僕が飛び跳ねる理由を観て
映画「僕が飛び跳ねる理由」を観た。
(自分のこういう感想文を読み返すとですます調とである調が記事によってバラバラで嫌だったので、である調に統一したい、という宣言)
2日前に叔母と買い物に行く予定があり、その際叔母が「映画を観たい」と言うので色々調べた結果この作品を見ることに決めた。
私がコナンを既に見ていなければコナンを観に行ったが、もう友人と観てしまったのでなにか別のもの、という話になった。いつもいく商業施設内にある映画館ではなく、別の映画館に行こうとなり調べたら、先日読了した「あのこは貴族」と叔母が今読んでいる「僕が飛び跳ねる理由」があった。私としては「あのこは貴族」が観たかったのだが、まあ1回読んだし、上映時間が2時間なので買い物の時間が少なくなっても嫌だなと思い(17時に店を予約していた)「僕が飛び跳ねる理由」にした。
※以下多少のネタバレ有り
東田直樹さんという方が、自身の病気(自閉症)について綴った本を元にした(?)ドキュメンタリー映画であった。
自閉症というのはここ数年でかなり理解が進んだ方ではないのかと思う。私の記憶が正しければ確かセサミストリートのキャラに自閉症の子が追加されたはずだ。当人たちからしてみたら自身の障害にきちんとした病名が付いたのは安心したのではないだろうか。病名がつけば様々な医療的、福祉的補助が受けられる。
イギリス、インドなど様々な国の自閉症の子とその家族に焦点を当てていた。当たり前だが程度は個人によって様々であった。その中でも私が惹かれたのはとある女の子だった。
何この子、信じられないくらい絵が上手いな。
これが素直な感想である。線画はピカソを彷彿とさせたし、色塗りはめちゃくちゃ綺麗だった。曲がりなりにも中学生の時美術部であったので色塗りの難しさは身に染みている。
その女の子の絵は、一切の色ムラがなかった。そんなことある?
絵の具、少ないと足りなくなって塗りきれず、足したら二度と同じ色にならずで扱いが難しい。けれどそのこの絵は、色ムラが見受けられなかった。天才すぎる。
映画の終盤でその女の子の個展が開かれている描写があった。そりゃそうだよなと思った。上手すぎる、絵が。
この絵のうまさが元々の素質なのか、(言い方は悪いが)自閉症から来るものなのかわからないがとにかく絵がうますぎてずっとその女の子のシーンだけ見ていたかった。
あと筆も早い。早すぎる。個展開けるレベルで早いのすごすぎる。ピカソの再来の可能性ある。(大袈裟)
…とまぁ、言いたいことは言えたのでここからは普通の感想。
自閉症の子たちがみている世界にすごく興味を持った。私たちとは見ている世界は一緒でも実際に見ている景色は違うらしい。雨が降っている時に記憶から同じようなことを引きずり出して結びつける、というのはなかなか面白いと感じた。
知的障害であるとか、自閉症であるとか、身体ではなく精神に障害のある子は人よりずば抜けて頭がよかったり芸術的な観点から見て優れているらしいというのはここ最近よく聞く話である。しかし我々のような大人が本人に「それ」を強要するのはちがうよなと思った。
もちろん才能があるに越したことはないし、その才能をいかんなく発揮して欲しいのは事実としてある。ただ本人は普通の子と同じ生活を送りたいと思っているケースも往々にしてあると思う。
「この子は障害があるけど、頭が良いから、芸術的観点が優れているからそっちの方向をやらせましょう」はただの親のエゴであると感じてしまう。本人がそれを望んでいるなら大いにやらせればいいが、接し方は普通の子と同じでいいのではないか、と思う。
ただ、家の外の世界、たとえば学校は普通学級を避けた方がいいと感じる。本人を守るためだ。まだ教育を施されている最中の子供の輪の中に自閉症の子を入れるのは私はあまりよくないと思う。言っていいこと、悪いことの区別が付かずいじめの標的になってしまうケースが多いからだ。
私のひとつ上の学年に、多分今思えば自閉症なのかなという男の子がいたのを思い出した。幼稚園と小学校が同じで、帰り道も途中まで一緒だったのでよく姿を見ていた。何分ひとつ上なのでわからないが、多分あまりいい扱いを受けていなかった。このようなことを減らすにも完全にわけた方がいい。
あと自閉症の子を持つ親はなんかすごく頑張っているなと感じた。なんだろう、人一倍「良い親」であろうとする意識があると感じた。本人だけでなくその親のメンタルケアもこれからは必要になってくるのではないか。途中で自閉症の子とその親が集まって今までの事を話すシーンがあった。あれはすごく有意義な事だと感じた。
まあ長々と語ってきたが、この映画を観てよかった。おばちゃんは途中から寝てた。なんそれ!