ベーグルの温度 #クリスマス金曜トワイライト

年の瀬の風は冷たい。今年もあと数時間で終わる。
拝殿の裏の森にはもうすっかり暗くなって、黒い塊となっている。
神社の境内はすっかりお正月準備が整って、明日の初詣に備えている。
ふだんも人はまばらな、この都心の神社も、今日ばかりはいつも以上に来る人がいない。たまに来ても、走り走りでお参りをすませ、足早に石段を下りていく人ばかりだ。
僕は、指定席の椅子に座って、今日何回目かのため息をついた。

あの日から、僕は彼女のことを「バリスタのカワサキさん」と心の中で勝手に呼んでいるが、本当の名前は今も知らない。
でも僕は彼女を待っている。

カワサキさんに出会った時、僕は徹夜明けでへとへとだった。もう何日もまともに寝ていない。だというのに、家にも帰れず、朝から上司にどやされ、こき使われ、身も心もボロぞうきんのようになっていた。
重い体を引きずって、会社のあるビルの1階のカフェに入った。
カウンターの向こうに見慣れない女性がいた。ああ、この子がこないだから社内で噂になっていた「1階のカフェに新しく入った可愛い子」か。
白いシャツに黒いエプロン姿が、ショートカットで少し童顔の彼女によく似合っていた。
「ベーグル温めますか」
ベーグル温めますか。
鈴のような声だった。
その声が言葉が、疲れた体になぜだか沁みた。
彼女がカウンター越しに差し出したベーグルの温かさを、彼女の体温のように感じて、心が緩んだと同時に、心臓がドクンと波打った。
「どうも……」
ゆるんだ頭では、もう、それ以上の言葉が見つからなかった。

それからしばらくして、競合プレゼンの準備で徹夜から解放された日の朝だった。
オフィスのある23階からエレベーターで1階に降りる。足音を響かせながら人気のないロビーを過ぎ、警備員室の前を通り通用口から外に出ると、高層ビルの隙間に、うっすらと紫に明け始めているのが見えた。キンと冷えた、まだ誰も汚していない朝の冷たい空気が、徹夜明けで火照った頭を冷やす。
「さむっ」
コートの襟を立てながらビルに沿って歩き始めると、大きなバイクが大きなエンジン音を響かせて、僕の隣を風のように通り過ぎ、ビルの前で止まった。
カワサキの1000cc、緑色の大型バイク。乗っている人間は小柄で、体型から女性のようだ。好奇心に勝てず、女性がバイクを降りてヘルメットを取る様子を、じっと眺めてしまった。
現れたのは、1階のカフェの彼女だった。スマホを取り出し時間を見る。カフェのオープン時間まであと1時間。ああ、そうか、道理で夕方に行ってもいないはずだ。彼女は早番なのか。

彼女と目が合った。僕が目をそらすより先に、ニコッと微笑みかけてくれた。彼女が温めてくれるベーグルの熱と声を思い出して、冷えたはずの頬が火照った。

それから僕は、彼女を「バリスタのカワサキさん」と心の中で呼ぶようになった。
それから、カフェの前を通るたび、店内をのぞいてカワサキさんを探した。時には窓の外から彼女の働く様子を眺め、時には偶然を装ってカウンターに向かった。
「ベーグル温めますか」
「あ……はい、どうも……」
僕とカワサキさんの距離はなかなか縮まらなかった。

同年代の同僚の間で彼女の噂話だけは、なぜか僕にもよく聞こえてきた。
彼女がバイクに乗ることが話題にならないで。あれは、僕だけの秘密だ。
幸い、彼女が誰かと付き合っているという噂も聞くことはなく、ほっとする。
日常の隙間、隙間に彼女がバイクから降りる姿や、笑顔で接客する姿が脳裏でちらつく。スマホで時間を確認するたび、「今行っても、カワサキさんはいない時間だな」などとぼんやり考えた。
カワサキさんの本当の名前も知らない。彼女がカフェで働いていることと、カワサキのバイクに乗っていること以外なにも知らないし、言葉もまともに交わしたことがないのに……
それでもストーカーのようにならずにすんだのは、次から次へとやらねばならない仕事があったおかげかもしれない。
そのうち、カワサキさんはは同僚の話題から消えた。なんでも地下のスーパーに超美人の女性店長が異動してきたらしい。

仕事に行き詰ったとき、気分転換に神社に行くことにしている。静かな神社の境内にいると、さっきまで頭の中に渦巻いていたモヤモヤがすっと晴れて、不思議と新しいアイデアが浮かぶ。
通称、田町八幡と呼ばれる御田八幡は会社から少し離れた、国道沿いのビルの谷間にある。階段を登ると小高い丘に小さな社、木造拝殿の後ろは深い森。

その日は厄日だった。
現場が撮影の道路使用許可を取ってなくて、しつこく追求する警察に何度も何度も頭を下げた。撮影からオフィスに戻れば、上司から経費の伝票処理を執拗に問いただされてキレそうになるのを、必死でこらえた。
クサクサした気持ちを少しでも和らげようと、田町八幡へやってきた。

石段を登り本殿に向かうとき、僕の指定席、国道が見下ろせる眺めのいい椅子に目をやると、珍しく先客がいた。
カワサキさんだった。
体がピリリとしびれるのを感じながら、本殿に向かいお参りをし、祈るようにおみくじを引いた。

大吉。「恋人・あわてず心をつかめ」

振り返ると、カワサキさんはまだ椅子に座っていた。
そっと、カワサキさんのほうへ回り込んだ。彼女が気づくくらいの距離まで近づいて、彼女が顔を上げると同時に、会釈した。
カワサキさんがにっこり笑った。僕を覚えていてくれた。
カワサキさんは、肩にかけているショルダーバッグにメモ帳をしまうと、少し青みがかった澄んだ目で僕を見つめる。
僕は、彼女の視線から逃げるようにうつむいて、
「あの……おみくじに、『待ち人は遅れて来たる』って書いてあったんです……あ……おみくじは引きました?」
「いいえ……ええと……あのビルでお勤めなんですか?」
「あ、はい。23階に勤めています。いや、もう住んでますかね。あはは」
僕は自嘲気味に言って、会社の名刺を差し出した。
「広告代理店ですか。お忙しいんでしょうね。ええと、私は学生なので名刺はないんです。デザインの勉強をしています、夜学で」
バイクに乗るカフェの店員から、デザイン学校の学生。カワサキさんの生活を知って、ふいに彼女がリアルな血の通った人間に見えた。それはまるで、SNSで知り合った人と初めて会ったような感覚だった。
「またお店に来てくださいね」
たわいもない世間話がこんなに楽しいと思ったのは久しぶりだった。
都会の神社でカワサキさんと出会ったのは、神様が遣わした縁に違いない。
明日からはカフェで彼女とどんな会話をかわそうか。心が弾んだ。
僕は有頂天だった。

しかし、翌日からカフェにカワサキさんの姿はなかった。

カワサキさんを見かけなくなって、数か月が過ぎた。
何があったのだろうか。こないだの僕の態度に何か落ち度があって、僕を避けているのだろうか。もしかして、恋人ができて駆け落ちしたのかもしれない。
同僚の噂話に彼女のことが出てこないかと聴き耳を立てたが、全然出てこなかった。とすれば、もしかすると、はじめから彼女は僕の妄想だったのかもしれない。

はじめのころこそ、彼女の不在に取り乱したが、そのうちに、いつも通りの膨大な仕事に忙殺され、当初のようにおかしな妄想をすることはなくなった。

数か月後、ロケ撮影に向かう途中、トイレ休憩で立ち寄った第三京浜の三沢サービスエリアで、並んだバイクの中に緑色のカワサキを見つけた。ドキリと心臓が鳴った。まさかと思いながらカワサキさんの姿を探した。しかし、彼女はいなかった。
がっかりしながらトイレに向かい、ハンカチで手を拭きながらロケバスへ戻ろうとした瞬間、緑のカワサキの隣に立つ彼女がいた。
視線を彼女に送ったまま、体が固まって動けなくなった。
手に持っていたハンカチが、ぽたりと落ちた瞬間、急に強い風が吹いて、ハンカチがカワサキさんの足元へ飛んで行って、落ちた。

足元に落ちたハンカチを拾い上げ、飛んできた方向を見た彼女もまた、硬直したように僕のほうを見ていた。

「おみくじ。また引いたんです! 覚えてます?!」
カワサキさんに向かって、声を張り上げた。
「ええ、もちろん! で、大吉でしたか?!」
彼女は答えながらハンカチを拾い上げ、ニコリと笑ってこちらへ歩いてきた。
青いシャツと革ジャンがよく似合っていた。
彼女が僕のほうを見て、笑っている。それだけで、心が空に舞い上がりそうだ。
「こ、これからロケで行かなくちゃいけなくて、朝からバタバタですよ」
上ずる声を抑えながら、彼女に話しかける。
カフェで見かけなくなったと言うと、カワサキさんは事故で少し入院していたと答えた。
「ほんと、私って鈍くさいですよね」
カワサキさんはペロッと小さく舌を出して、首をすくめて顔をくしゃくしにして笑った。
彼氏ができたわけでも、僕に嫌気が差したのでもなかった。そして彼女はやっぱり実在したじゃないか。

彼女が何か言おうとしていたが、すぐに仲間が彼女を呼びに来た。

何か言わなくては、何か。
心臓が早鐘を打っている。足ががくがくする。何か、早く何か言わなければ、彼女と僕の糸がまた切れてしまう。

「あの……また会えますか……」
やっとのことで絞り出した言葉。
「お店には、来週からいます。今日はリハビリrideなんです。ロケ頑張ってください」
そういった彼女の笑顔が残像のように頭に残り、その日、そのあと僕は何をどうしたのか覚えていない。

翌週から、また彼女はカフェに出るようになった。
「ベーグル温めますか」
仕事に疲れてへとへとになって、彼女の鈴の声とコーヒーとベーグルの温かさを求めて、オアシスのようなカワサキさんのいるカフェに駆け込む。
コーヒーのカップとほんのり温かいベーグルを受け取って店を出て、23階まで帰るエレベーターで一口すすり、ほっと一息つくと、思考が戻って来る。
「どうしてランチくらい誘わなかったのだろう」という後悔が毎回押し寄せる。だけど、僕はますます仕事に忙殺され、仕事のこと以外考えられなくなっていた。あの時の僕には、生活のすべてを仕事に塗り替えていて、そうしなければ生きていけないのだと思っていた。

そのあとも、彼女にはいろんなところで出会った。コンサート会場のロビー、居酒屋、大江戸温泉の休憩所。だけど、恋に発展させることはできなかった。僕がほかの女性といたり、逆に向こうが男性といたり。彼女にとって、それが恋人なのか、友人知人なのかすら聞くことも知ることもできなかった。

僕たちの出会いから1年が経ち、また次の冬が来る頃、いつものように、徹夜明けにカフェで彼女からコーヒーとベーグルを受け取ったときだった。
「ちょっと待っててくださいね」
といって、彼女がポケットから何かを取り出した。
「これ、オマケです」
それは、透明の袋に入った焼き菓子だった。
「うわ。嬉しいです。このあとのミーティングで食べます。もう疲れて死にそうだから。ありがとう」
と受け取ると、
「きっと効きますよ、特製ですから」
彼女はいつものようにニッコリ笑って言った。
君のその笑顔が何より効きそうだよ。言いかけて恥ずかしくなってやめた。

23階のオフィスにもどり、長引く会議にうんざりしたころ、さっきの焼き菓子を思い出した。
貰った焼き菓子をポケットから出すと、裏側に小さなシールが貼ってあるのに気がついた。
シールは小さな手紙のようになっていた。封をはがすと中にはメッセージが小さな文字で丁寧に書かれていた。

「しばらくバイク旅に出ます。つづきは、おみくじを引いてください」

背中がすっと冷たくなるのを感じたが、
「日々是好日。あるがままを良しとして受け入れるのだ」と言い聞かせるように口の中でつぶやいた。
窓の外は真っ暗になって、さっきまで美しく見えていた富士山が、暗闇かき消されていた。

「大吉」
大吉は大凶の裏返しでもあると何かで読んだことがある。
僕にこれから降りかかることは何だろう。
こういうおみくじは早く結わえてしまおうと絵馬のあるほうへ向かった。
いくつかの絵馬とおみくじをどかすと、一枚のバイクの絵が描いてある絵馬が表に出た。

「理由があってバイク旅をしてきます。もし私のことを覚えていてくれたら、来年の大晦日にココで会いたいです。そして除夜の鐘を一緒に鳴らしましょう」

神様はときに優しく、ときにいじわるだ。
大吉と大凶。
どうして気づかなかったのだろう。彼女の気持ちに。
あれほど何度も出会っていたのに、僕は見ないふりをした。
彼女はもういない。
僕は、僕の気持ちも彼女の気持ちも、仕事という風呂敷で覆いかぶせて見ないふりをしていた。
あの日、僕に渡した焼き菓子に賭けていたんだ。僕が彼女を引き留めてくれるかどうか。でも、僕はそうしなかった。
ちくしょう。
涙まじり、鼻水交じりの声で空に向かってつぶやいた。


「ベーグル温めますか」
彼女の声が聞こえたような気がした。

遅かっただろうか、それとも、まだ間にあるのだろうか。

「信じる力をください」
絵馬に書き足した。

神社にはついに誰も人がいなくなった。
都会の明かりに照らされて、ここの空は真っ暗にはならない。
それでも、本殿を守る森は漆黒の闇。
鼻水を一つすする音が、境内に響き渡った。

ゴーンとどこからともなく除夜の鐘が聞こえてきた。

「お客さん、ベーグル温めますか」
後ろから鈴の声が聞こえた気がした。

「遠く離れていても温めます」
僕は空に向かってつぶやいた。今度は僕が君を温めるよ。だから、だから、戻ってきてくれないか……

「なんですかそれ」
もう一度、鈴の声が聞こえた。
振り返ると、カワサキさんが立っていた。

「何を温めてくれるんですか?」
1年前と変わらない笑顔で、彼女が聞いた。

「君を……僕が……」
言い終わらないうちに、ドンと彼女の体が僕に飛び込んできた。
「待っていてくれて、ありがとう」

彼女の体は、温めたベーグルと同じ温度だった。

「ねえ、本当の名前を教えてくれないか」

僕たちは、ここから始まる。

池松さんのこちらの企画に参加させていただきました。

<追記>

なぜその作品をリライトに選んだのか?

私が一番イメージしやすそうだったからです。
東京に土地勘がないので、情景描写がうまくできなくて苦戦しています。
以前、東京の赤坂界隈を歩きました。都会の真ん中にある日枝神社とその近くにあるプレデンシャルタワーの1階のスタバに行ったときの風景と今回の舞台が似ていたので、これなら書けるかなあと。
あと、本当をいうと、この物語のオチがよく分からなかったんです。なので、逆に自由に書けるのではないかと思い選びました。

どこにフォーカスしてリライトしたのか?

「ベーグル温めますか」というフレーズ、カワサキさんの本当の名前をフォーカスして、小道具にしたいと思いました。
うまく機能しているかどうかわかりませんが、ほんのり温かいベーグルの温度とカワサキさんの温かさをリンクさせることと、カワサキさんの本当の名前を知るまでの始まりのお話にできていればいいな。

小説って難しい! リライトも難しい!! っていうか文章書くのって難しい! でも楽しかったです。ありがとうございました。



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RUMI
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