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映画『LAMB』感想

(注:核心にある程度踏み込んだネタバレを含みます)

 驚嘆する映画でした。なぜこれほど精緻に、これを作ろうとしたのか。この映画は果たしてなんだったのか? 誰の何の映画だったのか?

 「目が覚めた時にやっと悪夢だったことに気づく夢」のような映画体験でした。ですが、夢の中に居る間は、確かに穏やかな気持ちで居られたのです。アイルランドの雄大で緩慢な自然の中で、美しい何かを見ていたような……。

【あらすじ(公式サイトより)】
山間に住む羊飼いの夫婦イングヴァルマリア。ある日、二人が羊の出産に立ち会うと、羊ではない何かが産まれてくる。

子供を亡くしていた二人は、"アダ"と名付けその存在を育てることにする。

奇跡がもたらした"アダ"との家族生活は大きな幸せをもたらすのだが、やがて彼らを破滅へと導いていく—。

https://klockworx-v.com/lamb/

1.「人生の偽物」 感情体験とその錯覚

 優れた作品を見たとき、「ひとつの人生を見たようだ」という比喩は良く使われるものだと思います。私が『LAMB』という映画を観て「感じた」ことは、あらすじの奇妙さに反して意外にもそのような感情でした。

 プロット的な起伏を鞣し、生活の細部を丁寧に描き、ドラマ未満といってもいいほどの小さな軋轢や落胆、あるいは、降って湧いた小さな幸せが誰のせいともつかない不条理によって裁かれ瓦解する様を、静かな時間の流れとともに描く。この映画における感情体験は、自分には「人生」の似姿のように感じられるものでした(「生活」と「不条理」とは、端的に言えば人生の脊柱のようなものだと思いませんか?)。私の心は映像の中の人物の息遣い、生命感に満ちた光景の中から、感情面に描きこまれたものから、一人の「人生」を読み取ったような気持ちになりました。

 しかし、『LAMB』という映画の最も奇妙な点は、同時にその受け取った感情体験が「偽物」であることが理性で分かる、という点です。フィクションであることが明確に感じられるほどに作為的、という意味ではありません。心が錯覚を起こしているということが自覚されるという意味であり、私は極めて気味の悪いものを「人生」だと感じたのであると、包括的には認知されているのです。  
 いやだって……羊の頭をした子供が生まれてどうこうする映画が「人生」な訳はなくないか…? 身も蓋もないけども…。 いかに心がそこに穏やかさを感じようと、目に映り、見える不穏さがあまりに理性にまざまざと違和感を訴えかけるのです。その違和感は、本作のラストにおいて衝撃的な形でカタストロフを迎えるものでもありました。「初めからこれらは全て間違っていたのだ」と。悪夢から覚める方法は初めから用意されていたのだと。  
 「偽物の人生」のようであることが優れた作品の証左となるなら、「人生の偽物」である作品とは何なのか? 私にとってこの映画が精緻に神経質に作り込んでいるにも拘らず、そのこと自体が余りに不可解に映る、また一方で非常にユニークにも感じられる点はそこです。

2.異質な「不気味さ」

 あるいは、本作はホラーというジャンルに際し、「不気味」とは何かなのということも考えさせらる作品でした。
 ホラーにおいて、「生活に不気味が入り込む」「生活自体が不気味に変化する」といった定型は珍しくないと考えます。(例として安易かもしれませんが前者に『呪怨』、後者に『ヘレディタリー』を挙げておきます。)
 しかし、この映画はそのどちらでも無いと感じられました。この映画はまるで「生活」そのものが、元から不気味であったかのように振舞っているように自分には感じられます。アダ(羊の頭の子)が生まれるまで、そして生まれてから、この映画の「不気味さ」は異様に長い間の取り方と、なだらかな継ぎ目の中で覆い隠されていると感じられます。作為的に感じられない程度に巧妙に。冒頭youtubeリンクで見れるアダが花冠を被るシーンなど、彼女が本来持っているはずの不気味さは、精巧に可愛らしさにまで錯覚させられるほどです。
 さて、典型的なホラーの「不気味」さの取り扱いに話を一度戻すと、「不気味」の恐怖とは「還るべき生活」が脅かされることであるのではないでしょうか。ゆえにそれらのホラー作品では生活への「侵入」、「変質」といった形で恐怖が描かれます。しかし、『LAMB』という作品が描いているものは、「還るべき生活」がそもそも不気味であった仮定するような、異様な”なだからさ”です。その未知の不気味さの中で、果たして我々はいつ不気味さを感じればいいのでしょう。
 この形の不気味さを、作中人物はもはや指摘する術を持たないとも言えるでしょう。第二章から主要人物の夫婦の生活に加わる叔父のペートゥルは、フィルムの内側でアダに対してその「不気味」さの一部を指摘する役割を一時的に負っています(視聴中の感情体験としては、彼の登場と指摘すら余りに遅い登場のように思えますが……)。しかし、その彼でさえ私にはその不気味さの全てを指摘することが出来ていたとは感じられません。本作の根本的な違和感を作中で指摘することが出来るのは、ラストシーンで訪れる異界からの来訪者一人です。
 それ以外の全ての場面で、私たちが正常に「不気味」を感じれるのは、フィルムの外側にいる間だけだったと言えるでしょう。
 『LAMB』は全三章からなる映画であり、三幕構成の例にもれず二章の終わりにアダは危機に晒され、それを脱します。私はその時、アダの危機に緊張感と恐怖を感じ、助かったことにホッとしました。しかし、その時に頭の中で「ホッとするで正しいんだっけ?」と、確かに疑問が頭を過ったのを覚えています。その時、私は刹那の間この映画を外から鑑賞したのでしょう。次の瞬間には、また悪い夢の中に沈んでいたとしても。

3.夢の終わり、悪夢の始端

 悪夢から覚める瞬間、つまりは本作の衝撃的でありながら予定調和的でありながら奇怪なラストについてですが……私は驚愕こそすれど、その次にはただ波の無い感情がやってきたことを覚えています。上述の通り、私はそのシーンに対して、「明確に誰のものでもない罪で裁かれることもまた人生である」という寓話性を感じたからです。その時点では未だ、私は自分が目を覚ましていることに気づいていなかったのでしょう。
 私がこの映画が悲劇であることを受け止め、沈むような悲しみを覚えたのは、観終わってしばらく経ってからでした。それから寝床に入ってから、私はとても怖いものを見ていたのだ、という気がして、怖くなりました。
 頭がヤギの子供がベッドから起きる。アダが、自分の姿を鏡で見ている。それらの画が、あまりに不気味であるように感じられる。そのときやっと、これは「夢」ではなく「悪夢」だったのだと理解できたのだと思います。


 感想は以上です。
 ハッキリ言って私の浅い映画経験の中で、映画でこういう包括的な印象の錯覚を起こすもの(「人生の偽物」)を描いているのを見たことが無かったし、それが可能だとも思ったことは無かったので相当驚きました。映画、私が思っていたより凄いのかもな……。

 画が非常に綺麗な作品で、総合的には私は好き作品なのですが、オススメかと言われると難しいな……みたいな映画です。睡眠不足の日にゆったり見たのが良かったのかなとも思うので、体調が今一つの日にゆったり見るのが一番効くかもしれません。以上!

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