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暮らしの「核」
10年日記をつけて、やっと3年目が終わろうとしている。1日の割り当ては5行程度。
毎日コツコツ書いている、と言いたいところだけど、すぐに書きそびれて、1週間まとめて書いてしまうことも・・・・・・
3歩前のことも思い出せないのに、1週間前のことなど1000年昔と同じ。スマホに保存した写真や、Xのポスト、Googleのタイムライン、書いたnoteを見返して無理やりに行を埋める。日付を取り違えたり、今日の気持ちを4日前の日記に書いたり。ねつ造である。日記失格である。
まだ3年、されど3年。
振り返ってみれば、日記を始めた2021年1月、例の感染症のまっただ中。日記には「感染症が心配」という文字が何度も出てくる。職場では、人が集まる恒例イベントがなくなり、在宅勤務が進み、業務が増えた。
大学進学で子どもたちが家を出て、夫と二人暮らしになった。同僚だった友人たちが仕事を辞めたり、遠くへ引っ越したり、知っている人が亡くなったりもして、自分の周りはグラデーションのように少しずつ色を変える。
自分もまた、多分、行きつ戻りつしながら、変化している。
だけど、暮らしの根幹は、全然変わっていない。
朝起きて、ご飯を食べて、仕事に行って、帰って、ご飯を食べて、ちょっと遊んで、お風呂に入って寝る。
どんなに周りが変わっても、私の生活はずっと変わらなっていない。振り返れば、学生のころから、そうだった。仕事が学校に変わっただけで、ずっと同じ。「ちょっと遊んで」の遊ぶ中身もほとんど同じ。本を読むか、テレビを見るか、ピアノを弾くか、手芸をするか。
振り返れば、10年日記どころじゃない。40数年ずっとそうだったわ。
寝て、食べて、働いて、ちょっと遊ぶ。これが、私の暮らしの「核」。
感染症におびえた3年間は、本当にめんどくさかったし、常に「会いたい」「行きたい」と、うずうずしていたけれど、健康に乗り越えられたのは、自分の生活の核を守れていたから。
それはとてもありがたいことだった。
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