鎌倉長谷寺 と キリスト教
(この記事は、私の歴史観を書いてしまっています。ノークレームでお願いします。何か関連する情報をご存知の方は、どうぞコメントくださいませ。)
大和長谷寺はこもりくの内陸県桜井市にあるけれど、鎌倉長谷寺は湘南の海の近く。天武天皇の大和長谷、天武系聖武天皇の鎌倉長谷。どちらも巨大観音様がいらっしゃって、近くの大和東大寺、鎌倉高徳院には巨大大仏様がいらっしゃるのですね。どちらも花の御寺なのに、私は人の多さに耐えられないので、花のなさそうな閑散期に出かけるのです。大和長谷のある初瀬という地名が長谷に転じたって言いますが、なんでこの字をハセって読むのか、腑に落ちる理由に未だ巡り会えていません。
カトリックイエズス会に近しい人の近くかつ浄土真宗系の影響の強い土地柄で育った、私の歴史観↓
この長谷寺に初めて訪れた時、とても強く原始〜初期キリスト教の影響を感じました。そもそも天武系の大乗仏教や悪人正機の思想は、心が貧しきものは幸いであるというマタイの書に、とても通じる。教行信証の中にもマタイの書の山上の垂訓と同じ話があるし、聖武天皇妃の光明皇后が癩病患者の千人の垢を流す説話もヨハネの福音書によく似た話があって、子供の頃にとっても驚いたことを覚えています。その衝撃は、今も強く残っていますし、その頃から、この二つが全く別の宗教だとはとても思えず今に至ります。映像も写真もない時代に、各地の土着の文化と融合しながらこうしてたどり着いたけれど、元々は同じ信仰だと思えて仕方ないのです。
わざわざ洞窟の中に信仰の対象を安置しているのも、まるで隠れキリシタン‥ 鎌倉の地にはキリシタン寺と推測されるところもありますね。
有名な寺の多くは上座部仏教系ですが(特に京都)、信者(檀家)数は大乗仏教系が上座部よりもずっと多い。修行や只管打座をやってられないような、そんな時間もなく生きるのが苦しい人の方がずっと多い、が歴史の現実。極楽浄土に行けると約束してもらえることが救いなのです。一揆も浄土真宗系から起こります。いつだって貧しい人がずっと多く、一部に偏る富で有名な立派な寺を建立してきたのです。修行をしたり徳を積んだりすることをしようにもできない境遇の人たちこそ、天国や極楽浄土は迎えてくれる。此岸がどうであったとしても、祈れば彼岸には救いがある。これは自業自得や因果応報、ピューリタニズムとは異なっている宗教感です。
ほんとに、隠れて拝むためのものではなかったのだろうか。鎌倉長谷の寺紋も、私は隠し十字のように見えるのですよ。鎌倉って今もってキリスト教色強い土地に思えます。
キリスト教と仏教は洋の東西が違うだろうと笑う人も少なくないけれど、21世紀の国境で物事考えて洋の東西分けることの方が、歴史の流れの中では不自然ではないだろうか。現代人が考えるよりも、騎馬民や海洋民族の移動距離はずっと長く遠くであったのではないだろうか。
私は、蘇我氏天武系源氏系幕府系に新羅と唐、馬と鉄、巨石信仰と大乗仏教に一つの大きな流れや波を感じるのです。私は歴史家ではありません。自分の育ちや経験、その時々で強く響いたり、驚きを持って繋がることのできた何かから、ただそう思うだけです。