人生はずっと亡羊の嘆
【人生はずっと亡羊の嘆】
3/2 goodmorning
村野四郎の亡羊忌かぁと思いながら珈琲を飲む。
40代で小説を一旦おいた。
20年以上、生活の中心にあった小説は、私の暮らしを随分変えてくれた。たぶん、子育てしながら主婦やOLをしていただけでは出会えなかっただろうひとと出会い、行けなかっただろう場所に行き、生意気でいきがよく、出ては叩かれ、叩かれては泣いて、泣いては復活する20年で、身に余る称賛あふれた人生の華のときだったなと、今でも思う。
がしかし、私は小説「亡羊の嘆」を書き終えたあと小説から離れる。
なんともはやはやな題名に、どれだけつま先立っていたかと、60代の私は40歳の私を愛おしく思う(笑)
だが、子育ても終わり、体力も十分あった40代の私は、性懲りもなく、「るいまま」となって、机上の絵空事を実践してみると動き回り、またまた20年。
その前の20年以上に楽しくあり、文学だけでは出会えなかったひとと出会い、まち、歴史、ひと、と知らないことを知る充実のときで、特別な積み残しも感じていないつもりだったが、「亡羊の嘆」は、やっぱりやってきた。
いったい、いつになったら明確な道が見えるのだろう。
いや、人生はずっと亡羊の嘆たるものなのかもしれない。
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村野四郎は詩人。よく知られるところでは「ぶんぶんぶん 蜂が飛ぶ…」の作詞。
私は思春期の頃、不登校になってしまい、あんまり学校に行っていないので知らないのだが、「鹿」が教科書に採用されていたそうなので、そちらで読んだひともいるかも。
村野四郎は、晩年パーキンソン病になり亡くなる。
村野四郎のwikiに、同時期に活躍した草野心平の追悼文がある。胸が詰まる。
■草野心平の追悼文
病院のベッドに仰向けのまま、終始天井をぼんやり見ながら、また眼をつむりながら彼はその時よくしゃべった。私は遠耳なので彼の言葉はききとりにくく「通訳」をとおしてきいていたが、涙は眼じりから頬に流れ耳たぶのところでたまり、それがまた尾をひいて頸からパジャマのなかにまでもぐっていた。彼はその涙のすじを一度もぬぐおうとはせず、よくしゃべった。その時、できたばっかりの最後の詩集『芸術』がおいてあった。
■亡羊の嘆(ぼうようのたん)
《「列子」説符から》逃げた羊を追いかけたが、道が多くて、見失ってしまって嘆くこと。 学問の道があまりに幅広いために、容易に真理をつかむことができないことのたとえ。 また、あれかこれかと思案に暮れることのたとえ。 多岐亡羊。
■村野四郎『鹿』
鹿は 森のはずれの
夕日の中に じっと立っていた
彼は知っていた
小さい額が狙われているのを
けれども 彼に
どうすることが出来ただろう
彼は すんなり立って
村の方を見ていた
生きる時間が黄金のように光る
彼の棲家である
大きい森の夜を背景にして