#5 わたしは彼を知らない
わたしは彼を知らない。
そのTweet(*1)が流れてきたのは、
ラグビーを好きになって、
色んな選手のSNSをフォローするようになって、
トップリーガーの優しさや面白さに触れて
笑顔にしてもらっていたときだった。
そのTweetには白地に黒字で書かれた前向きな文章を貼ってあったけれど
わたしには、深くて暗い深海のような映像が見えた。
わたしは彼を知らない。
どうやら彼は順風満帆なキャリアを経てトップリーガーとなり、
大きなケガを克服して、
再び大きなケガを負った後のようだった。
メモには、
「次に負傷したら引退しようと決めていたけれど、
試合復帰を目指して手術に挑みたい」
といったことが書かれていた。
わたしは彼を知らない。
けれど、そのメモが途中から歪んで、わたしは涙を流していることに気が付いた。
わたしは彼を知らない。
何が琴線に触れたのだろう。
自分でもよく分からない。
ただ、彼の文章はとてもとても低い温度で、
視界の悪い海の底の景色が、否応なしに胸に拡がる。
直感的に、彼は表面だけを取り繕うことのできない人なのかもしれないと思った。
わたしは彼を知らない。
彼の手術は成功したようだ。
不安を越えて、リハビリテーションに挑む姿が綴られる。
学生とオンラインセッションする試みも始めたという。
コーチングにまつわるYouTube(*2)に出演すると知って
視聴することにした。
わたしは彼を知らない。
こんな話し方をするんだ、こんな笑い方をするんだ、
全てが新鮮に映る。
まっすぐな印象は変わらない。
エリート然とした気配をまとわず謙虚で、
そこかしこに周囲へのリスペクトがにじむ。
非常に客観的でクレバーな視点を持っている。
わたしは彼に引き込まれた。
わたしは彼を知らない。
彼は他の競技のワンプレーに挑む姿を日々投稿するようになった。(*3)
彼はラグビーをするために産まれてきたのだろう。
その競技のプレーはなかなか上手くいかない。
それでも繰り返し挑む。
少しずつフォームが改善されて、ある日、劇的に美しくなった。
その数日後に、ようやくプレーを成功させた。
わたしは彼を知らない。
けれど、きっと才能だけではなく、常人ならざる積み重ねをしてきた選手なのだろう。
成功した投稿を目にした瞬間、わたしは再び泣いていた。
わたしは彼を知らない。
ようやく彼を知ることができるかもしれない機会がやってきた。
試合復帰だ(*4)。
彼が蹴り上げたボールは、美しい放物線を描いてゴールポストの間を抜けた。
それだけで感動した。
わたしは彼を知らない。
けれど、もうすっかりファンになっている。
わたしは彼を知らない。
試合終了前に彼が投入された瞬間、
この試合は彼がスコアした得点で勝利を掴むのだろうと確信した。
彼にパスが渡り、相手チームのタックルが迫る。
芝生でも跳ね上がるほどの雨の勢いを上回る、激しいぶつかり合いが続く。
ホーンが鳴る。ホイッスルが鳴る。
彼はゆっくりとボールをプレースし、
5歩、6歩と下がってキックモーションの準備を整えると、
引き分けと勝利を分かつゴールポストを見上げて、
穏やかな微笑みを浮かべた。
三たびになる。わたしはもう泣いていた。
ボールはゴールポストの間を抜けていく。
その軌跡はとても優雅で、ゆったりと勝利の瞬間を味わっているようだった。
わたしは彼を知らない。
彼は背中から見守っていたチームメイトを振り返り、
少年のような笑顔を見せた。
わたしは彼を知らない。
彼の名前は田邊秀樹。
これからも何度でもフィールドで輝くであろうトップリーガー。
わたしは、これから彼を知っていくんだ。