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表現活動と、他者のこと


やあ。
おはよう。


今日は表現活動について書いてみようかなと思います。



まず、私自身が表現活動をするということ。

私は普段は大学で主に映像作品を作っている人間です。でも絵を描くこともあるし、こうして文章を描くこともある。演技もしていたし、音楽を作ることも大好き。

色々な表現活動をしてきたし、今後も続けていくだろうと思います。


でも、ふと、表現をしている自分に対して「今の私は自己中心的行動をとっている」という考えが降ってくることがあります。


自分の中に現れる感情や思考を目に見える形にして、それが作品として扱われるようになったとき、そのものたちは一体誰のために生まれてきたものなのだろう。

きっかけも、過程も、全部全部自分の中から自分のせいで生まれてきてしまうもの。

そんなものを一体、何のためにこの世に作り出してしまうんだろう。

自分が望んで形にしたもの。自分が自分の感情を抑えられなくなって表現したもの。

それを誰かに見てほしいと願ってしまうし、誰かに見せるための行動をとってしまう。

自分のフォルダーの中だけで留めておけなくなってしまう。


とにかくこの表現したことを誰かに見せようとしてしまう自分の行動が、私にとっては愚かに感じて、悔しいし、苦しい。

制御したいけれど、でも、制御したくないなとも思っちゃう自分もいます。

自己中ながら、せっかく形になった作品を誰にもみてもらえないのは寂しい。


矛盾してる気がする。
矛盾してるよね。多分。



視点を変えるためにも、誰かの作品を見ることについて考えてみようと思います。


私は美術館に行ったり、他大学の学生の作品をみたり、海外アーティストのストリートアートをSNSでみたりすることも大好きです。


どんな作品をみても、絶対にその作品には意図がある。もし仮に作者に意図がなくても、作品として存在する以上そこには必ず何か意図が生まれている。その意図を浴びることで私もまた、新しい意図を形成していくような気がします。


私が色んな所でみてきた作品たちも、作者たちの感情や思考の塊だなと思います。

でも嫌悪感なんて抱いたことはないし、むしろ作者の想いを目にすることができることに対して喜びと感動を感じています。

思考や感情が表現として現れたものは、他者からすれば別にただの愚かな物体ではなく、良い作品として捉えられる可能性があるのかもしれない。

それが例え自己中心的な考えと行動から生まれたものだとしても、他者はそれを受け入れてくれるのかもしれない。



美術館に飾られている作品たちの作者も、誰かにみてほしい、知ってほしい、感じてほしいと願いながら制作していたのかな?


わからないね。


私が芸術大学にいる間に学生や先生方とお話しして、表現活動をしているときの思考について、いろんな人のことを知っていきたいなと思います。



誰もが他者に認めてほしい。



人間が社会的動物である以上は、他者に認められることは生存において重要なことになる。と考えると、他者に自己表現の結果を認めてほしいと思ってしまうことも動物的には正しいのかもしれないね。



とまあ人類全体的なことという書き方をしてしまったけれど、結局私は私のことを誰かに認めてほしいのだと思います。

自分のことを自分で認めてあげることは少しずつできるようになってきたけれど、やっぱり自分で認めるだけでは不安で、誰かに助けて欲しくて、安心したい。

でも言えないし、言いたくない。
それにそんなことは誰かに強制することでもない。

特に私は普通の恋愛ができない特殊なセクシャリティだということもあるし、今までずっと自己否定を繰り返してきた人間でもあるので、認められているという実感を得たくて表現活動へ辿り着いたのだと思います。


愚かだと思うけれど、認めてほしいと願うことも人間らしくて面白いよね。きっと。


もう少し書いていたい気もするけれど、思考から離れたくなってきてしまったので今日はここまでにしておこうかな。


なんだか頭のモヤは晴れたようで晴れないし、今日の文章はどこかバラバラしている気がします。

でもこれが今日の私の表現。



今日は原田マハさんの「常設展示室」という本をおすすめします。
みんなアートに纏わる短編集で心を休めよう。




読んでくださってありがとうございました。
今日もあなたがあなたのままで生きられることを祈っています。


🍀

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