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スペイン巡礼、を、途中で帰ってきた話。

と言うのはあんまり見かけないので書き置いてみる。

※一人称が入り交じっているのは仕様です
※※よしにせよあしきにせよ、中座したことへのコメントは無用に願います。この意味が分からないなら尚更に、何も言わぬことです

2024年5月某日、月と夕焼けの綺麗な夜だった。
僕はスペインへと、巡礼の旅に出向いた。そんで、一週間くらいで帰ってきた。厳密に言うと、一週間くらい巡礼して、ちょっとだけマドリードを観光して帰ってた。

巡礼の旅はきつい部分もあったが、概ね楽しかった。一日に進める道程が予定より短かったり、長かったり。天気に振り回されたり。階段が敵だったり。太陽は厳しくて、木々は優しくて、飛行機雲が流星雨のようだったり。ご飯が美味しかったり、そんなでもなかったり。果物が美味しい上に安くて幸せだったり。
いろいろの人に遇い、やはり国籍というのは無駄だな、と思ったり思わなかったりもした。あの気持ちの良い人たちは、たぶんきっと私も最後まで歩いたモノと思っているであろう。いつか訂正する機会があればと思う。
実際に歩いている間の日々については、Instagramに概ねのところが載っているので、そちらを参照されたい。

そもそも論として、

巡礼って何かって言うと、巡礼である。聖地巡礼である。
私は年イチで土方歳三のお墓参りに行くが、アレは宗教的に定義するならば、正しい意味での聖地巡礼である。私は彼を信じているし、彼に祈ったり、(僕個人の視点として)許されたりと言ったことが必要なんである。だからその為だけに私は年イチでしか乗らない電車に乗って、それだけの為に1日を裂くのである。
「いっつも好き勝手な創作してマジでごめんなさい」
言いたいことは、毎年それだけ。
端から見たら滑稽だろうし、多生気持ちも悪いだろうが、それが私の信仰である。

そんでまァ、巡礼である。
今回私が挑戦したこのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路ってのが何かって言うと、キリスト教の聖地巡礼である。もうちょい厳密に言うと、と、続けたいところだが、生憎私はこれ以上の言葉も知識も持たない。
いまではあんまりそれらしく旅している人は多くはないと聞くし、実際に旅路にあった修道院でのミサも真面目に参加しているのはそう多くはなかったように見受けられる。ミサの最中ずっとガム噛んでる人も遅刻する人もいた。修道士達も別にそれには何も言わなかった。それほどの世界である。
ただ、宗教的行事である事は確かで、これがまあ根本的かつ絶対的にに自分と相性が悪かった。
私はキリスト教徒ではないし、どの神についても信心はしていない。神様以外に信じるモノはあるが、それは信仰ではなく外部インストール型の倫理観とか社会通念上必要な儀礼とか、そう言った類のモノである。その帳尻合せに宗教は存在している、と思っているが、これが信仰心を愚弄する嗜好だというのは理解している。なので、基本的には表には出さないようにしている。

そういう感じなので、私は宗教に対して学術的な興味関心とそれに伴った敬意を持ち合わせてはいるが、信仰心への理解はない。正確に言うと、理解はしていないと言う一線を引くことで、他人のそれに対する最大限の敬意としている。
ただ、特にキリスト教の物語とはざっくり言って相性が悪いって言うか、聖書とか何が面白うてこんな長期間残ってきたのかよくわかんない。軍記物の方が余程面白いのに。とか思っているタイプでもある。
マドリード観光中にプラド美術館に行って、浴びるように西洋美術を見たが、宗教系は時代はどうあれ悉く刺さらなかった。専門学校の時に西洋美術の授業をとり、レポートの成績は大変優秀だったものの、肝心のモチーフになっているキリスト教の物語に興味が一切わかず、苦痛だったことを思い出した。ずっとそんな感じだった。ベルばら読んで幼い頃から慣れ親しんだルイ16世の肖像にどれほど救われたか解らない。

話が飛んだ。
まあ、そう言う人間が、教会が運営しているアルベルゲ(巡礼者用の宿)になど泊るとどうなるか。ちなみに寄付制で、夕食が付き、夕食の前にはミサがある、と言う仕様だった。

めちゃくちゃいたたまれないんだな、これが。

宗教ってのは生活なことはわかってる。知識としては解ってる。私は法律やらマナー本やらで倫理観をインストールしたけれど、人によってはそれは宗教によってインストールされる。
この道筋の差が結構半端なく気持ち悪い。
私じゃないんだ、ここにいるべきは。

途中で帰ることにした主因である。

あとまあ、そこまで至るのは私が「私が知らないことに対して、自身の勉強不足を死ぬほどなじる」タイプだから、って言うのもある。

準備不足もまあ、ある

私が今回歩くことにしたのは、幾つかある巡礼路の内、「北の道」と呼ばれる道である。スペインの北部沿岸沿いを西に向かって歩く道で、海辺の観光地を幾つも通る、風光明媚な道として知られている。
一方、道の起伏が他より激しく、アルベルゲも他の道と比べると少ない、と言うデメリットもある。

なんでそんな道を選んだのかと言えば、偏に「海から離れたくなかったから」であり、そこで意地を張らなければ、完走した可能性は実は結構高いと思っている。

うん、素直に言おう。
起伏が激しいんじゃない。
毎日山登りです。
無理です。
それが喩え精々が400とか500mだったとしても。

この辺りの調べが、と言うか、実感が足りていなかった。
日本在住だと、近くに300m程の登りやすい山があって、小学生の頃に遠足で行った記憶がある方も多いと思う。機会があれば3日連続とかで登ってみるといい。キツいから。慣れるけど。

この辺りへの理解がかなり乏しかった。
体力的には3日目には慣れてきていたし、致命的な怪我をしたとかではないけれど、回復が見込めないままあと一ヶ月というのは正直無理だろうな、と言う具合だった。なんなら爪はまだちょっと死んでる。1日なら歩けるが、連日なのだ。この差はデカい。ましてや二十歳そこそこの一晩寝れば回復するからだがある訳ではないのだ。
……まあ、他の巡礼者たちはリタイア世代の方が多かったわけで、私の体力不足も否めないが。

最後、これは個人の問題

そんで、これは完全に想定外だったし、もうほんとに対処のしようがなくてどうしようもない事柄なのだけれども。
そしてものすごい個人的な特性のお話しなので、これが当てはまる人が他にいるのかどうか謎なのだけれども。

突然ですが、私はお風呂が苦手です。
より正確に言うと、浴室という環境が苦手です。
だってあそこ、文字情報がシャンプーの裏くらいしかないんだもの。
最近になって、スマホとかKindleを浴室に持ち込めるようになってから、少し慣れたけれど、そう言うのがなかった小さい頃は、お風呂に浸かるにはよほどのおもちゃか、相当の我慢(下手すると出た後で泣きわめくとか吐くとかそう言うレベル)が必要だった。そこまでするよりは入らない日も多々あった。

で。
山の中に、森の中に、牧場のど真ん中突っ切るような道に。
文字情報なんてあると思いますかあるわけないんですよ。普通に考えたら解るよね、なんで行く前に思いつかなかったの?
あっても精々看板程度で、当然ながらスペイン語だし、そんなの文字情報にもなんにもなりゃしない。本は持っていたけれど、宿についてから回復して明日の分をチャージするほど本を読みふける時間なんてありません。

その結果、私が「頭の調子が悪い」と称する状況が山のど真ん中で発生したのである。こうなると解消するには1週間くらい寝込んでテトリスをやるとか、現代医療に頼るとか、そういう感じになってくる。
実際にはピルがちゃんと仕事してなかった、ってのもあったので、もう問題ないです。日数が解決してくれました。過ぎてみればそこまででもなく穏やかです。PMSはほんと人体の欠陥だよ。

つまりは、

まあそう言った複合的な感じで、私は巡礼を途中でやめたわけだ。
怪我をしたとか、金銭をなくしたとかの大きなトラブルで強制退場させられた、と言うよりは、自分で納得した結果の撤退であった、と言えるだろう。
そこそこ賑々しく出てきてしまったので、それだけが「恥ずかしいなあ」と言ったところであるが、後悔は特にしていない。ちょっとお金がもったいなかったな、とは思っている。

そもそもなんでそんな宗教観念で巡礼の旅に目をつけたのかと言えば、ファンタジー映画的な徒歩の旅を体験してみたかったから、と言うのが、ひとつの大きな目標としてあり、その取材としては必要十分な機能を果たした旅であった。

まあ、出会う人で日本に好感度ある人たちだいたい熊野古道かお遍路さんか歩いてて、どっちかを熱心に勧めてくる始末だったので、どっちか歩いてみようかな、とは思っている。
……うん、熊野古道って案外短いね?
(懲りてない)

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