哲学 課題1
写真お借りしました。京都の哲学の道はネコチャンがたくさんいてネコチャンに会いに行ってみたりしました。
昨日時間ギリギリに哲学を出したんですけど、今朝webキャンパスログインしたら「合格です」の文字。
一瞬見間違えたのかと思ったw
さて、友人やフォロワーさんがかなりの有識者でいろんなヒントを頂きつつ書きあがったレポートです。
みなさまのご教授があってこそのこの結果だと思います。ここで御礼申し上げます。本当に感謝。
自分で問うててわからなくなってきた哲学でしたが、なんとか書き上げてみました。
友人が素晴らしいヒントをくれたので、自分の考える善悪のテーマを「嘘」としたけれども、これは哲学の中でも結構難しいテーマだという。
自分で論じていても結局何が言いたいの?という感じだったので最高評価Sを貰えたのは驚きと疑い(笑)
以下レポートです。
1. 功利主義とは18世紀にジェレミー・ベンサムが唱えた、人間の根本的な行動原理を快楽と苦痛と捉え、我々が何をすべきかは快を求め、苦を避けることで決まる思想である。功利主義はふたつの原理に立脚し、個人であれ集団であれ功利性こそが人間の行為の自然な目的である原理、功利性のみが唯一の倫理的基準であるべきだという原理である。人間の活動はすべて苦痛の除去と快楽の追求という2つの動因によって動かされている。功利主義は快楽主義に根ざしたものであるが、異なる点は「私・個人の快楽や幸福」ではなく「できるだけ多くの人たちの幸福」を道徳の掲げる基準としている。功利主義が人間の行為自体は善でも悪でもなく、道徳的価値はその結果が善であるならば、その意図に関わらず善とする考え方である。
2. 命法には仮言命法と定言命法の2種類がある。仮言命法とは「もし…なら〜せよ」と条件によって行動が左右される。何かあることを行うべきであるという命法である。定言命法は絶対的で普遍的な命令のことであり、正しい行いについては無条件の義務を求める。カントにとっての道徳的行為とは義務感に根ざす行為である。幸福になるために善くあろうなどと目的を持って行うことは道徳的ではない。道徳律を実現するための選択の理由が義務であり場合にのみ道徳的価値があるとする。カントが定言命法で表そうとしたのは「つねに、あなたの行為が万人にとって普遍的法律となるように行為しなさい。」、「すべての人を目的に対する手段としてではなく、目的それ自身として扱いなさい。」の2つである。ただ義務のため「だけ」に行為することが定言命法である。
3. 私の考える善悪とは嘘をつくことだと考える。以下に細かく説明する。
カントは「われわれの友人を人殺しが追いかけてきて、友人が家の中に逃げ込まなかったかとわれわれに尋ねた場合、この人殺しに対して嘘をつくことは罪である。」と述べている。嘘をつくことは罪であるということである。カントは、人間が陥っている事態を「根本悪」という名の「原罪」とみなしたのである。定言命法に従う行為をしなくてはならないとするならば、いかなる場合において、いかなる人物に対しても嘘をついてはいけないということになる。定言命法に従っていけば「嘘をついてはいけない」・「正直であれ」ということで人殺しへの質問を正直に答えることが道徳的で正しい行為で完全な正義であるということになる。しかし、この状況であれば訪ねてきた人殺しに正直に話すよりも友人を助けるためには嘘をついたほうが善だと考える。子どもの頃には親から「嘘をついてはいけない」と教わってきているが、生涯で正直に生きて嘘をついたことのない人はいるのだろうか。おそらくそんな人は存在しないであろう。ではなぜ、嘘をつくのが悪いことなのかと問うと、人を傷つけるから、陥れるものだから、と答える。もちろん、他人を省みずに自らの利益を獲得するための嘘や傷つける嘘は正当化できない嘘であるが、嘘は絶対に悪であるのだろうか。私は嘘をつくことは善であると考える。自分自身ももちろん嘘をついたことは数えられないほどあるし、自分を守ったり、人を喜ばせるための嘘はたくさんついている。人間関係を円滑にするためならば、嘘をつく必要がある。日本には「嘘も方便」ということわざがあるように、自体を丸く収めるために仕方なくつく嘘をつくこともあるのだ。人を傷つけない為に、事実とは異なることを話して、相手の気持ちを明るくすることはいい嘘となる。自分や他人を守るための嘘ならば、それは善であるのだ。その嘘はホワイトライと呼び、人を救うため、人を傷つけないための嘘である。自分を守るため、人の気持ちを考えて喜ばせるためにつく嘘は善である。動機は何であれ、結果として当事者が満足することであるから、この考えは功利主義に基づいたものである。
この行為の善悪は結果によって定められるものだと考える。自らを守るための嘘でも、結果的に人を喜ばせたり安心させたりするものならば、それは善である。善悪の判断はした側ではなく受け取った側が判断するものであり、こちら側がよかれと思ってやったことであっても他人からしたら悪になることもある。功利主義の考え方のような「できるだけ多くの人の幸福」であれ、「私・個人の幸福」であれ、自分や他人にとって都合の良い、快楽的な嘘は悪ではなく善なのだと考える。
あとまだ途中ですが、哲学を考えるのにいい本です。
(フォロワーさんに教えて頂いた)
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