【短編小説/タイトルは..】

HSP愛着障害アート/るか先生

2025年1月20日 16:18

名前のない街

冷たい風が頬をかすめるたび、私は少しずつ息が詰まるような感覚に襲われた。

目の前の扉に手をかけながら、心臓が妙に騒がしい音を立てている。

幼い頃から何度も見たはずのその扉なのに、今日はなぜこんなにも重たく感じるのだろう。

木の扉には、ところどころ剥がれ落ちた塗装の跡があり、見慣れた無機質な風景の中にぽつんと存在している。

それなのに、その先に何があるのか、今の私は確信を持てない。

指先がノブに触れた瞬間、胸の奥でかすかにくすぶっていた記憶がひとつ、形を持って浮かび上がる。

母の声、小さな弟の笑顔。そして、あの夜、何もかもが途切れた瞬間。

「ここに入れば、何かが変わるのだろうか」

そう呟いた自分の声が、静まり返った街に吸い込まれていった。
扉を開ける勇気はまだない。

けれど、私は知っている。この扉の向こうにこそ、私が長い間忘れようとしていたものが眠っていると。

ただ一つ確かなのは――この先に待つ答えを知ることなく、私はこの街を離れることはできない。

1章: 「影の残響」

家の中には、いつも静寂が漂っていた。
微かに響く時計の針の音が、まるで心臓の鼓動と重なっているように思えるほど、私はその音に耳を澄ませていた。

母の声がどこかから聞こえる気がして、息を潜めたまま、目を閉じる。

冷たい床の感触が足の裏を刺し、部屋の隅で縮こまっている自分を、どこか他人のように感じていた。

カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中をぼんやりと照らしている。
その光が、私の手に握られた小さなぬいぐるみを優しく包み込んだ。

「それ、アオイのだよ」
幼い頃、母がそう言って手渡してくれたものだ。

母の手は温かく、その瞬間だけは、自分が愛されているような気がした。
けれど、その記憶もすぐにかすれていく。

弟のレンが泣き出し、母が私を置いてレンの元へ駆け寄ったあの音が、すべてをかき消していった。

記憶の匂い

レンが泣くたび、母が微笑むたび、私は部屋の隅でその匂いを感じていた。母がレンに近づくときの甘い香水の匂い。

それは、まるで私に「あなたはここにいなくてもいい」と告げるような匂いに感じられた。

ぬいぐるみの布地には、私の涙の跡が染みついている。

それをぎゅっと握りしめるたび、布の擦れる音が微かに耳に響いた。
その音だけが、私がまだここに存在していることを教えてくれているようだった。

温もりと冷たさ

ある日、私は母の膝に寄り添おうとした。

けれど、母は私を見下ろすだけで、その手を伸ばさなかった。

代わりにレンを抱き上げ、その額に優しくキスをした。
その光景は、私の目の奥に焼き付いたまま、決して消えることがなかった。

「アオイ、あんたはもう大きいんだから」
母がそう言った声が、今でも耳の奥で響いている。

それは、私が母の愛から遠ざかっていると感じた瞬間だった。
大きくなったからといって、私の心は母を求める幼い自分から変わらないのに。

孤独の痛み

家の中は、いつもレンの声で満たされていた。
私の声は、その中に消えてしまう。

母が私を見ていないと感じるたび、胸の奥で小さな棘が刺さるような痛みが広がった。その痛みは、成長するにつれてどんどん深くなり、私はその痛みに飲み込まれるようになった。

それでも、私は母の手を握る夢を見ることがあった。

夢の中で、母の手はいつも温かかった。
その温もりが私の心を満たしてくれるのに、目が覚めるとその手はどこにもない。

ただ冷たい布団の感触だけが、私の肌を包んでいた。

最後の記憶

レンが母と笑い合っている光景を、私は何度も目にした。

そのたび、心の中で何かが引き裂かれる音が聞こえる気がした。
私はその光景から目を背けたかったけれど、目を閉じてもその残像が消えることはなかった。

母の手に渡されたぬいぐるみをぎゅっと抱きしめるたび、その温もりと冷たさが混じり合う感覚が、私を過去に引き戻した。

「私はこのままでいいの？」と自問する声が、胸の中で幾度も反響する。

第2章: 「心の距離」

会社のオフィスの中で、私はひとり取り残されたような気分になる。
笑い声や会話が遠くで響いているけれど、その輪の中に入る勇気はない。

私のデスクは窓際にあるが、その窓の外を見ても、灰色のビルが並ぶ景色しか見えない。

「アオイさん、これ、お願いできますか？」
後輩の美咲が声をかけてくる。

彼女はいつも笑顔だ。
それが本物なのかどうか、私にはわからない。

手渡された書類を受け取りながら、「ありがとう」と小さく言う。
その声は、自分でも驚くほど薄っぺらく感じた。

人と話すとき、私はいつも相手の顔色ばかり気にしてしまう。

言葉の裏に何か別の意味があるのではないか、私の態度が相手を不快にさせていないか。

その不安が常に頭の中を支配している。

ランチタイムの孤独

昼休みになると、みんながグループになって談笑しながら食堂へ向かう。

私はその流れに乗れず、いつものようにひとりで席を探す。
誰も座らない隅の席に腰を下ろし、持ってきたサンドイッチを開く。

その味が口の中に広がるけれど、何も感じない。

ただ、咀嚼する音だけが耳に響く。

遠くの席で、同僚たちの楽しそうな笑い声が聞こえる。
彼らの会話の内容を盗み聞きするつもりはないが、自然と耳がそちらに向いてしまう。

「あの輪の中に入れたら、どんなに楽しいのかな」そう思うたび、胸の奥で何かが冷たくなる。

でも、私は知っている。
あの中に入る勇気も、自信も私にはない。

笑顔を作るのも、軽い冗談を言うのも、私には難しい。
それをしようとすると、言葉が喉に詰まり、結局、気まずい沈黙だけが残る。

帰り道の憂鬱

仕事が終わり、オフィスを出ると、冷たい風が頬を叩く。

駅へ向かう人々の流れに乗りながら、私はひとりで家路をたどる。
街の明かりが私の影を引き伸ばし、その影が孤独そのものに見えた。

ふと、足が止まる。

駅の近くの商店街に、母と弟と一緒に訪れた日の記憶が蘇る。

母が買ってくれた小さなケーキを、家族みんなで囲んだことがあった。
それが私の拾い上げた最後の家族との思い出だったような気がする。

自宅に帰宅するとため息と同時に「どうして私は、こんなにも人とうまく関われないのだろう」
その問いが頭の中を巡り続ける。

人との距離感がわからない。
母が私に冷たかった理由も、弟が優秀で羨ましかったことも、過去の全てが今の自分に絡みついて離れない。

それでも、明日はくる。
また会社に行かなければならない。

「幸せって、どこかな」
言葉は窓ガラスに反射して、心を振動させた。
震えた指先でティッシュを頬に当て枕に顔を埋めた。

第3章: 「母の祈り」

真由美の視点

夜の闇が家の中を包むと、私はいつもあの声を思い出す。
「お前は何の役にも立たない」と怒鳴る隆史の声。

頭の奥でその言葉が反響し、何もしていないのに息苦しさを感じる。
ベッドの隅で膝を抱えながら、震える自分の体を落ち着けようとする。

アオイとレンの寝顔を思い浮かべるたびに、胸が張り裂けそうになる。

子どもたちを守らなくてはならないのに、私は何もできていない。
ただ耐えるだけの日々が続いていた。

夫・隆史との生活

結婚した頃の隆史は、頼もしくて優しい人だった。
二人で未来のことを話すたび、私は胸が弾む思いがした。

アオイが生まれたとき、彼はその小さな手をそっと握りしめて、「僕たちの宝物だ」と言った。
その光景は、私にとっての救いのように思えた。

けれど、彼の仕事がうまくいかなくなり、酒を飲むようになってから、全てが変わった。

帰りが遅くなり、家の中で物が壊れる音が増えた。
そしてついに、怒りの矛先が私に向かうようになった。

「お前がダメだからだ」
その言葉を聞くたびに、私は無力感に押しつぶされそうになった。

食卓の皿が飛び散り、床に割れる音。

その音に怯えるアオイの泣き声が、私の耳に突き刺さる。

アオイを守るという決意

「ごめんね、アオイ」私は、彼女を抱き上げながらそう呟いた。
その小さな体が震えているのを感じたとき、私は自分が何をすべきかを悟った。

私がどんなに傷つこうと、彼女だけは守らなくてはならない。

レンが泣き出すと、隆史の怒りがそちらに向かうこともあった。
私は慌ててレンを抱き上げ、「もうやめて」と叫んだことがある。

その瞬間、隆史の手が振り上げられたが、私はその恐怖を見ないふりをして子どもたちを庇い続けた。

母としての苦しみ

それでも、私自身が壊れ始めていた。

日々の恐怖が積み重なり、心はいつしか動かなくなっていた。
アオイに何か言われても、その言葉が耳に届かないことが増えた。

彼女の笑顔を見るたび、私は自分がその笑顔を奪っている気がしてならなかった。

レンは手がかからず、私の心の支えになった。
彼の穏やかさに救われる一方で、私はアオイに向き合うことができなくなっていった。

彼女の目を見るたび、私は自分の弱さを思い知らされる。
だからこそ、距離を取ることでしか彼女を守れないと信じてしまった。

「ごめん、ごめんね、アオイ」
記憶の中の笑顔のあなたに触れたい、抱きしめたい。

最後の贈り物

ある日、私はアオイに小さなぬいぐるみを渡した。
言葉は何も添えられなかった。

ただ、それが私の精一杯の愛情だった。

その時のアオイの目が今でも忘れられない。
期待と不安が混じったような瞳が私を見つめていた。

私は微笑むことしかできなかったが、心の中では「どうかこれで彼女が少しでも幸せを感じてくれますように」と祈っていた。

隆史が家を出た後、私は自分がどうすればいいのかわからなくなった。

アオイとの距離を埋めることもできず、レンばかりに心を寄せてしまう自分に罪悪感を感じていた。

それでも、私はただ彼女の幸せを願うことしかできなかった。

第4章: 「名前のない街」

冷たい風が頬を撫で、私はその家の前で立ち尽くしていた。

長い間、目を背け続けてきた場所――母が最後に残してくれた家。
ここに来るべきではない、そう思いながらも、どうしても足を止めることができなかった。

扉に手をかけた瞬間、指先に伝わる冷たい金属の感触が、心臓をわずかに早くさせた。

ここに入れば、きっと何かが変わる。

でも、その変化が私にとって望ましいものかどうかはわからない。
ただ、立ち尽くしているわけにはいかなかった。

扉の向こうにある記憶

扉を押し開けると、ひんやりとした空気が私を包んだ。

家具は少し埃をかぶり、窓から差し込む光が部屋の中を柔らかく照らしている。まるで時間が止まっているかのような空間だった。

目の前のテーブルには、小さな木箱が置かれていた。
それを見た瞬間、胸の中で何かがはじけるような感覚がした。

足を引きずるようにして近づき、その箱をそっと開けた。

中に入っていたのは、一枚の紙と、小さなぬいぐるみだった。

ぬいぐるみは、かつて母が私にくれたものと同じだった。
紙を取り出し、その文字を目にした瞬間、涙が頬を伝っていくのを感じた。

「アオイ、ごめんね。でも、愛してるよ」

その短い言葉が、すべてを語っているように思えた。
母が私に向けてくれた精一杯の気持ち。

私はそれをずっと見逃していたのだ。いや、見ようとしていなかったんだ。

母の記憶

箱の底には、母の日記が入っていた。

それを開き、最初のページをめくる。
そこには、母の苦しみと、私たちを守るための戦いが綴られていた。

「アオイを抱きしめるたびに、私の心は安らいだ。だけど、隆史の怒りがアオイに向くのが怖くて、私はどんどんアオイから距離を取ってしまった」

母がどれだけ葛藤していたのか、どれだけ私を守ろうとしてくれていたのか、その言葉一つ一つが胸に響く。

私はこれまで、母の冷たさばかりを感じていた。けれど、その裏側にあった愛情に、今やっと気づいたのだ。

赦しと再生

涙で文字が滲む。

私はその日記を閉じ、ぬいぐるみを抱きしめた。
その感触が、幼い頃の母の腕の温もりと重なった気がした。

「ごめんね、ママ……。私も、気づいてあげられなくて」

過去の記憶が痛みを伴って胸を締め付ける。

けれど、その痛みの奥に、母が残してくれた愛が確かに存在していることを感じられた。

私はもう、自分を責める必要はない。
母も、私も、精一杯生きてきたのだから。

「名前のない街」は、私が過去に縛られていた場所だった。

でも、今は違う。

この街に、母の愛が残っている。

そう思えたとき、私は未来に向かって一歩を踏み出す勇気を持てた。

「ママ、大好きだよ」

線香の香りが柔らかく私を包んだ。

タイトル/記憶の中で咲く花

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