜も眠れなくて、誰とも会えなくなった。何度も病院に通って……そこで先生が言ったの」
彼女の瞳がどこか遠くを見つめる。
『新しい自分を作ることで、記憶を守れるかもしれない』と医師に言われた日のことが、かすかに蘇る。
「それで……サクラって名前を選んだのは私。ユウのままだと、生きていくのが苦しくて」
彼女の言葉に、俺の胸が締めつけられた。
「でも……それが本当かどうかも、分からないの」
彼女の声が震え、目に涙が溢れた。
サクラの葛藤
彼女が小さな声で続けた。
「もし私がユウだとしたら……私を選ぶ？」
俺は一瞬、言葉を失った。
目の前にいるのがサクラであろうとユウであろうと、どちらも彼女だと思えたからだ。
「俺にとって、君がユウでもサクラでも関係ない。君がここにいてくれるなら、それでいい」
その言葉に、彼女は小さく微笑んだ。
「タカくん……ひとつ思い出した」
彼女がポケットから小さなノートを取り出した。
「これ、大学の頃に書いてたもの」
ページをめくると、そこには震えた字で「また逢おうね」とだけ書かれていた。
「このノートを見たとき、何かが繋がった気がしたの。私は……たぶん……」
言葉を詰まらせた彼女の手が震える。
「でも、本当のことを全部思い出すのが怖い」
彼女がノートを閉じ、静かに口を開いた。
「もし、記憶が全部戻ったら……私は本当に私でいられるのかな？」
その問いかけが、空気に溶けるように響き渡った。
俺は何も答えられず、ただ彼女の手を握り返した。
雪が降り積もるベンチの上で、二人はただ黙って空を見上げた。
タイトル：雪の結晶
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