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足るを知らない

【知足】

「知足(たるをしる」はもともとは釈迦の教えであり、最後の教典「遺教経(ゆいきょうきょう)」に説かれる。

老子も「知足者富(たるをしるものはとむ)」と書き記す。「富」はお金持ちになれるという意味ではなく、心豊かに生きられるということ。茶人松平不昧公も「茶の本意は知足を本となす」と言い、「足るを知る」ことは古来より現代まで、ひとの欲望が在る限り語り継がれる。

高度成長期に子供時代をすごし、アメリカ文化に侵され、欲しいものはたいてい戦中戦後に苦労した親たちに買ってもらい、つづきもしないことにお金を使い、庶民のくせに身分不相応なハイブランドをプレゼントされて喜んだり、やたら車にお金をかけたり、もっともっとと欲望をむき出しに生きてきた私たち世代は、「知足」と聞くたびに「申し訳ございません!」とひれ伏すしかない。

自分の手にあまるほどのものを持ったところでしあわせにはなれないことを、この歳になってようやく実感し、たくさんのものに押しつぶされそうになりながら「足るを知る」。「けどま、それがあったから、いま知足がわかるんだよね」なんて思う能天気さが、いつまでも「足るを知らないおとな」から抜け出せない原因だ。

京都、龍安寺の蹲「知足」は、茶室蔵六庵の露地にひっそりと置かれる。中央の四角い水のたまりを「口」に見立て、「五」「隹」「疋」「矢」と刻み「吾唯足知」(われただたるをしる)と読ませる。これは、かの徳川光圀公から寄進されたもの(実際に置かれているのはレプリカだと書かれている)。水戸の御老公は、なにを思いこれを寄進したのだろう。

欲を捨て分相応のことに満足することを知る人は不安がない。なにかとひとと比べたがるひとは、常に不安や不満をかかえることになり落ち着かない。
茶室に入る前、この蹲をみながら、往時のひとたちも、我が身の捨てられない欲望に「なんともはやはや」と思い、次からは「知足」をむねに生きようと茶をいただいたのだろうか。

そんなことを思いながら、色紙をかける。

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