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炊き出しの「その後」

以前、路上生活者への炊き出し経験から、モラルハザードや炊き出しと私の今後の関わり方について考えました。
(一つ前の記事「モラルハザード-炊き出しの経験から考える-」参照)
 

 
昨年の秋に炊き出しを経験してから、15人ほどの周りの方に話したり、プレゼンのテーマとして取り上げたりして、様々な意見をいただきました。その中で、気づいたことや、自分の今後の方針が少し定まったような気がしたので、今回はそのことについてお話したいと思います。


目次
▶︎育ってきた環境の違い、未知なものに関心を持てない自分の性格
 
▶︎その人の立場になることと自分の立場で共感すること
 
▶︎お礼は当たり前じゃない-ボランティア活動のトラップ



理解するとは?-私が育ってきた環境と私の性格-

 

今回2回目の炊き出しのテーマでお話ししていくにあたり、私を取り巻いてきた環境と、その環境が構築してきた私の価値観と性格が大きく関係していると感じたため、まずは私自身について話したいと思います。

私は幼少の頃からお金に不自由を感じる生活を送ったことはなく、自分自身がとても幸せに暮らしてきていると感じています。中学校から私立に通わせてもらい、お金に関することで制限を受けた思い出は全くなく、習い事、留学、私立進学・・・むしろ好きなことをたくさんさせてもらい、買いたいものもたくさん買ってもらって生きてきたなと強く感じています。(現在進行形でそう感じています)
そして、褒められること、お礼を言うこと言われることが当たり前の環境で育ってきたため、私の中では、お金で不自由することのない生活と、感謝することが、ある種当たり前のものとして染み付いている部分がある気がします。

 

また私の性格としては、基本的に好奇心旺盛な方だと思っていて、現在も、教育支援、映画制作、バンド、研究、料理・・・いろんなジャンルに関わって活動しています。飽き性な性格と相まって、幅がとても広いです(笑)
ですが、未知のものに対して関心が持てないという気質もあります。これは最近、母と話している中で気づいたことなのですが、母に、「宇宙はどうなっているかわからないところが多くて、もしかしたら別の惑星に人が暮らしているかもしれないとか考えると、とても興味深いよね」と言われた時に、直感的に、「面白いけどあまりにも想像ができないがあまり、積極的に知りたいとは思えない」と感じました。


この点が、今回の炊き出しにも関連しているのではないかと思っており、不自由なく生活してきた私にとって、路上生活者の生活を想像することが難しく、関心を持つことができなかったのかもしれません。

 

このことを踏まえて頂いたアドバイス

ありがたいことに、相談できる人や的確なアドバイスをくれる友達や先輩や大人に恵まれ、多くの視点から考えることができました。その中でも印象に残った視点を記載したいと思います。


「私は本当に路上生活者問題を理解したいと思っているのか?」
「もしその問題に関わりたいとして、必ずしも当事者に対する支援だけが重要というわけではない」

 

順に説明すると、私の過ごしてきた家庭環境と性格を知っている人からすると、なぜ共感できない路上生活問題を、無理してまで理解しようとして、関わろうとするのかわからないということでした。確かに、炊き出しという初めての体験をして、HSPの性格と相まってすごく大きな衝撃を受けたとともに、その分だけこのテーマについて探求してきました。でも、今まで興味を全く持ってこなくて、関わっても興味を持てなかった(興味の有無で判断するのは良くない気がしますが…)ことにここまで固執している理由が何かと聞かれると、自分でもよくわからなくなっていきました。
また、路上生活者問題解決に対するアプローチをするとして、必ずしも炊き出しのような、当事者と関わる解決策しかないわけでもありません。例えば、路上生活者をこれ以上生まないための一次予防に携わることもできますし、路上生活者問題を広めるための活動をするという方法もあります。それを聞いて、ますます自分がなぜ炊き出しに固執したのかが分からなくなりました。



その人の立場になって理解することと自分の立場で共感できることは違う


 
これも人からいただいた意見の中で実感したことですが、私は自分の立場から路上生活者を理解することと、路上生活者の立場に立って彼らを理解することを同じものとみなしていた可能性があると感じました。これは、あくまで自分の価値観からしか彼らを見ておらず、例えば「お礼を言うのは当たり前」という私自身の価値観を押し付けた結果、お礼を言わない彼らのことを「理解できない」と判断してしまっていたように思います。
 
また、私が理解できないと思った彼らと分かり合い(そう見えただけで実際のところはわかりませんが)、意義を見出している同期のことも理解できないと感じていましたが、同期は、自分の立場ではなく、路上生活者と同じ視点に立って理解していたからこそ分かり合えていたのではないかと、半年経った今では思うようになりました。


お礼は当たり前じゃない-ボランティア活動のトラップ

 
相手の立場になってみようと考えた時に一番衝撃的であり、よく考えたら自分自身にも通ずるところがあるなと思ったアドバイスがあります。


「もし自分が路上生活者の立場だったら、大学生ボランティアに対して、感謝の念が湧いて有難いと思うことはできないと思う。」

 
これを聞いた時、衝撃を受けました。

内容そのものにも衝撃を受けましたが、この意見をくれた方は私と近いような境遇、つまり比較的お金に余裕を持って生活している人であり、礼儀を大切にする人だからこそ、自分と同じ意見(感謝し合うことが当たり前である)を持っていると思ったからです。また私は、HSP(詳しくは、初回記事「私について」をご参照ください)の特徴の一つ、繊細であるが故に、他人の気持ちを汲み取りすぎてしまう気質を持っているため、他人の気持ちは人よりもわかっているつもりでいました。だからこそ、自分の価値観を押し付けてしまっているだけだったと気づいたこの時の衝撃は計り知れませんでした。

でも、よく考えてみると、自分が常日頃考えていることと重なる部分があると感じました。

「心に余裕がないときは、人に感謝している心の余裕なんてない」
「綺麗事が嫌い。綺麗事を言えるのは、所詮心に余裕がある瞬間だけ」

 

私は、他者と感謝をし合うことが当たり前の環境で生きてきた人間なので、日頃からよく感謝を伝えるし、周りにもそういうことが当たり前になっている人間が多いと感じます。そんな私ですが、心に余裕がなくなった時には当然人に感謝なんてしてられなくて、自分のことで精一杯になるし、それどころか優しさが逆に苦しくて八つ当たりすることさえあり、自己嫌悪に陥ります。

 つまり、どんなに感謝が大事だと思っていても、それは心の余裕があることが前提で、それを失ってしまった時にも感謝できるほど素敵な人間には私はなれないなと常に思っているわけです。逆に、「辛くても人への感謝を忘れずに」なんて綺麗事すぎるので、そんなことを言える人間でなくても悪いことだとは全く思いません。本心でこう思える方は素敵だと思いますが、他人にそれを押し付けた瞬間、それはただの価値観の押し付けに変わってしまいますしね。

 

この点を常に考えている私が、路上生活者の感謝問題に対して悩んでいたというのはなんだか矛盾のような気もしますが、全く相手の立場に立てていなかったのだなと実感させられました。

  

でも、これに関しては、私だけではなく、他の若者も同じ経験をしているようですので、紹介したいと思います。

 

(以下、文春オンライン「褒められて育った子が災害ボランティアをすぐにやめる理由…綺麗事ではない理不尽な世界を生き抜く知恵の不足」より引用)

 

・「同情や善意だけでは理不尽な環境を乗り越えられない」
→キラキラした瞳で「被災地を助けたい」と両手に同情と善意とを抱えて悲惨な現地に行った若者が、理不尽で不合理な現実に打ちのめされて死んだ魚の目になって帰ってくる

・何かしてあげて、素直に「ありがとう」と返してくれる人が少数であったとしても、あるいは、挨拶をしても無視してくる人たちが仮に過半だったとしても、気持ちの続く限り何かをしてあげ続けなければならないし、皆さんに挨拶やお声がけを繰り返す必要がある

 

この2点は、本当にそうだなと共感しました。
特に私の周りの子達は、私と同じ境遇で育ってきた人も多いことでしょう。
存在自体の否定、身に覚えのないことで叱責、本人なりに頑張っているのに感謝されないどころかまったく認めてもらえず、新たなしんどいタスクをどんどん要求されたりする。(引用)こうした経験がないからこそ、誰かの役に立ちたいという心の余裕と善意を持ってボランティアに向かう人たちがいる気持ちはものすごくわかります。でも実際の現場は、自分が生きていくのに精一杯だったり、明日をつなぐのに必死の人々なわけで、感謝の関係性が成り立つと考える方が不自然です。

 また、「ありがとう」/感謝が当たり前になってしまっている私たちだからこそ、「ボランティアで助けに行く=感謝される」だと勘違いしてしまうわけですが、これはあくまで自分の価値観であり、相手の立場になって考えることが欠落してしまっているのだと思います。

 

ただ、この点に関しては、テレビの報道の仕方などにも問題があると感じます。

「印象操作」という言葉がありますが、ボランティア活動も映し出される部分は本当にごくわずかです。そのわずかな場面で感謝されるボランティアの人が映し出されるため、私を含むボランティア経験がなかった人々に「ボランティア=感謝されるもの」という印象が染み付いてしまったのだと思います。


ここまでたくさんの有難いアドバイスと共に長々と述べてきましたが、最後に、素敵な言葉を贈っていただいたので、それを紹介して終わりたいと思います。


「ボランティアだけでなく、いろんなことで衝撃を受けて葛藤することもあるだろうけれど、理解できないことが世の中に存在することを自覚すること自体が大きな成長の一歩だよ」
 

 

私と同じように、理解できないことに苦しむ若者達にもこの言葉が届きますように。

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