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「ハンチバック」#独りよがりレビュー
電子書籍はスマホやタブレットさえあればどこでも読めて、かさばらない。コピペやスクショでメモして、データで残しておくことも可能。
でも、やっぱり紙の本がいいと思う。
書店で背表紙を見ながら選ぶこと、手にした喜び、紙の匂いや重み、ページをめくる感触や音、旅先で買い集めたしおり、ページの厚みが少なくなる名残惜しさ。どれも、紙の本でなければ味わえない。
保存という意味でも、紙の本は強い。
図書館、博物館、古書店にはずっと昔に書かれた本が今も残っている。西洋紙なら100年、和紙なら1000年は保つと言われている。平安時代の源氏物語や枕草子、戦国時代や中世の文書が、特別な道具を必要とせずに保存され、今でも読むことができる。電子データの保存技術もすすんでいるけど、果たして1000年残すことができるのだろうか。
だから、やっぱり紙の本がいい。
これが一般的な読書好きの意見ではないだろうか。
私もそうだった。
私は紙の本を憎んでいた。目に見えること、本が持てること、ページがめくれること、読書姿勢が保てること、書店へ自由に買いに行けること、――5つの健常性を満たすことを要求する読書文化へのマチズモを憎んでいた。その特権性に気づかない「本好き」たちの無知な傲慢さを憎んでいた。
傲慢さ、マチズモ。
今年芥川賞を受賞した、市川沙央の「ハンチバック」を読んだ。
市川氏本人と同じであろう障がいをもった主人公釈華の独白シーン。
不自由な体で紙の本を読むことは非常な苦痛を伴う行為である。体をあらぬ方向に曲げ、重力と戦いながら読書する。
マチズモ=マッチョイズム、力の誇示。傲慢さ。
主人公の言葉が、暗殺者が投げたナイフみたいに胸につっこんできて、刺さった。
紙の本がいいと感じるのは、個人の自由だ。紙の読書体験という力を使うのも自由。よくないのは、「できない人もいる」という事実に目をそらしていることだ。
年々老眼が進んでいる。ふだん近視用コンタクトレンズを付けているのだけれど、そのせいで手元はぼやけてほとんど見えない。老眼鏡を掛けてやっと見える。それでも、裸眼に比べたら、レンズを通す分、ひずみやくすみが発生する。完璧とは言えない。それをだましだまし、生活している。
小さすぎる文庫の文字は読みづらい。近づけても遠ざけてもピントが合わない。
そんなとき、電子書籍に助けられる。アプリで文字の大きさを自在に変えられる。スマホからタブレットに変えれば、画面自体を大きくすることができる。どんなにページが増えても重さは変わらない。書籍ではできない芸当だ。
自分も釈華ほどではないけれど、読書をするには多少の障害があるのに、それに気づいていなかった。
考えないようにしていること、気づかないふりをしていること。
老眼というハンデを持っていることにすら気づかない鈍感さ。
いずれもっと年老いて、老眼が進み、体にもガタが来て、本を読むのが苦痛になっても、「やっぱり紙の本がいいよね」と言う。
それは一体誰の言葉なのだろう?
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