セロ弾きのゴーシュ 8/17


セロ弾きのゴーシュ!セロ弾きのゴーシュ!


やってまいりました!
「セロ弾きのゴーシュ」!!!
前々乗りしたかいがありました。

舞台やミュージカルが元々大好きで、幼い頃から母の影響でコンサートやオケを見に行ってた&出ていたので本当に楽しみだった!
(2022年は8回、2023年も8回公演に行ってた)
音楽劇を観た時から、黎くんはとても舞台映えすると思っていた…。


今回はちょっと職業柄教材研究にも近いと思うんですが、
◎物語的読解と感想
◎ゴーシュの本質
◎夜の表現
◎動物との関わり
◎音楽的成長
このへんを私の視点として持ちながら書いていきたいなって思ってる。なんかないと収集つかず忘れちゃうので。

そして今回のnoteはれいくんのここが!とか
黎くんのこの仕草が!ではなくて、
ひとつの演劇としての感想を書きます✍️
黎くん含む出演者さんたちを通して見た
「セロ弾きのゴーシュ」の世界。
それが全てだと思うので。

⚠️一万字余裕で超えた。5時間かかった。



♩ワークショップ開始
まず観客の取り込みが上手いなぁと思った。
劇団員の方々が来てくれて、一緒にワークショップに参加して、まさか私たちを劇団員として入り込ませるなんてすごい新しいなぁって!途中の流れでも、猫さんがこちらに声をかけてくれたり、子狸さんが介入してきたりと、上手に子どもたちのことも巻き込むなぁって。

「作った君たちは楽団員だ!」から始まる
「あの子は…ねえ?」という流れがスムーズすぎる。没入感がいい。


                  「セロ弾きのゴーシュ」開幕



♩第0場面
人と交わらない、交われないゴーシュ。
出てきた彼の目は俯き加減で、自信の無さが伺えて、確かにあれで下手だとイラッとしちゃうかもしれない。
彼が弾くことになったときのセロの下手さ(これは赤ゴーシュさんが上手い!上手な人が下手に弾くのって難しいよね)。リズムバラバラ、音外れてそりゃあ言われちゃう。
ここで指摘されることが、動物たちとのやりとりに繋がるから、めちゃくちゃ大事な第0場面です。

①ドレミファから教える気はない
②セロが遅れる
③糸が合わない
④表情がない
⑤外の楽器と合わない

指摘出し

「お疲れ様でした!」と楽長に伝えるときの声がとても小さくてほとんど聞こえない。周りから声もかけてもらえない。
一人泪を流していく彼の姿はどうしたって苦しくて、だって毎日練習しているんだもの。認めてもらえないって苦しいね。心の中は燃えているのに。



♩幕が上がる
ゴーシュの後ろ姿から始まる。
肩を大きく揺らすゴーシュが印象的で、ここのゴーシュくんってなんか直情的!!って思ったなぁ。
自分が信じているのは楽譜で、楽譜しか見てなかった。
動物さんとのやりとりはオープニングとエンディングで違ったのでまた後日。

読み聞かせ方式もめちゃくちゃよかった。
原作を大切にしてることがひしひしと伝わって。


♩第一場面  「怒」


ゴーシュって別におとなしい人間じゃないと思ってる。基本的に感情直下型。沸点も低い。態度にすぐ現れる。
だから乱暴に棚からコップを取るし、水も"がぶがぶ"飲む。
焦りや不安の現れ。
そうすることで気を落ち着かせてる。
でも、大切なものは大切にする人。
セロだけは最初から最後まで優しく置くの。

練習する姿は目を皿のようにして楽譜しかみなくて、ここに彼の"元"が出ているなぁと思った。
オケでするのであれば、周りを見ないとなんですけど、彼が見ているのは楽譜であって、そこから広がる劇団員や観客のことは頭にないんだよね。
そこが指摘されてるところなんだけど、気づいていないのがゴーシュという人間で。それに誰も気づかせてくれなかったから(詳しく聞きにも行かない)から、ごうごうと弾くんですよね。音の圧。

ほんでもう一つが、曲の練習するときって同じところばかりを繰り返し練習するのが常なんですけど(ピアノ歴15年、母ピアノ講師)、"しまいまで弾くとまた初めにもどる"のは、彼が自分の指摘されている課題を自覚していないのが明確に出ているなって思った。
それがあの10数秒でも分かってしまう演技をしているのがすごいんだよね、黎くん。
彼のすごいところだよ。

🐈三毛猫さんの素晴らしさ
やーーー、腹たったなぁ!!!文面で見るとそこまでだったんだけど、めちゃくちゃ腹立ったなぁ?!?!
あの腹立つニヤニヤ加減最高だったなぁ?!
物を触ったり壊したりするときに、無我夢中でするんじゃなくて、ちらっちらゴーシュの方を見て顔色窺ってやんのがまた腹立つんだよな?!
それに困って踊らされてるゴーシュくん、上手だよ。
超腹立つよね、分かる。
セロだけは三毛猫さんに放られた時、大事に抱きしめるのが印象的だった。

「生意気だ生意気だ生意気だ!」の彼の連呼、とっても良かった。ひとつ増える度どんどんとあがっていく声量。
ドンドンドン!と足踏みをして音を鳴らす威嚇はさもあの楽長だよね。
自分がされたことを人にやり返したいんだもの。
全くもって、大人しい人間ではない。

そのあとのにやってした顔。
わっるい顔すんなぁ黎くん!ってなったよねぇ。
私が好きなのは真ん中の窓のカーテンを閉めるところ。あそこ照明と共にすごく綺麗だったんだよ。ほんでニヤッと笑った黎くんがまさに悪だくみを考えている黎くんで。超良かった。

印度の虎狩めちゃくちゃ怒りと揶揄いと猫にやり返してやるって気持ちがすごく伝わった。やり返しとはいえども、ちょっと楽譜じゃなく、相手を見る入口になったんじゃないのかなと思っている。

あと、マッチのくだりどうするんだろう?と思ってたの、ずっと。
さすがに煙草は無理だろうからなぁと思ってたら火を灯す形に変わっていてすごいなぁと思った!
そして超自然なの!
くるっと回った瞬間ついてるの!最高!
「具合悪くなったんじゃないか?」からあれに持ってくの悪いよなぁ???

最後の「ブワァーーーーカ!」めっっっっっつちゃよかった!!!「お前」呼びにもたぎった!!!最高なん?口悪い竹内黎(違います)大好き!!!!
あ!!あと灯して床に置いた火を、コクリコクリと寝落ちる時、一瞬の隙を狙って拾って場面転換の時に渡した黎くんはもうご立派で天才でした。

🌙
暗転する前こっくりこっくりと眠りにつくんだけど、この"眠りのつき方"も毎夜違ってきているので言及したい。
三毛猫の時は疲れ切ってやりきった後の、"落とされる眠り"だったなぁって思って。セロをやり切ったのではなく、仕返しをやり切ったが重要だと思ってます。
あと夜が明けてないというのもね。

🐈観客ではない
ごうごうと鳴らすことが強みとなるゴーシュにとって、トロメライはまさに真逆。ゴーシュの良さを知らず理解せず、タクト(指揮)を取ろうとする三毛猫さんは観客ではないわなぁ…。それに上から目線で「弾いてごらんなさい、きいてあげますから」で、寝そべっちゃうのは敬意がないわなぁ。(まぁだからこそゴーシュは三毛猫にしたことに謝らないんですが)

🎻感情を出す入口
感情直下型と書いたけれど、外では出せず自分の小屋の中、セロという媒介を通しての感情表現が初めてできたのでは?と思う場面。引き金は怒りだったとしても、表情をつけて弾いていたのは初めてでは?課題のひとつめの入口だったと思う。

♩第二場面 「哀」


まさかのオリジナル場面からで!
原作は夜に飛んでしまうから。
でもここがあることでゴーシュと劇団員との関係性がとてもよく分かった。
「アハハハハハハ!」って笑っちゃうおさげの女の子や、それをいつも「ちょっと!」って止める子や、ずっとゴーシュくんのこと心配してる子や、やっかむ子や、見下してる子。たくさんの人が周りにいる環境でどれだけ孤独にいたのだろう。
意地悪をゴーシュに聞こえているのにも関わらず続けるその雰囲気。
原作にはないけれど、改めてその良さをゴーシュがうつむいてセロを片付けているところ、辛くて悲しかった。落とした楽譜を拾う間もなく、何かを振り切るように走って逃げていくゴーシュが痛々しい。

家に帰ってまたごうごうと弾いてたときの、カッコウがやってきたときの「……?」からの「、、、」からの「ッ猫まだ懲りないのか?!」の移り変わりがとても良かった。
くるくる入ってきたカッコウは三毛猫と同じようで少し違う。
パタパタ飛んでバレエ要素も強くてとっても優雅で、素敵なカッコウだった。ひらひらしてて本当に飛んでいるみたいだった。教えをこうカッコウに最初は仕方なくしてあげてたけれど「あなたのは何か違う」と言われてカチンときてる様がとてもリアル。

怒ってしまって朝飯にして食うと伝えたときの、音楽とカッコウのダンスとゴーシュの慌てふためき方がとても恐ろしくて、ひとつの命が失われてしまうんじゃないかって思った。
音ハメでカッコウが窓ガラスに当たってしまうたびに血を思わせるヒラヒラ(語彙力)が出てくるのが痛々しくて。パッとジャンプしたカッコウを抱きしめてくるくる回るところがアイススケートみたいで美しくって。
何度も練習したんだなぁ…全幅の信頼がお互いにないとむりやんこんなん……ってなってました。

私はカッコウとゴーシュの関係性が一番好きなんですが、今回それがこんな形で見られて本当に嬉しいです。窓を割ると言う行動も、痛々しい相手を思って突発的に出たものであっても、それを行動に移せるまでになったゴーシュはやはり感情という面が出てくるようになったなと。そこが感情と、相手を思うのひとつの表れだと。(三毛猫のときは相手のことは全く思ってなかったので)

「出て行け」の言葉は、怒りではないんですよね。(ラストに集約して言及)

あ、あとカッコウさん🪶
ドレミファソラシド🎵と歌うところ、マチネではそのまま音階として歌っていたけれどソワレでは「カッコウ」の四文字を音階に合わせて歌っていてそれにおどろいた!そっちの方がイメージぴったりですごく好き!!それに途中の「ちがいます!」となっちゃう「かっかっかっかっ」ってなるところ、マチネでは上手で躓いたけどソワレでは下手でえずく感じでそこも変えるの?!ってなった。あれ、黎くんと息合わせないと視線が交わらないからすっごく心通わせているのだなぁと思いました。

🌙
この日は倒れるように眠ってしまう。心身共に(どちらかというと心)疲れていることが明確に分かった。課題に向き合いたくないが故でもあるのかなと。夜が明けてしまう前にこちらも眠りにつきます。

🪶教えを乞うているようで。
「音楽を教わりたい」とやってきたカッコウだけど、中身はそうでもなく、自分のドレミファの押し付けのようにも感じられた。それはカッコウ自身が歌い、奏でる立場の"演者"だからではないかなぁと。これが少し、楽団員たちと重なってしまった私がいる。
自分のピッチが正確で、私が正しくて、あなたは違っている。ドレミファにハマっていないと。
極め付けは「ぼくらならどんな意気地ないやつでものどから血が出るまでは叫ぶんですよ。」の言葉。これは、同じ土俵に立っている者しかいえないものであって、教えを乞う立場の物言いではないなと。

🎻音程の正確さと継続力。課題の自覚と焦り
まずは音程。
楽長に言われている音程そのものを詰めてくるところ。でも多分本人は気づいてない。一回二回のドレミファなら、弾くことができるから。10.20の縄跳びはできるけど
100、200は難しい。それと同じで。
それを継続して繋げることの難しさがここに出たんだなぁと思う。
できるだけ、長く、ずっと、それこそ「喉から血が出るまで」。
ラストの歌のときに「この腕が動く限り」という言葉が出てくるけれど、この継続力が繋がってくるんじゃないかな。
ゴーシュはそれをここで自覚したんだなと。でもそれを自覚するきっかけになったのは、自分が「第六交響曲と同じ」の揶揄ったカッコウで。

「カッコウは音楽は、はまっているのか」
「俺の音楽は、はまっているのか」
この言葉に尽きるのではないかなぁ、と思った。

前者は確信している。カッコウはハマっていると。
後者は不安の表れ。きっと問いかけている。
俺にはできているのか?と。
黎くんの歌うそのニュアンスがどうしてもこの形にしか捉えられなくて、私はとってもしんどくなったところです。
(最後に追記で。🐉に投影してしまいました)


♩第三場面 「楽」


子狸さんちょーーかわいい!!!
カッコウがシリアスに終わってしまって(しかも映されたイラストも目をぐるぐる回していて少し怖いの)、お子たちに可愛さと癒しをプラスしにきてくれた。(大きいお友だちもずっと可愛いって言ってた)。
中に入って聞いたりしてくれるのいいよね。参加型いいなぁって思い若干某アトラクション思い出した🧞‍♂️
ドアの後ろに立って「🤫しーっ」ってしてるの可愛い。

ゴーシュくん、この日のお水の飲み方変えてたよね?がぶがぶよりも少し丁寧でさ。
しかも練習の休憩ができてるって少し余裕を感じられるよね?それまで目皿にしとったのにさ。楽譜落としていったのが良かったのかも。
コップを持って子狸の前に立ったはいいものの、キョトンとしてる顔を前に吹き出しちゃう顔がまーーーじで!もう!本当に!最高なの!頬が緩んで敵対心がふっとなくなった瞬間だった。

「睡いんだよ」という言葉が本当に頑張っている人がこぼす「睡い」だったのがもう!寝て?!ってなったよね。
それでも付き合ってあげるゴーシュは優しいなと。
彼の本質を第一場面で話したし、この優しさを成長と捉えることも出来る。(というかそっちが多いかも)
でも私はなんとなく、子狸がゴーシュに向かう姿勢がそうさせるものなんじゃないかな?と思ってて。ゴーシュだって誰彼構わず気を荒立てるような馬鹿じゃない。
楽団員や楽長の前では大人しく振る舞うし、三毛猫を「ホーシュくん?」と言ったときの声はすがるような声だった。ゴーシュがもつ、相手にあわせる元の気質が少し出ているんじゃないかなと思ってます勝手に。

愉快な馬車屋はジャズで、第六とは程遠いものだったのでそれがまたゴーシュの気を緩めた原因の一つなのかなぁと思う。譜面を見て「なんだこれ!変な曲だなぁ!」と言った時の笑顔がまさにそれで。

二人で一緒に演奏する時の楽しそうな顔。カッコウのときのように同じことを繰り返すのにも関わらず、その時間はにこやかに過ぎていくのは、子狸の力じゃないかなと思った。
あとダンスが可愛過ぎたなぁ…ぴょんぴょんと後ろに下がっていくところ、マチソワで変わってたよね?回数。マチネは後ろが2.3回あったけどソワレは前にも向かうし後ろにも向かってたような…??あそこ可愛過ぎたので何度も配信で見ると思う。

最後、子狸が出ていってから見た空は、昨夜カッコウが飛び立っていった窓から見たもの。ガラスはまだ割れていて、そこから入る風から何を見たのかはわからないけれど、私はあのゴーシュはカッコウの姿を見たなぁと思ってる。星や月や朝焼けでなく、カッコウを通して、自分を見つめたのかなと。

🌙
元々微睡んでいた中でも子狸の登場で、最初は睡いと言っていたのにも関わらず、朝になるまで夢中になって音楽に没頭することができたところが転機だと。ここからちゃんと、"眠る"ということをし始める。それがないと、後で行う"健康な体でないと死んでしまうような印度の虎狩"が弾けないから。

🦝純粋な"観客"で"仲間"
子狸はずっと丁寧で、演者のゴーシュをずっと敬い、立てる。だからこそ、「僕が転びそうになるよ」と伝えたとき、ゴーシュはハッとしたんだなぁと。素直で純粋な子狸の言葉だからこそ、彼は受け止めることができたんだなぁと思って、それって成長?と疑問をもった。だって人って言われ方によって受け止めるかどうか変わるもん。セロが悪いと答えたゴーシュは、一見セロのせいにしたように見られるけれど、それにも子狸は「どこごわるいんだろうねえ」と溢す。純粋無垢ってこういうことかって。演者さんがうますぎるが故に本当にそう思えるし、逆にそこまで信じられると「自分かも?」と振り返る機会ができるのかもしれない。
それに、誰かと合わせようと意識するきっかけでもあるので、彼にとって子狸は、自分を見てくれる"観客"であり"仲間"なのかな。

🎻テンポ、癖、合わせること、そして反復練習
靴紐をひきずっているようなと指摘されたテンポへの自覚。セロの2本目が遅れてしまう癖を自覚したことが大きな成長の一歩だったんだなと思う!
でもゴーシュさん、「ゆうべからそんなような気がしていた」んだよね。カッコウさんに言われたドレミファの継続から気づいてたよね。でも認めたくなかったんだよね。
そんな気づいてるけど見ないフリをしていたソレを、子狸の練習に付き合うことで反復練習にもなったんだなぁって。何度も何度も練習している様子が見られたもんね。
練習に付き合うことから、狸の音を聞くようになる。
それが合わせるということで、外の楽器を聴けるようになる。
だから楽しいと思える。表情が豊かになるんだ。


♩第四場面 「喜」


来訪者の小さな音に気づき、優しく「お入り」というところから、彼の感性の範囲が広がっているなぁと思いました。
そして野ねずみさんのかわいさ!!えっぐ!!
かわい!!可愛いしか出てこん!!!!!!
(調べたらお母さんねずみさん、千と千尋の神隠しでてらっしゃった……そりゃあうまい……)

「治してほしい」と言われた時の慌てふためきようったら!自分に自信がないことが見てとれる表現。
声の震わせ方から、後退りの間、全部がいまゴーシュに大きく足りないものを明確に表しているなと思いました。

いやそれにしても狸の子が昨夜来た話をする時の楽しそうな顔ったら!めちゃくちゃ印象に残ってる。

「あなたの音には力がある」
「たくさんの人を」 という歌詞。
               ※このあと変化

自分の音に自信がないゴーシュにとって、様々な動物たちを知らず知らずのうちに助けていたということが、どれほど自信になったことか。あの戸惑った表情が良かった。
三毛猫にごうごうと真反対の音楽を求められたゴーシュが、今はそのごうごうさを求められていること。どれだけ喜ばしいことだったか。原本では何も書かれていないから分からなかったけれど、表現でここまで分かるんだ!と とっても奥深いなと。

野ねずみたちを慈しみ、思いやる心が出るところだったよね。でもさ、体調悪いって言ってる野ねずみの子をいきなりつまんで入れるかね?お母さんねずみをぐいぐいするかね?とか思って、やっぱ根本の雑さというか荒さはそのままで、わたしはなんか嬉しい。

ほんでここの表現の仕方超良かった!!!
スクリーンに映し出された弦を弾くところも、踵でリズムを取って爪先をあげるところも、ねずみのお母さんが頭入れて体とくっついてるところも!さいこうにかわいい!!

ラプソディーを弾いた後の、「お前たち、パンは食べるのかい?」がもう優しいよね。感謝をしてくれる人には優しくしたくなる。「待ってな」の声の優しさ。
まさか「ブァーーーーカ!」って言ってる人間とは思えない(笑)
それほどまでに、演じる・演じ分けるということの素晴らしさが分かる。


このあとの歌で変化した
「あなたの音には 心がある」
「救われたものが "ここ"にいる」

有象無象ではなく、正に"ここ"にあなたを応援する人がいると伝え、ずっと悩み続けた心を伝える。
それがもう、大号泣で。
自信のなかったゴーシュにとっての、大きな証拠となるなぁと感じて、涙が出た。良かったねって。

🌙
うとうとと眠りについてしまいそうなゴーシュ。時間はそこまできっと遅くない。ここにゴーシュの1日のルーティンの変化が見られるなぁと思いました。健康な体を作るため、集中力を高めるための、規則正しさを感じて。
そして眠りにつくときの、しっかりとセロを抱きしめたあの力強さが忘れられない。大好きで大切なセロ。片時も離れたくないよね。
原作ではねどこに倒れ込むのだけれど、この演出にすることで、音楽を愛しているゴーシュが伝わってきた。

🐁心を教えた 真の応援者
野ねずみはとても丁寧な言葉で、ゴーシュのことを先生と呼び、敬う。野ねずみがゴーシュに与えたのは自信で、心。人を思う心があり、表現できているんだという言葉。ファンという言葉にはなんとなく出来なくて、尊敬という言葉もなんだか私の中では違ってて。私の乏しい語彙力では出せなかったので、"応援者"としました。観客もなんだか違う気もしたので。

🎻感情、表現、心
とにかく!表情だ!と思いました。
1〜4場面でテーマを書いたのですが、あえて喜怒哀楽を当てはめるとここにはまるかなと。もっともっと複雑な気持ちが入り混じっているはずだけれど、でも人の感情の大きな柱はここではないかなぁと。そしてどんどんとゴーシュにとって難しい感情を表現できるようになっているんだろうなと思いました。
嬉しそうだったもの、ゴーシュ。
愛しむ顔をしてたんやもん、ゴーシュ。



♩第五場面


本番の日。ざわつく楽団員の中、黙々と準備をするゴーシュは、10日前のゴーシュとまるで違う。堂々としていて背筋も伸び、視線も上がる。
弦は合っているかと言われたときのまっすぐした目と、重みのある一音。
違いが明白でドキドキした。

始まった時、周りの楽団員の人たちが「……え?」とみんながゴーシュを見るところがとても好き。
それが2回あったのももっと良い。
二度見というより、二度確認。

「音楽が大好きだ!」の言葉に涙がぼたぼた。
大好きなの伝わってるよ。
人に伝わるの楽しいよね。
にこにこ笑ってるゴーシュがとても好きです。
嬉しそうにセロを奏でるゴーシュがとても好き。

見違えるほど良くなったゴーシュだけれど、中身が全てかわったわけじゃなくて。
アンコールと言われた時の不本意さが現れた表情と、沸々と燃える怒りがなんだか三毛猫と対したときのゴーシュが脳を掠める。

こいつら馬鹿にしやがって。
俺をおもちゃにしやがって。
なんの拍手だ?俺で遊ぶな。
あの時みたいに驚かせてやる。
仕返しだ。

ゴーシュにとっては同じ怒りかもしれないけれど、本人も知らないところで表現方法が変わり、技術力が向上し、まるで見違えて誰も拍手できないほどの演奏となる。

だからこそ呟くんだよね。
「今夜は変な晩だな…」って。

笑うんじゃないのか?
見て見ぬフリをするんじゃないのか?
いつもの反応じゃない。
前と同じことをしているのに。

彼が、彼だけが気づかない。
赤ん坊と兵隊ほど違う、自分に。

それは今までの積立があったからこそで。夜通し練習し努力して向き合ってきたからこそで。
ああ、泣いたなぁ。
赤ゴーシュと黎くんがぴったり合っていて、
それこそ左手も右手と動きがぴったりで、
本当に黎くんのセロから音が奏でられているようだった。
その、腕が取れるまで、ずっとずっとひたすらに潜るゴーシュに、黎くんを重ねてしまって、大号泣した。



♩終末


いつものようにがぶがぶ水を飲んだゴーシュ。
そこは変わらない。

見つめた先には、もうガラスも直った窓。
カッコウが飛んで行った遠くの空を見上げた一言。

「あのときはすまなかった。
    おれは…怒ったんじゃなかったんだ。」

ここです!!!!!!!!!!!!
そうここなんですよね?!?!?!

カッコウに怒ったわけではなくて、認められない自分が悔しかった。カッコウを馬鹿にしたはずの自分が、そのカッコウの方が音楽を音楽として楽しんでいることに焦った。
悔しかった。
でもそれを悔しいと認めたくなかった。
だから逃げた。
目を背けたかった。
ドレミファが自分のものではなくて、カッコウのものになっていくのが怖かった。
音楽にハマっているカッコウと、
そうでない自分が許せなかった。
自分がその場から逃げるのはプライドが許さなかった。
だから、威嚇した。
カッコウはただ音楽を愛していただけなのに。

ここが、もう、苦しくて。


少しだけ、龍宮城の黎くんを勝手に重ねてしまった。
なかなか決まらないデビュー。
オーディションで受からなければ辞めようと思った過去。
誰かにハマっている仲間。
誰かにハマらない自分。
努力しているのに、完璧に何手先までも見据えているのに。
あの8話がぐわーっと走馬灯のように駆け巡った。
デビューして、ちょうど良くなくて良いと分かり、仲間に出会えたけれど、都度あるオーディション。歌割り。最大限の努力と表現を持っていく。悔しさは幾度となく口に出たとMCで言っていた。それは無駄じゃない。
けれど、悔しい。
なんだか、勝手に、勝手にね?
私は投影してしまったんだ。
怒ってるんじゃないんだもんね。


宮沢賢治の構想の中では、初めはハッピーエンドで笑って終わる予定だったらしい。けれどそれを宮沢賢治は無くした。それにはやっぱり意味がある。

割れた窓はもう無くて、綺麗に修復されている。
何も感じないこともできるはずのその窓に、カッコウの姿を描くゴーシュ。
此処!
此処に!
彼の成長が見てとれるんだと思ってる。


それを見事なまでに演じた黎くん。
一人の人の人生を生きるってとてつもなく苦しくて悩んでいくけれど、貴方の中にゴーシュが生きていることが幸せです。
命を削って燃やして魅せてくれた夢の舞台。
ずっとずっと、大切にしていきたいです。


黎くん、出演者の皆様、制作陣の皆様
本当にありがとうございました。

また配信見てから追記したいな。


幸せでした

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