はるるん、歩くべきかどうか問題
実はここ最近、ハルはインドの薬への移行とともに、もう一つ大きな問題に直面している。
補装具の提案
1ヶ月ほど前、タマンナのリハビリで、足に補装具(足を正しい方向に向けるようサポートする器具)をつけたほうが良いのではないかと提案された。
両足の長さが違ってきてるのも気になるし、一度整形外科医に見てもらってきてね、とOTの先生に言われた。OTのハルミットは、ゆくゆくは立つ練習をし始めることを考えると、足を真っ直ぐに矯正する必要があるし、将来的には胸の補装具も必要になってくるかもしれない、といった。
うん。いかついよね。いかつすぎる。。。ぶるぶるっ。
日本では補装具はまだいいんじゃないかと言われていたし、そもそも靴を履くのさえすごく嫌がるハルだから、こんなゴテゴテの補装具なんて嫌がるに決まっている。(つけたくない)とハルが言っているかどうかはわからないけれど、ぶっちゃけ引き気味の私。
ただ、整形外科医に見てもらえるのはいいチャンスなので予約をとった。
そもそも日本では、リハビリ訓練を受けるにはリハビリのドクターから処方箋を出してもらう必要がある。ところが、タマンナでは診察は特になく、いきなりリハビリが始まった。むしろ今までドクターの関わりがなかったのがびっくりなぐらいだ。
リハビリのゴールを本人・家族・支援者で共有することはとても大事なことだと日本にいたときから思っているのだが、日本でもインドでも難しさを感じている。タマンナでは心理士とのすり合わせが丁寧にあったが、それを他のセラピストたちと共有できているかはとても怪しい。たぶんできていない。そしてセラピストの価値観がトレーニングには露骨に反映されているように感じる。
だから整形外科のドクター受診は、今のリハビリをきちんと評価してもらえる良い機会かもしれないと思った一方で、半分はセラピストと同じように歩くことを目指していかつい補装具をつけろと言われるんだろうか、と少し不安もあった。
Dr.パッドマンとの出会い
予約当日、お会いした整形外科医のパッドマン先生はとても温和で人間味のあるドクターだった。そしてすぐにこう切り出した。
「彼女が歩けるようになるとは思えないよ。それより、車椅子で生活することを前提に、車椅子に座って生活するためのバランスを考えてあげていったほうがいい。」
ずばっと言うのに嫌な感じがしないのは、誠実さが為せるわざか。
「あの、でも、スペシャルスクールのリハビリの先生は、歩けるように練習したり一人で座る練習したりしていて、ハルはすごく泣くんです。彼女には実績もあって、脳性麻痺の子を長年ケアしてきていて、実際に歩けるようになったり座れるようになったりした子もいるので、私も彼女のやり方をしばらく見てみようと思っていたんです…」
「歩けるようになるっていったって、機能的な歩行は不可能だよね。彼らが言う“歩けるようになった”は、あちこちに補装具をガチガチつけて、二人がかりで支えて、ようやく5歩だけ歩けた、というレベルだよ。それに一体何の意味があると思う?それよりも、この子が車椅子でどう生活していくかを考えるほうがよっぽど建設的だと思う」
パッドマン先生は饒舌に語った。そして私は、なんだかとてもホッとした気持ちでそれを聞いていた。うんうん、そうだね、そうだよね。やっぱそうなんだよね。あんなふうにハルを泣かせ続ける必要はもうないんだよね?
パッドマン先生は続けた。
「これが、インド人の家族だったら、とてもじゃないけどこんなふうにはストレートに話せないんだ。歩けるようにならない、なんて言ったら怒って帰ってしまうだろうよ。インド人は健常に近づけるかどうかということをとても重視していて、セラピストも家族もね、これは社会的な問題なんだ。」
私も夫も、うんうん、と何度も深く頷きながらパッドマン先生の話に耳を傾けた。タマンナでずっとリハビリの間中泣き続けるハルを見る辛い気持ちが、なんだかストンと落ち着いた気がした。
無理しなくていいんだ、と、肩の荷が下りたような、そんな気持ちだった。もちろんいろいろな良い変化もあったし、一概に今のリハビリが悪いとは言えないと思う。だけど、3ヶ月通ってもハルはリハビリの間激しく泣き続け、それを見守っているのは正直とてもつらかった。私は別にハルが歩けるようにならなくても別に構わない。私のゴールはただ、ハルに幸せに毎日を過ごしてほしい、ということだ。ゴール設定がハルミットとはずれている、と思った。
「膝上までの補装具は必要ないし、カエル足になってしまうのも、車椅子で座るバランスを考えるとそんなに悪いことではない。もし必要なのだとしたら、足首につける小さな補装具くらいかな。」
パッドマン先生はそう言って診察を終えた。私達は大きな安堵感とともに病院を後にした。私たち親の気持ちが(たぶんハル自身の気持ちも?)肯定されたような気がした。
ドクターとセラピストの相違
しかし、である。
ドクターの話をタマンナでハルミットに(つたない英語で)伝えるも、彼女のやり方は変わらなかった。
「これは個人的な意見だけど、」と一応前置きはしたものの、「すべての子どもは立つべきだし歩くべきだと思う。」とハルミットは言い切った。
「すでに座る練習を始めているし、これは意味のあることよ。泣くけれど、運動をするのは硬直を防ぐためで、絶対に必要なものだしね」
もちろん、それはわかっている。だけど日本では、同じようなエクササイズを泣かずにできていたのだ。
ここで、ハルミットとの間の問題は2つあると改めて認識した。
1.ゴール設定がずれている
ハルミットは一人で座らせたいし一人で歩かせたい。私はハルが快適ならそれでいい、もちろん座れるようになったら素晴らしいけれど、それがハルにとってとても苦痛を伴うものだったり機能的ではないものだったら、それは辞めたい。
2.やりかたが強引
当初から伝えていたことだが、まずハルにとって、このリハビリの場が楽しい場所であることを理解させて、この場所を好きになってもらってからでないと、効果的なリハビリは期待できないと私は考えている。ところが「ゆっくり遊びを取り入れてスタートして」という私の訴えに対し、ハルミットは数分のプレイタイムを取り入れただけ、あとは毎回特になんの最初の導入もなく、いつもガシガシトレーニングを開始する。
戦うべきはインドの価値観?
ゴールを共有したいの、と伝えてもあまりハルミットには響かないし、ドクターに電話して直接話しをしてみて、と言っても忙しさを理由に電話をしてくれない。担任の先生に相談しても、「ママ、希望を捨てちゃだめよ。ドクターに歩けるようにはならないと言われても、歩けるようになった子が何人もいるわ。ほら、たとえばあの子は数年前はハルと全く同じようだったのよ」と言って指差す。「今泣いて将来で笑うか、今笑顔で将来泣くか、どっちがいいと思う?ママ、強くならないとだめなのよ」とさえ言われた。
紹介された子は確かに首を持ち上げ、声に反応し、ゆっくりとポールに捕まって歩いていた。
だけどここで私には2つの異議がある。
一つは、「ハルにとって心地よく生活できることをゴールに設定する」ことは、「希望を捨てる」ことではまったくないのだ。ハルは歩けなくても座れなくても愛しいハルなんだから。
もう一つは、歩けるようになる子も確かにいるだろう、しかしハルは彼女とは違うし、ハルが苦痛を経験したからといって歩けるようになる保障はどこにもない。そして、もし歩けるようになるとしても、同じエクササイズが日本では泣かずにできていたように、上手に介入してより楽しくリハビリを行うことで、伴う苦痛を最小限にして同じ場所にたどり着くことだって可能だと思うのだ。歩けるようになることは、目標ではなく、結果であるべきだと思うのだ。
戦うべき相手が、インドに根本的にある「健常に近づけるべき」という価値観なのだとしたら、相手が悪すぎる。お友達との交流や他の学校のアクティビティはとても楽しんでいるので、悔しいような気もする。
ハルを守り、楽しく、でも必要な教育やセラピーを適切に享受するためには一体どうしたらいいのか―。
よし、本当に戦うべきはインドの価値観なのかどうか、他の学校や他のセラピーを見てみようじゃないか。
改めてはるるんの居場所探しの再開である。
(公園で、きょうだいたちと、居合わせたお友達と遊ぶハル)
つづく