アイヌ語は印欧語族とオーストロネシア語族のクレオール言語であるという説を元に、縄文日本を空想していきます。
アイヌ語はどこから来た?【世界初解明】/ インドヨーロッパ語族・オーストロネシア語族クレオール言語理論
この動画の復習用ページも公開されています。
長いので要点をまとめてみます。これらの動画と文章の作者である出口日向氏は理系の言語オタク観点から言語を分析されています。
アイヌ語を世界680言語と比較(Wiktionaryという辞書サービスを使用)
アイヌ語基本単語930単語中、414単語を調べて、現段階で96.8%の由来を説明できている(アイヌ語沙流方言を使用)
アイヌ語の元になった最も近い2つの言語がインドヨーロッパ語族 トカラ語Bと、オーストロネシア語族 タガログ語
トカラ語が話されていたのは中国北西部 タリム盆地(新疆ウイグル自治区)
トカラ語はインドヨーロッパ語族のご先祖様的な特徴を持つ(イタリック語派とインド・イラン語派の両方に似ている)
Wikipediaに載っているアイヌ料理5つ中、3つはインドヨーロッパ語族由来といえるほど強い関係がある
ただし、アイヌ語はインドヨーロッパ語族ではない!人称代名詞についてインドヨーロッパ語族と共通点を共有しない
インドヨーロッパ語族には存在していないアイヌ語の文法として、1.所有の表現に譲渡可能性が存在すること、2.「私達」の表現にClusivity「包含性」が存在することの2点がある
これを解決するのがオーストロネシア語族
アイヌ語特有と思われていた接頭辞がそっくりそのままタガログ語に存在している
日本語にもオーストロネシア語族の影響が見られる
アイヌ語、日本語、オーストロネシア語族で共通単語が見られる
縄文語は現代では絶滅したオーストロネシア語族の言語である
アイヌ語の成り立ちは、インドヨーロッパ語族とオーストロネシア語族の単語・文法が混ざったものと思われる(クレオール言語)
根拠1:アイヌ語の構文はオーストロネシア語族のものとは大きく異なる
根拠2:アイヌ語の動詞の活用についてはインドヨーロッパ語族由来で、それを簡略化した可能性がある
根拠3:単語については両語族が混ざっているものの、人称代名詞や家族、移動に関するものはオーストロネシア語族の影響が強く見られる
トカラ語の時代と文化
Wikipediaからトカラ語の関係部分を拾い出して見ます。
トカラ語
トカラ語はアファナシェヴォ文化やヤムナ文化と関連を持ちます。
アファナシェヴォ文化
ストーンサークル(環状列石)
これはもうWikipediaに記載されているとおり、ストーンサークルがトカラ語と日本をつなぎます。
日本のストーンサークルの起源についてWikipediaに次の説が記載されています。
遼河文明・興隆窪文化
遼河は、中国東北部、河北省、内蒙古自治区、吉林省、遼寧省を流れ、渤海北部の遼東湾に注ぐ川です。日本語を含むトランスユーラシア語族の故地であるとする説が2021年に提出されました。中国文明の源流は、遼河文明・黄河文明・長江文明の3つである、というのが近年の有力な説です。
遼河文明
縄文中期アジア文化圏
遼河文明の興隆窪と三内丸山から北海道を含む円筒と示された部分に対応が描かれています。先ほど「ストーンサークル」の項でみたように、なぜか、遠く離れた地域で文化の伝搬が見られます。
興隆窪文化
興隆窪文化の時期は、アファナシェヴォ文化よりも3000年程早いものの、この時期の遼河文明には、ウラル系住民が多くいます。のちに、紀元前3000年前頃にこれらの住民にトカラ語系のY染色体ハプログループR1bに属す集団から環状列石の文化が伝わり、次いで日本に伝わった可能性が考えられます。
さて、この興隆窪文化のヒスイですが、原産地はどこでしょうか。詳しくは書かれていませんが、ヒスイの加工技術を古くから持っていたのは、糸魚川の縄文人で、朝鮮半島まで糸魚川のヒスイが渡っているそうです。
一方、大陸産のヒスイの産地はトカラ語の話されていた新疆ウイグル地区・タリム盆地・後の月氏の領土です。
これで、ヒスイの産地であるトカラと縄文がヒスイを利用していた遼河文明を通じて一応つながりました。
三内丸山交易センター(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)
この時期、縄文人は広く交易をおこない、糸魚川のヒスイや北海道の黒曜石などが青森の三内丸山遺跡に集まっています。南方のイモガイも中継地を経ながらかもしれませんが、見つかっています。
このように、今から5000年前の世界で、すでに広くヒトの移動が見られ、インドヨーロッパ語族のトカラ語とオーストロネシア語語族の縄文語からアイヌ語が誕生する可能性ができあがっていました。もうすこし具体的に、ストーリーを考えてみましょう。
円筒土器
先に「遼河文明」で見たように、縄文時代前期の日本と大陸を結ぶ要素の一つが円筒土器です。Wikipediaの該当項目から要点をまとめてみます。
円筒土器(えんとうどき)は縄文土器の一種で、東北地方北部から北海道地方南西部にかけて分布する。平底の深鉢が円筒形を呈することから命名された。
青森県青森市の三内丸山遺跡や秋田県大館市の池内遺跡、秋田県能代市の杉沢台遺跡や北海道函館市のサイベ沢遺跡など巨大集落をともなう時期の土器であり、口縁部に文様帯を区画して設け、さまざまな押圧縄文によって装飾をほどこす点に前期・中期を通じた特色がある[1]。
類似する平底円筒型土器が遼河地域[2]、朝鮮半島北部からアムール川流域、沿海州にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されており、ハプログループN1を担い手[3]とする遼河文明との関連が指摘される[4]。
円筒土器文化圏の北側の境界線は概ね石狩平野であり、それ以北の道北・道東地方には北筒式土器文化圏、南側の境界線は概ね秋田市-田沢湖-盛岡市-宮古市を結ぶ線で、その南側には大木式土器文化圏が広がる。
東北地方で北海道産の黒曜石が、北海道で新潟産の翡翠が大量に出土するなど、津軽海峡をわたる人々の交流と物資の輸送はきわめてさかんであった。
この文化圏では縄文時代後期になると、秋田県鹿角市の大湯環状列石、青森県青森市の小牧野遺跡、秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡など「ストーンサークル」とよばれる祭祀遺跡が数多くつくられ、晩期にはきわめて精緻で工芸的水準のきわめて高い亀ヶ岡式土器や遮光器土偶、藍胎漆器をはぐくんだ地域としても着目される。
中国東北部から朝鮮北部、アムール河沿岸、沿海州を経て、日本の北海道南部から東北北部に至る地域で、おそらく文化的な交流があったと思われる状況があります。
日本海の海流
日本海には南から北に流れる対馬海流と北から南に流れるリマン海流があります。うまく利用すれば、反時計回りに一周できそうです。
5000年以上前の縄文時代から文物の交流があったのは確かですが、まだそのルートは解明されていません。
この山形県で見つかった青銅のナイフというのは、山形県遊佐町の縄文後期遺跡から見つかった青銅刀子で紀元前1300年頃の殷代のものだということです。
ルートとしては、沿海州から間宮海峡を渡って樺太にわたり、宗谷海峡を渡って北海道に至るルートと、対馬海流とリマン海流を利用して日本海を反時計回りに一周するルートが考えられるのではないでしょうか。いずれにせよ、当時津軽海峡両岸に住んでいた縄文人は沿岸を航海する技術に長けていたので、縄文人が主体となって大陸に渡航していたとしても不思議ではないと思います。
クレオール語
アイヌ語がインドヨーロッパ語族の言語とオーストロネシア語族の言語のクレオール語であるとして、では、クレオール語はどのような状況の場合に生まれてくるのでしょうか。
このページには以下のように記載されています。
アイヌ語がクレオール語であるとすると、オーストロネシア語族の縄文語を話していた縄文人が、インドヨーロッパ語族の民族と商取引を行うか、支配された時期を経る必要があると思われます。その時期はいつで、どこで起きたのでしょうか?
アイヌの歴史
同じくWikipediaからアイヌの歴史のうち関連しそうな部分をまとめてみます。
アイヌの歴史は縄文時代からアイヌ文化期まで、周辺文化を選択的に受容しつつ緩やかにかつ連続的に移行していったとするのが定説である[1][2]。こうした考古学的見地は、ヒトゲノムによる研究とも親和的である。
アイヌ文化には古くから狩猟採集というイメージがあるが、考古学的な研究により交易を中心とした文化と捉え直されるようになった[5][6]。北海道は古代から周辺地域との交易・交流を通して広域的な文化が接触する領域であった。アイヌはその交易を担っていく中で、周辺地域の文化を選択的に吸収・翻案して独自の文化を形成してきた。
道内の縄文文化は石狩低湿地帯および黒松内低湿地帯を堺として道東・道央・道南に大別されるが、道南は縄文時代を通じて本州北部と一体の文化圏を形成していた[10]。
2023年現在、最も古い土器は帯広市から出土した約1万4千年前のもの
また道内の縄文早期の特徴として石刃鏃文化が挙げられる。石刃鏃とは白滝産黒曜石を原料とし漁撈用の鏃とされ、道東北部を中心に石狩平野からサハリン・アムール川流域まで分布している[12]。石刃鏃と共伴する土器はアムール櫛目文に類似する文様をもち、樺太経由で(大陸を)南下した人々がいたと考えられる
縄文後期から晩期にかけて葬送儀礼に大きな変化が起こり、環状列石や集団墓地が現れる。
道内から出土する糸魚川のヒスイ、八戸市是川中井遺跡の漆から検出された道産の硫化水銀、道内で出土するイノシシの骨などから、本州との交易および祭祀等の信仰・思想の共有があったと考えられている
縄文早期から大陸に石刃鏃を持ち込んだ人々があり、大陸との交流があったことがわかります。また、環状列石がみられるようになるのは、縄文後期から晩期にかけてであるため、アファナシェヴォ文化の影響を受けて縄文語がアイヌ語化したとすると、縄文後期になってからであるということがわかります。つまり、円筒土器文化圏のいて言語交替が起きたことになるでしょう。また、円筒土器は遼河文明から伝わったものではなく、縄文人が伝えたものである可能性が高いのではないでしょうか。
無理やりストーリーを考えてみる
言語のクレオール化が進むためには、親の世代が意思疎通のために作った簡単は混合言語(ピジン言語)を、そこで育った子どもの世代が文法規則を備えた独自の母語(クレオールで言語)にする(pdf)必要があります。
縄文前期から海を越えて大陸に渡っていた縄文人たちですが、海を渡っていたのは、男性だけだろうと思います。というのは、交易に出るのは男性であったからです。また特に盛んだったのは、筒形土器文化圏だったろうと思います。
紀元前3000年頃、そうした男性の一人が持ち込んだヒスイ製品を、同じくヒスイを産出する地から遼河文明圏にヒスイを交易品として持ち込んだトカラ語話者が見て、ヒスイの加工を依頼しようと持ち掛けたとします。
糸魚川のヒスイ加工技術者たちが筒形土器文化圏の縄文人に連れられて遼河文明圏に長期出張を繰り返して、トカラ語話者とやりとりしながらタリム盆地産のヒスイを加工する中で、ピジン語が生まれていきます。出張縄文人の中には若い男子も含まれており、出張を繰り返す中でクレオール化していくものとしましょう(かなり強引ですね)。こうしてアイヌ語が生まれていきます。
トカラ語話者から学ぶのは言葉だけでなく、技術や社会制度、宗教的な概念も含まれていたかもしれません。環状列石はそこに含まれます。これにより、こうして誕生したアイヌ語話者は、他の縄文人よりも優位になります。
やがて、トカラ語話者自らがヒスイ加工技術をぬすみ、縄文人による長期出張はなくなりますが、糸魚川出身のアイヌ語話者たちは、日本での文明の先進地であった筒形土器文化圏に移り住み、勢力を伸ばして言語交替が発生したのです。
かなり強引なストーリーですが、遼河文明で糸魚川産のヒスイがでたり、東北北部から北海道南部で縄文時代の青銅器がでたりすれば、少し信ぴょう性が高まるかと思います。もっとマシな可能性を思い付けば、この記事を更新したいと思います。
本田勝一氏の『ニューギニア高地人』という本は、何度でも思い出す本です。普段仲も悪く戦争ばかりしている部族同志でも交易を行ったりします。今とは違い、カレンダーも会社や学校もない時代ですから、交易というのは情報交換も兼ねた楽しみの一つになっています。縄文時代の人々も、そんなふうに気ままに交易のでかけていたのではないでしょうか。そうした中で、新しい言語が誕生した可能性はあると思います。