空也忌は自身できめた
【空也忌は自身できめた】
11/13 goodmorning
忌日とは亡くなった日のことで、この日を基準にして節目の法要の日が決められると思っていた。が、今日は踊念仏の開祖「空也」の #空也忌 だが、亡くなった日ではない。
956年11月13日53歳のとき、空也は奥州へ遊行に出る際に「この日を命日とせよ」と言い残し、11月13日が忌日になった。実際には、972年9月11日70歳のとき京都・六波羅蜜寺で亡くなっているので、忌日より16年も長生きしている。
空也と言ってもピンと来ないひとも口から6体の仏像が飛び出した例の仏像はみたことがあるはず。
踊念仏の祖と言われるけれど、空也自身が踊りを決めたり踊ったりしていたわけではないようで、辻で説法するとき大きく動きながら話した姿からきたと書いているものもあるので、仏像のような無駄のない筋肉質の体で熱ぽく話すひとだったのかも。
「空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。」
「遊行(ゆぎょう)中、険しい道路を平らげ、橋を架け、井戸を掘り、荒野に風葬死者があれば火葬に付して、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号(みょうごう)を唱えて葬った」
「空也は疫病の蔓延(まんえん)する当時の京都で、自分で彫った十二面観音像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。」
何かに属するより、自身の信念に沿い動く僧であることを旨としていたのだなと感じながら、朝の珈琲。