カラマーゾフの兄弟
『カラマーゾフの兄弟』
ドストエフスキー著
亀山郁夫訳
『義人はいない。ひとりもいない。悟りある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、皆ともに無益な者となった。善を行うひとはいない。一人もいない。』
聖書:ローマ人への手紙3章10~12
この物語にでてくる登場人物はすべて罪のなかにある。 人間とは、そもそも罪を犯し続けるいきものなのだ。改めてそう認識させられた。
カテリーナからだまし取った3000ルーブルを一晩で使い果たしたという豪快なドミトリーだったが、実は、グルーシェニカとの生活のために1500ルーブルを密かに隠し持っていたという。 豪遊するということをむしろ誇らしげに語ってしまったばかりに、ドミトリーとしては、まさか、1500ルーブルは残していたことを取り調べでは語る事ができない。
陪審員たちは検事の弁論を聞けば、有罪という空気がながれ、また、弁護人の弁論を聞けば、無罪なのでは?という空気がながれてしまう。人の心証というものは、ちょっとしたことでころころ変わってしまうものなのだろう。陪審員たちは、ドミトリーの発言にかなりこころを動かされるも、カテリーナの証言によって、有罪という判決をくだしてしまう。人の下す判断というものはかくも、頼りないものなのだろう
「神と、おそろしい最後の審判にかけて誓います。父の血にかんして、ぼくは無実です!」これは、有罪判決を聞いたときにドミトリーが発したことばだった。
自分の愛すべき仲間(グルーシェニカやドミトリー)からの信頼/愛を感じる事さえできれば、裁判での判決はドミトリーにとってたいした意味はない。つくられた社会常識の枠にとらわれず、欲望と正義と愛に生き抜くドミトリーの姿にロシア人気質をかいま見ることが出来る。
人は、自分の幸せというものを、自分の努力で勝ち取ったものだと当たり前のように思ってしまう。一方、不幸に対しては、自分の中に原因を見つける事はできず、嘆いてしまう。 思うに、人に降り掛かるあらゆる出来事は、すべて神の計画の中にあって、全ては調和に向かっていくのだということを改めて認識させられる。
神はいったいどこにいるのだ?という命題に対して、次男イワンは「神はいない」といい。 三男アレクセイは「神はいる」という。
殺されてしまった父フョードルでさえ、アレクセイを通して、神の存在を認めていた。 嫉妬にくるったカテリーナはドミトリーを有罪に追い込む証言をしつつ、悔い改めの心を通して神の「愛」を知る。 グルーシェニカの野心・従順さを通して神の「愛」が見えるのです。 アレクセイの信仰を通して、神はいつも近くにいる事がわかる。イワンという無神論をとなえる者でさえ、こころの中に神の存在をみとめている。人間の努力ではどうすることもできない事に対して、神の見えざる手が働いている様に思えてならない。
自分の人生をいざ振り返ってみても、あらゆる出来事は神の計画によって引き起こされて、そのときそのときに、妥当な選択がなされているのだと思う。ひとり一人に与えられた人生には多くの問題はあるものだけれども、人生という長いスパンで考えれば、それぞれに、美しいものとして記憶に残される。 先日、なくなられた韓国の金大中元大統領の最後の日記に記された、 「人生は考えるほど美しく、歴史は前に向かって発展する」ということばを思い出す。