ダンス事始め日記 Ⅰ 「無くてはならない異物の存在」
前回書いたような経緯により、有志でコンテンポラリーダンスを続けよう!と始まった<das Leben ist der Tanz>。長いし発音できる気がしないので、以後、レベタンと略します。(さっそくかっこよさを脱落して実用化…)
レベタン第一回は、講師の栄ちゃんが住む望月の公民館をお借りして実施した。久しぶりに集まったメンバーは4人。もともとダンスと近いところにいるカーコさんはいつも通りしなやかそうだったけれど、年末小指を骨折していたアイちゃん、いつもぽわんとしていて独特の世界観が魅力的なノジ、そして仕事や家事に追われてほとんど身体を動かせていないのに慌てて3日前からストレッチを始めた私は、みんななんだか身体がバキバキ。
雑談をしながら指をマッサージしたり栄ちゃんに教えてもらって足つぼを刺激したりするところからスタートした。
(ここまで、ほぼ高齢者向けの健康体操教室。)
「さわる」
そしてまず始まったのは、からだを「さわる」というセッション。二人一組になって一人が横たわり、もう一人がとにかくからだじゅうを触っていくというもの。市民講座でもじっくりゆっくり「さわる」ことの心地よさと少しの気恥ずかしさを知っていたので、ああ、アレね、と思いながら私はペアになったアイちゃんのからだをすこしずつ触っていく。
びっくりするほどくすぐったがりぃのアイちゃんは、太ももをさわっただけで「キャハハ」と可愛い声で飛び跳ねた。(断っておきますが、決していやらしい触り方はしていません)
「しっかり力を込めて触ったほうがくすぐったくないよ」
という栄ちゃんの指導(?)をうけ、しっかりしっかり押し込んでいくように触るけれど、それでも飛び跳ねるアイちゃん。
「実はこしょばいから普段からマッサージとかも無理」という。
人によって、同じ「さわる」でも感じ方は人それぞれだ。私はマッサージが大好きである。
からだを他者に対して閉じているひと、最初からオープンなひと、さわってみるとそれがなんとなくわかってくる。特に日本人は他者と触れることに慣れていないので、赤の他人と「さわり」合うということにある種の恐怖や戸惑いを覚える人も多い。
アイちゃんに体中触られてもまったく気にならないし、むしろ心地よかった私は、割と他者に対しても身体を開いている方なのかもしれない。
…と思ったけど、私はハグの文化にはなれない。インドにいた時、初めて出会った人とハグやキスをする文化になれなくて、ドギマギしたのをよく覚えている。
でもそれは、多分意識が自分に向いていたから。かっこよくスタイリッシュに振る舞えているか、気になって仕方がなかったのだ。でも実は、シンプルに相手のことを感じようと思ったら、そんなことはどうだっていい。
シンプルにそれだけをハグに込めればいい。
考えてみると、ダンスをしている人は手を握ったりハグしたりをする人が多い。そして、それが全然いやらしくない。この前遊びにきてくれた夫の同僚(ダンサー)も、ごく自然に握手をしたりハグをしたりしていた気がする。憧れるんだよな。私もあんなふうに包容できる人になれるだろうか。
もしかしたら、「さわり」合うコミュニケーションのハードルがもう少し下がり、日常的にお互いのからだを感じることができたら、心が痛む性犯罪なども少なくなるかもしれないよね、と誰かがいって、もしかしたらそういうこともあるのかもしれない、と私は思った。
「あずける」
次にやったのは、二人一組でからだに乗っかり合い、力を完全にぬいて、下になった方の人が回転することで相手のからだも動かしていくというセッション。下になる人は、いかに力を抜いた状態で相手のからだを捉えて動くかというのがキーになる(たぶん)。傍から見ただけでは全然違いがわからないのだけれど、力を入れている状態と力を抜いて相手とぴったりと接触している状態は全然違う。上になる方も、力が入っていると相手のからだにフィットしないため、下の人の動きに置いていかれ、全体としてぎこちない壊れた機械みたいになる。
お互いのからだを相手に預けることができるとうまくいくのだけれど、その「あずける」ということの難しさよ。
市民講座でやっていたとき、からだを動かすときに、なめらかに動けるように螺旋のイメージを持つというのが幾度となく出てきたけれど、それと同じように自分のからだと相手のからだと見えないその先が繋がっているような、そんなイメージかもしれない。
指先にあらわれる個性
そして次にやったのは、これも市民講座のときにやった、手のひらと手のひら、または指と指を接触させ、主体でも客体でもない状態でともに動く、というもの。
ここで面白かったのが、指先にその人が完全に現れる、ということ。誰とでも違和感なく吸い付くように指先をつけたまま動き続けることができるというすごい仲良し能力を持っているノジ、誰と触れ合っても繊細で優しい印象を相手に与えるアイちゃん、相手によって注意の度合いを調整し、積極的になったり弱めたりと職人のように指先を操るカーコさん。
指先の一点を触れ合っているだけなのに、すごい、みんなの個性が溢れ出ている。
採用担当の面接官の皆さん、個性って、指先で判別できるんですってよ!
無くてはならない異物の存在
続いて、指と指にペンを。ペンを入れた。
どういうことかと言うと、それまで指と指でつながっていたその更に間に、ペンを挟んだ上で、同様に主体でも客体でもない状態で相手を感じながらともに動くのだ。
指と指で直接つながっていたときと違って、明らかにみんな集中力が増し、空気がピリリとする。少しでも意識をそらすと、ペンの向こうにいる相手の存在を感じ取れなくなってしまい、すぐにペンを落としてしまうことになるからだ。
ここで本日のハイライト降臨。
講師の栄ちゃんは、一回ペンを挟んだあと、意図的にもう一度ペンを抜いて指先同士のコミュニケーションに戻し、そうしてあからさまに言った。
「明らかに今、空気がゆるんだよね。あーペンなくなったからどうでもいい、なんでもいいってなったよね」
からだとからだが直接つながるときよりも、異物を間に挟むことによって緊張感が生まれ、より繊細なコミュニケーションが可能になっていたのだ。
これ、もすごく示唆深い。本日のMVP。
人と人の関係においても言えることはあるかもしれない。家の中で直接つながっている家族同士よりも、壁を隔てて違う家に住んでいる誰かとの方が、隔てるものがあるからこそ、かえって繊細なコミュニケーションができたりする。家族だからと甘んじていると、感覚は雑になり、わずかな相手の変化を見逃してしまうことが往々にしてあるのはこのためか。
もしかしたらこれ、家を国に置き換えても同じことが言えるかもしれない。
異物、大事!!
あれ、この思考、どこかで…
そうだ、1年前、オンライン講義で読み切ったメアリ・ダグラスの「汚穢と禁忌」である。かなり難解な書籍なので、一言では言い表せない内容ではありながら、組織や共同体の秩序を維持するために、あえて「汚穢」という観念がそれを支えるという話が登場した。生と死を究極的に統一する逆説の儀式として演出される「汚穢」。
特に印象に残っているのは、スピアマスターの話である。ディンカ族において、スピアマスターは世襲による祭祀の一族で、本来もっとも汚穢から遠い領域にいるべき存在。しかし、そのスピアマスターが自ら主体的に死を決断することによって、死から不確定性を奪い、それを通じて「生」の本質を共同体に教えるというのだ。共同体の秩序をを支えるための「汚穢」のあり方の1つとして、この話は非常に印象深く私の中に残った。
ペンという異物を他者の指と自分の指の間に挟むことによって感じたある種の「秩序」から、この指と指の間のペンが、メアリ・ダグラスの言う「汚穢」なのではないかと私は感じてしまった。
飛躍しすぎかもしれないけれど、からだを使って感じることはあらゆる思考を刺激する。勝手にダンスを人類学に繋げた第1回。
どれくらい続くか見ものだな、と思ってるそこのあなた。見てろよ〜すごいおどってしまううんだからな、わたしたち!
次回も乞うご期待。