かつての私へ
これは、約半年前に寄稿させてもらった文章を加筆したものである。
ニルヴァーナ
整わない道を歩いて、春の夜の涼しい風に酔いを醒まそうとしている。
気が付けばまたこの季節で、昨年からしていることも変わらないし、考えていることもだいたいおなじである。怠惰だけが加速した。
一年前は、酒はほとんど飲まなかったものである。
外に出る前にゆったりとした上着を羽織ろうとしたが、何かの折で実家に置いてきてしまったようで、探しても見つからない。しかたなく昼の装いで街灯が点々とともる暗い道を歩いている。妙に滑稽で、人のいない道で声を出して笑った。
昼間にしようと思ってた簡単なメールの返信、計画的に進めようと年度初めに志した医学の勉強、シンクにたまった洗い物、すべておいたまま夜を歩く。意味がないことをするほど楽で救われることはない。
やるべきことをこなすのが途方もなく苦しくて、余計な用事を代わりに入れては時間が過ぎ去るのを待つばかり。一人酒も散歩も立派な用事だ。
音楽を聴きながら歩いていると、思考がほどよく邪魔されるし、酒を飲んでいるとやはり思考があやふやになるので、この二つは私のこよなく愛するところである。
何も考えないようにして、すべての決断を先延ばしにして、そうして、そのままこの人生をやり過ごそうとしてしまいそうになる。
わからない、ふりをしている。20を過ぎれば大まかな自分が見えるのは当然だし、人生の行く末も検討がついてしまう。足を掬われないように、突発的な不幸に襲われないことを祈るように生きるのみである。
もう夢は見ないのかもしれない。わたしが保守的な人間ゆえの現状であり、今後リスクをとる生き方ができるとも思えない。
最後に残ったのは、五つにもならない頃から考えていた、魔法使いになる夢だけだ。ああ、魔法が使えて、魔法の世界に行けて、自分が選ばれしものだったらいいのに!
夜になってもふらふらして、朝になる前に逃げるように布団に入る。
横になって眠りに落ちても、気が付いてみれば外は明るい。とりとめのない夢は、いつも状況が”詰んで”いて、閉塞感であえいでいる。
夢に逃げて、夢から逃げて、そうやって時間が過ぎていったのだ。
人生は近くで見れば悲劇であり、遠くから見れば喜劇だという。
しかし、この怠惰にまどろむ緩やかな人生は私自身でさえ悲劇と言い切れない。
そんなこの人生は、駄作である。
その駄作を嫌いになりきれず、あわい幸せを感じながら沈んでいくのだ。
春の夜の底へ。