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【短編小説/タイトルは..】
病院の廊下はやけに静かだった。
消毒液の匂いと、遠くで響く機械の音だけが漂う中、私はひとりで歩き続けていた。
手の中には、薄いノート。
何度も開かれた形跡のあるその表紙には、私の名前がかすれた文字で残っていた。
「お母さん、これで伝わるかな……」
声に出したつもりだったが、聞こえたのはかすかな囁きにもならない風の音だけだった。
何かが胸の中で欠けている感覚。それが何なのか、まだうまく掴めない。
扉を押し開けた。
中に広がる柔らかな光の中で、母の寝顔が見える。
どれくらいぶりだろう。こうして母を近くで見たのは――。
ノートをそっと母の枕元に置いたとき、涙が一滴、私の頬を伝い落ちた。
それが母の髪に触れた瞬間、彼女の眉がわずかに動くのが見えた。
「ユウカ……?」
名前を呼ばれる声が、まるで記憶の中の風景に混ざり込むようだった。
その声に返事をしようとした瞬間、部屋の中に漂う光が一瞬で揺れ、消えかける。
「……これでいいの」
私はノートを見つめながら、ただそれだけを呟いた。
前編: 「揺れる記憶の糸」
朝の光がカーテン越しに部屋を照らしているのに、私はまだ布団の中で身じろぎひとつできずにいた。
昨夜の夢が、胸の奥に鉛のように沈んでいる。
幼い私と兄、そして母の三人が暮らす古びたアパートの小さな部屋。
窓の隙間から冷たい風が入り込み、母がそれを新聞紙で塞いでいたのを覚えている。
「ここを埋めれば寒くないでしょ、ユウカ」
母の指先は赤くなっていた。
それでもその手は温かく、私の頬に触れたとき、心まで温まるようだった。
ぬくもり
母がいつも作ってくれた薄味の味噌汁は、だしが少なくても、私にとっては世界一美味しかった。
食卓に並んだのは、母が近所のスーパーで安売りしていた魚の切り身。
それでも、兄は文句ひとつ言わなかった。
「お兄ちゃん、もっと食べなよ」
私が兄にそう言うと、ケントは笑いながらおかずを半分私の皿に移した。
「お前が食べなよ。俺、あんまりお腹空いてないからさ」
本当はお腹が空いていないなんて嘘だとわかっていた。
私の目を見て、兄はいつも笑っていたけれど、その笑顔がどこか痛々しかったことを、大人になってようやく理解できた。
兄の葛藤
ケントは優しい兄だったけれど、学校では苦労していた。
中学に上がった頃、兄は部活で使う道具が古いせいで、何度も仲間から馬鹿にされていた。
ある日、帰ってきた兄の手には穴の空いたバスケットシューズが握られていた。
「これ、もうダメだね」
兄はそう言いながら、笑った。
けれど、その手が震えているのを見て、私は何も言えなかった。
母の愛
夜になると、母は一人で家計簿をつけていた。
ペン先が紙を擦る音だけが響く部屋で、私は兄と二人、布団の中に潜り込んでいた。
「お母さん、大変そうだね」
兄が小さな声でそう言ったのを覚えている。
「大丈夫だよ。お母さん、いつも元気だから」
私の言葉に兄は黙り込んだ。彼の背中が少し震えているのを感じた。
ユウカの独白
今になって、あの時の兄の震える背中を、もっとちゃんと見ておくべきだったと思う。優しさの裏に隠された苦しみを、私は何も知らずにいた。
でも、どれだけ時間を戻そうとしても、それは叶わない。
兄も母も、きっと私の思いを知らないままだった。
ノートを開き、ゆっくりと文字を綴る。
「お母さん、ケント……寄り添えなくて、ごめんね」
涙がノートに落ち、文字がじわりと滲んでいく。
その模様が、どこか懐かしい光景を思い起こさせた。
中編: 「重なる影の先に」
夜の静けさが、耳に痛いほど響いていた。
ベッドに横たわりながら、私は天井を見つめていた。頭の中で兄の声がリフレインする。
「大丈夫、ユウカ。お前なら頑張れるよ」
あの優しい声。だけど、私は兄に優しい言葉を返したことがあっただろうか――。
回想: 兄との衝突
その日は仕事でミスをして、上司に叱られた帰りだった。
心がズタズタで、家の玄関を開けると兄がリビングのソファに座っていた。
「おかえり、ユウカ。疲れた?」
「……放っておいてよ」
声をかけてくれる兄に、私は苛立ちを隠せなかった。
「会社で何かあったのか?相談してくれたら――」
「いいから黙ってて!お兄ちゃんに何がわかるの?ずっと部屋に引きこもってるくせに!」
言い終わった瞬間、兄の顔が曇るのが見えた。
自分の言葉の刃が、兄を傷つけたのだと気づいた。でも、その場で謝ることはできなかった。
兄は何も言わず、静かに部屋に戻っていった。
閉じられるドアの音が、私の胸を切り裂くようだった。
兄の最期
数日後、兄は部屋で静かに命を絶った。
母がその姿を見つけたとき、家中に響いた悲鳴が耳に焼き付いて離れない。
「ケント……なんで……!」
私が駆けつけたとき、兄はもう動かない体で横たわっていた。
震える手で兄の頬に触れると、その冷たさに涙が止まらなかった。
「私が……私があんなこと言わなければ……!」
母は私を抱きしめ、ただ泣くだけだった。
責められることはなかったけれど、そのことがさらに私を追い詰めた。
夢の中: ユウカが兄になった瞬間
その夜、夢の中で私は兄の姿をしていた。
手元には車のハンドルがあり、隣には母が座っていた。
「運転気をつけなさいよ、ケント」
母の声が、どこか遠くから聞こえる。
自分が兄として運転していることが不思議だった。
そして、正面から大型トラックが迫ってきた。
ハンドルを切ろうとしても、手が動かない。衝撃が体に走り、視界が暗転する――。
「お母さん!ユウカ!」
自分の声が夢の中にこだまする。その瞬間、目を覚ました。
墓参り
兄の命日が近づき、母と二人で墓参りに行くことになった。
母は私を助手席に座らせ、母が運転を引き受けた。
「これでいいのよ、ユウカ」
母がぼそりと呟いた。その言葉に違和感を覚えたが、何も聞き返さなかった。
車を走らせるうちに、なぜか体が重く感じられる。そして、ふと気づくと、前方に大型トラックが迫っていた――。
後編: 「重なる夢の中で」
目の前に迫る大型トラック。母はハンドルを握る手に力を込めた。
「お母さん、危ない!」
隣の母は驚いたように私を見た。その瞬間、視界が白く染まり、耳鳴りのような音が響いた。私は車ごと闇に飲み込まれた。
目が覚めると……
目を覚ますと、私は病院のベッドに横たわっていた。
窓の外からは優しい陽の光が差し込んでいる。
周りを見渡すと、「母と父」が私の手を握っていた。
「ユウカ……よかった……」
母の涙で濡れた声が耳に響く。
私は一瞬、安心感に包まれた。
だけど、その光景の中で、何かが違っているような気がしてならなかった。
アキ
暗闇の中で、私は夢を見ていた。
夢の中の私は、亡くなったケントとユウカと一緒に車に乗っていた。
「ユウカ、そっちの道じゃないと危ないよ!」
ケントが大きな声で私に言った。
「ううん、これでいいのよ」
そう呟いた瞬間、大型トラックが突っ込んできて……。
ユウカ
私は病院のベッドに横たわりながら、涙が頬を伝うのを感じた。
目を閉じると、兄の笑顔が浮かんでくる。
「お兄ちゃん……」
手元のノートを開くと、そこには走り書きのような文字が残されていた。
「家族でまた逢おうね」
私はその文字を指でなぞりながら、静かに涙を落とした。その一滴が文字を滲ませ、ノートの上で広がっていった。
夢
目を覚ますと、私は病院の一室にいた。窓の外には柔らかな陽射しが差し込み、カーテンがゆっくりと揺れていた。
目の前には、警察官が立っていた。
「お母様……ユウカさんは……」
警察官の声は遠く、理解するのに少し時間がかかった。
娘が、ユウカがいない現実。
夢の中でずっと話していたような気がする彼女の声が、もう二度と聞けない。
そんな中、警察官が手渡したのは、娘のカバンの中から見つかったというノートだった。
震える手でノートを開くと、そこには最後の言葉が残されていた。
「お母さん、ケント、また一緒に笑おうね。必ず」
文字が涙で滲むのを感じながら、私はそのノートを胸に抱きしめた。
今夜も床につく。夢の中で二人の笑顔を描きながら。
タイトル:夢の編集どの世界線でもあなたに逢いに行く
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