覚めない夢

 夏に夢を見ている。
 「夏に」というのは、夏の間に、ではなく「夏」というもの自体に対して、という意味である。根拠も理由も特にないまま、ただ夏が好きなのだ。理由を無理やり用意しなければならないときは、八月に生まれたことを利用している。決して嘘ではないが、それでわたしの気持ちをすべて説明しきれているとも思えない。そのうえ近年わたしが過ごしてきた夏は、わたしの気持ちに見合うだけの充実ぶりにはいまひとつ届いていないようにも感じる。「夏が好き」と口にする根拠や理由を探しに行くのなら、やはりこれまでに過ごしてきた夏の記憶を辿るべきだろうか。

 水中に置いてきた体力の残滓で、陽光に熱された坂道に挑む。ソフトクリームをもたもたと食べるから、コーンの頂点から雫がぽたぽたと垂れる。居間では、わざわざシロップを割って作るオレンジジュースが無性に美味しかったり、母が昨日の残りの豚汁をカレーに変える匂いがしたりする。正座した脚の隙間から、ちょうどいいくらいの汗がしみる。
 そういえば、毎年車で連れ出された山奥のキャンプ場は広大な川のそばにあった。その川の水はよく透き通っていて、そのために水底の丸い石や、ひゅんひゅんと動き回る魚の色がばっちりと私の目に写った。上流には、はしごだけで登ることのできる程度の高さだったが立派な滝もあり、その周りはいつも、たくましい勇気をたたえた子どもたちでそれなりに賑わっていた。しかしながら、わたしはというと、幼い身には十分すぎるほどの高さに身を竦ませており、しかも大層な水飛沫を自らの身をもって立て、その場にいる全員の注目を集める気持ちにもなれなかったため、滝の始まる場所に静かに腰を下ろしていた。そうしているのが精一杯で、少し離れて隣に佇む彼らが勇敢にも日に焼けた背中を空中に躍らせるのをただ見守るばかりであった。両脚を伝って滝壺に吸い込まれていく流れを感じながら、眼前の川や草や山、高速道路からなる開けっぴろげな色彩は、何故かこれからもずっと安らかに在り続けるような気がした。その景色は三六〇度どこに目をやっても眩しかった。

 またあるときは、夏はこのような季節であった。

 午前の時間をじわじわと消費しながら、体育館内の室温がさりげなく上がっていく。コートの真横に大きく開いた窓から風が吹き抜けて、それをなかったことにする。熱中症になりかけて窓辺にうずくまっている時だけは、その涼しさを一番に受け取ることができた。それは最も体力がなくて、最も運動能力に欠け、最も自分の身体に対する無知をはたらいた者の唯一の特権であり、わたしは室内の音に背を向けて、その権利を心ゆくまで行使した。練習メニューの中では、最後に待ち受けるサーブの練習の時間が何より好きだった。それが始まる頃には大体、時刻は午前一一時半をまわり、朝が苦手なセミでさえあまりの暑さに目覚めるほどの時間になっていた。団体球技に励む間はどうしても、自陣の中、学校の代表チーム(というより「その学校で最もその競技に時間を割いた奴ら」)、貴重な青春を運動に捧げる「健全な」若者、といった括りに混ぜ込まれ、張り詰め続けなければならない。けれども、サーブの練習をしているときだけは、ただ自分のことのみを考えればよく、それがたまらなく気楽であった。午前の練習が終わると、わたしたちは少し急かされながら天頂の太陽の下に放り出される。太陽も高ければ気温だって当然高い。練習外でも体力を削られねばならぬのか、としかめ面をしながらも、わたしたちはシャワーで汗を流してから始まる午後の時間にぼんやりと期待しながら、それぞれの一日を再始動させるべく各々の帰路についた。

 自分が過ごしてきた、思い出せるだけの夏をすべて思い出しきって、結局そこに夏を好む気持ちの源流があったのかどうか分からなくなってしまった。近づいたのか、遠のいたのか、現在地が曖昧になったところで、不意に去年の私の誕生日に彼が話していたことを思い出す。
「毎年、夏は仕事がすごく忙しくて、満足に楽しめないまま過ぎてしまうんです」
「でも自分の中に、理想の夏みたいなものがきちんとあるんですよ。結構具体的に。どこに行って何をしたいとか、何を食べたいとか。それをなかなか叶えられないことは確かに苦しいけれど、その理想に支えられながら忙しさをやり過ごせている部分の方が大きくて、それにずいぶん救われているようにも思います」
 理想の夏。だんだんとくすんでいくわたしの夏が、その言葉でわずかな輝きを取り戻したような気がした。どこに居たいのか、何を感じたいのか、必要なものは何か。喜ばしいことに、まだ何もわかっていない。たまらなくなって玄関の外へ一歩踏み込むと、少し乾いた涼しい風に喉元を撫でられた。日光はまだ暑い。太陽の情けに縋りながら、まずは一度、きらびやかな水辺を目指してみることにした。

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