
ワドルディ勉強法—目標をみつけること
RugArです。
地方国立大の医学部生です。今回は十人十色アドベントカレンダーの企画として寄稿させていただきます。
ほかの皆さんの個性あふれる文章はここからどうぞ。
さて、今回の本題「ワドルディ勉強法」であるが、本題の文章に移る前にみなさんに見てきてほしい動画がある。
短い動画なので、ぜひ閲覧していただきたい。
なお、この文章は一切の宣伝行為とは無関係である。
御覧の通り、ワドルディ勉強法についての創始となる動画である。
今回は、この動画の内容である当該勉強法の解説と、その考察をしていきたいと思う。
ワドルディ その名はザコ
前提知識として、「ワドルディ」について解説しておく必要があると思ったので最初に補足させてもらう。
ワドルディとは、「星のカービィ」シリーズに登場するザコ敵である。
まあ、クリボーのようなものだ。
しかし彼ら、なんといっても公式が言うほどの生粋のザコである。
ここに一つ具体例を出しておこう。基本的に星のカービィというゲームは主人公が敵を倒しつつゴールへ向かう横スクロールアクションが伝統なのだが(マリオブラザーズと同じ形式)、その道中にいる敵をカービィが「すいこみ」をすると、敵の能力を「コピー」することができるのだ。
しかし!ここでワドルディを吸い込んでも!
カービィは何の能力を得ることもないのである!!!!!!
この無能でザコなワドルディは、近年はカービィの仲間、らしき地位を確立しつつある(そしてそれは他の多くの敵キャラも同様である)。とくに、バンダナワドルディという、ワドルディにバンダナを巻いて、ときに槍という固有の武器を持つワドルディは味方サイドとしてカービィとともに冒険もした。
しかし、両者は本来は敵対すべき立場にあり、彼らとカービィは常に比較される運命にある。
そのことを胸に、動画解説へ移ろう。
ワドルディ勉強法とは
それで結局ワドルディ勉強法とはいったい何なのか、動画を参照しつつ振り返っていこう。
ワドルディ勉強法とは、まず、ワドルディの人形か何かを机に置くことから始める。
子供のころは、誰もが自分をカービィだと思っていた。
自分が世界の中心であるかのようにふるまい、努力すればどんなことも可能だと、大人になればもっとたくさんのできることがあると無邪気に信じていた時代があった。
しかし、ある時に人は気づいてしまう。
自分は、この世界において端役の『モブ』しかもらえなかったのだと。
周りを見渡せば自分と同じような面々がひたすらいて、主人公様ご一行はいつも画面の向こう。ならば自分もそこに行けばいいのだと言うは易く行うは難し、どうやったら自分がそちらに行けるのか、まったくもって見当がつかない。そうやってそのまま、あてもなく毎日を過ごしている。
机の上のワドルディと、目が合う。
自分の様は、まさしくザコ中のザコ、ワドルディそのものである。
そんな受け入れがたい事実に直面した時、人はまず、逃げたくなる。
机の上に置いたワドルディ人形が本当に小さくて頼りない生き物に思えて、それがまるでちっぽけな自分のようで、ただ目を背ける。
現実を見ることに耐えられず、ただひたすら逃避するだけの日々が続いていくことになる。その期間に、上限はない。
だが、その事実を受け入れざるを得ない日がある日訪れる。それは突然に、ある種の納得感と虚無感を連れてやってくるのだ。
自分は現在、何もなしえない者である。
極端な過剰評価でも過小評価でもなく、自分が裸一貫で世界の門の入り口に立たされた一個人であることを、ただ感じるようになる。
そのことを知覚できると、そこで初めて人は逃避一択の行動に加えて、一歩を踏み出すという選択肢が与えられる。
再び机に向かい、ワドルディの人形を見つめる。
自分は確かに、いま、ワドルディである。
これではいやだ、つらいと思って散々逃げてきた。
逃げ回っても、状況は変わらなかった。
やはり、ワドルディのままだ。これからも。
しかし、どうだろう。
自分はただのワドルディ。
それは嫌だと、ここからでも頑張れる自分が、腐っていない自分がまだいるんだと、心から強く感じている。
カービィにはなれない。カービィとワドルディは、違う。
それでもせめて、バンダナワドルディになって、カービィと冒険できるくらい、カービィの隣にいけるくらい近くには行けるのではないかと、夢を見たい自分が、強くなりたい自分がここにいるのだ。
ワドルディは弱い。
それが今の自分だ。
でも、その弱い自分を見るたびに、ここで終わるわけにはいかない、この自分を超えていきたいという思いが溢れてくる。
自分の至らなさを、弱さを知覚して人は強くなれる。
ワドルディはもはや、弱かった自分の象徴であり、いつかバンダナを巻く日のためにひたすら努力する今の自分の象徴なのだ。
今日日に起こしたこの決意も、時がたてば熱は冷めその内容も忘れてしまう日が来よう。しかし、机に弱弱しく、いかにものんきに存在するワドルディを見つめて心を落ち着かせれば、必ずやその情熱がよみがえることだろう。
これが、ワドルディ勉強法である。
勉強法の意義
結局のところ、ワドルディ勉強法とは臥薪嘗胆の現代版みたいなものである。ただし、臥薪嘗胆では肉体に苦痛を与えることであの時の苦しみを思い出すのに対し、ワドルディ勉強法では過去や現在の自分をワドルディを通して見つめることで、自分がここから変わっていきたいという熱意を引き出すという違いがある。
自己を内的に分析して、自分にとって納得できる理由を見つければ勉強も素直にできるであろうものなのだが、これがなかなか難しい。
それを、投影しやすいであろうワドルディというキャラクターに自分を写すことで、自分自身の姿を外に引っ張り出して観察しやすくするというのはなんとも妙であると言わざるを得ない。
また、この勉強法のいいところは、動機を自分自身のうちに見出すことができることだ。
どうも最近は、恥ずかしいのかどうか知らないが、自分のそのような熱意溢れた肯定的な感情は、例えば学校、会社、インターネット上など数々の社会で「冷笑」されることで否定されがちである。すかしている奴はそれでいいが、本気で何かやりたいときにそんなことをされるのははなはだ邪魔であり、早急にお引き取り願うところだ。
ただ一つ問題は、その冷笑主義者が自分の心に巣食っていることがあるということだ。これは追い出すのが難しい。
そこでワドルディ勉強法である。
この勉強法は、まずワドルディを通してこてんぱんに自分の現在を理解させ、四の五の言ってられなくなったところに、「努力」というただ一つのエサを吊り下げられるというものだ。事故を肯定する材料が乏しくなって、自分自身に対して何もつくろえる自我がなくなってしまったとき、きっと人は、新しい自分の価値を創造したいと走り出そうとあがくものである。
そうやってワドルディ勉強法をつづけていって、いつか机の上のワドルディの存在を気にも留めなくなり、ただ勉強していく日々が続いていくことだろう。
そうしていつか、またふとした時にあなたはワドルディに目を留める。
そのころには自分をワドルディだと思い込んでいたことも懐かしくなっているかもしれないし、そうでないかもしれない。
しかし共通して言えるのは、たとえそのワドルディにバンダナが巻かれていなかったとしても、勉強を始めたあのころと比べて、何周りも成長した自分であると、ワドルディを見て確信できることなのだ。
きっとこれからも、何度も何度も失敗して、自分がこの世界の中のザコなモブであることを知る日が訪れていくことだろう。
それでも、くじけそうになったとき、いつかバンダナを巻く日を夢に見てまた立ち上がれる私であればいいと思う。
蛇足:この勉強法の禁忌
冒頭で述べた通り、私は医学生であるので、それらしく「この勉強法をやってはいけない人」を書いておこうと思った。
この勉強法は、現在抑うつ状態のものには効果がない。
心の底に押し込められているなけなしの(?)やる気を引き出すものが本方法であるから、やる気どころか心が頑張れなくなっている状態の人間からバンダナワドルディになるぞ!という情熱を引き出そうとしても無意味である。
むしろ、そのような状態特有の極端な悲観的思考が相まって、ワドルディを見つめていたら「こんなにザコなら自分は消えたほうがいいかも…」なんて悲しい結論に到達しかねない。
大前提として、ワドルディでも生きてて全く問題ないのである。
ワドルディは確かにザコだし、何のために生きてるのか全然わからないし、そもそも何考えているのかも全然わからないけど、だれも生きていることを咎めはしない。彼らも生きていてすみません、なんて思いながら生きているはずがない。
きっと何かができるようになったらあなたはうれしいと思うし、それは確かに素晴らしいことだけど、昔の何もできないあなたもそれはそれで魅力があったのではないか、
そう思えたらいいのではないのだろうか。