「人には人の乳酸菌」

タイトルをご一読いただけただろうか。これは、私がよく聞いている、インターネットラジオのパーソナリティが、番組内で頻繁に口にする言葉である。そのラジオには、特に、「(視聴者)がどうしても(視聴者の周囲のとある人物)の行動を理解できない、あれはどういうつもりだったのか」を問うメールや、さらにそこから発展し、その行動を理解できない自分に共感して欲しい、という感情をパーソナリティに思いきりぶつけるような文面のメールが沢山送られてくる(らしい)。それらに対して、パーソナリティが自分の意見を述べる際に、「他人の理解し難い行動や思考回路は誰にでもあるものだから、それらは自分の理解できない領域のものとして受け取るべきである。そして、自分を守り、より質の高い人生を送るためにも、理解することは諦めた方がいい」という趣旨を伝えるための、一種の合言葉として、この言葉が使われていた。元は、乳製品のキャッチコピーだっただろうか。

私は、この言葉を結構気に入っている。そして、どこかお守りのようなものとして、常に心に思い浮かべるようになった。なぜなら、私の身近にいる人の中で、私が理解できない行動をとる人というのは、私の家族の一人だったからである。

少し、私の家族について書いてみようと思う。

いつの間にか、あの人の中で、5人家族は4人家族になっていた。8個入のたこ焼きを持って、「人数分でちょうど割り切れるね」と言われた。苛立ちを表すためだけに、電子レンジの扉は乱暴に閉じられて、だんだん役割を果たせなくなっていた。冷蔵庫の中のあらゆる野菜が、2つずつあるようになった。両親が、入れ違いに行動するようになった。母が歩いた場所に、狂ったように撒かれたリセッシュで、家の床は、常にすこしだけ湿っていた。

その中でも、私は、どうしても5人家族を諦めたくなかった。記憶にだけ残っている、5人家族をずっと信じていて、それを取り戻したかった。そのためには、私は嫌われてはいけないし、あの人を嫌ってはいけない、と思った。

そこからは、どんなにあの人が私の常識を外れた行動を取っても、どうしても一緒に住まなければいけないのなら、と考え、私は馬鹿なフリをしてへらへらと笑顔を作って、話を合わせていた。また一方で、私を味方に引き込もうと、似合わない過激な言葉であの人を形容するようになった母の、話し相手になった。それでも、ひとりになった瞬間には、扶養者相手だったが、心の中でだけ、こっそり見下してみたり、酷い言葉を浴びせてみたりした。そんなふうに過ごしていたら、慣れのせいなのか、徐々に私は馬鹿になっていった。そして、この先どうしたらいいのか分からないまま、誰にも言えずに、ただ漠然と、辛くなっていた。彼らは、親として、子である私を傷つけるようなことは絶対にしなかったことも、その原因のひとつだったと思う。その事実は、「この辛さは私の思い込みなのかもしれない」ということを意味するものでもあったからだ。

そんなときに、私は件の言葉に出会った。思ってもないところから、自分の悩みに風穴を空けられて、少し戸惑ったが、それと同時に、自分の中であっさりと折り合いがついた部分が生まれたので、何だかおかしい気持ちがこみ上げてきた。誰もかも理解し合えないのなら、それは家族の間にも等しく成り立つし、それならば私が身を削ってかすがいである必要はないのかもしれない、と思えるようになったのだ。また、家族だけではなく、友人との関係の中で、言動に違和感を抱くことがあっても、その言葉を思い出すことで、相手の主張を一旦受け入れ、自分はこれをどうしたいのか、と考える余裕を持てるようになった。

そして今は、物理的に彼らとの距離が空いたことも手伝ってか、家族との関係には大きなゆとりがある。家が心安らぐ場所になったことは、私の人生に、確実に良い影響を及ぼしている。

実際は、もっと紆余曲折を経て今の精神状態に落ち着いたはずであるが、未だに馬鹿なままである私の頭では、とても全ての要素をまとめあげることなどできなかったので、今回は省略させていただいた。最も、それは建前で、自分にとって利益のない記憶は、とうに処分されてしまったので、ここに記すことはできないのである。

とにかく、私の人生において、「人には人の乳酸菌」という言葉は、なかなかに重要な役割を背負ってくれているように思える。皆さんもおまじない程度に、心で「人には人の乳酸菌」と唱えてみてはいかがだろうか。ここまで読んでくれた皆さんの人生にも、乳酸菌がはたらきかけますように。

おわり






(最後の最後に、部長に精一杯の感謝を)

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