ゆたかさは「思い出」、幸せは「未来」
#ゆたかさって何だろう
このハッシュタグを見て、すぐに
中学三年生の現代文で「ゆたかであることとは」という、短い作文を書いたことを思い出しました。
当時書いた作文を読んでみると
「ゆたかであるとは、思い出があり、懐かしむ過去があるということではないだろうか。」
「思い出や過去は私に纏わる。それが、自分を肯定するものならば、ゆたかであると言える。」 と。
なるほど。そう言われると、そんな気がしてきます。
今、改めて考える
社会が「ゆたかである」とは、モノが十分にあること、教育が行き届いてること、多様性があること...などなど様々な定義ができます。
そして、個人が「ゆたかである」とは、確かに、三年前の私が考えたように「思い出や過去によって自分が肯定されること」だとも思います。
けれども私は、思い出だけでは幸せにはなれません...!
そこで、「ゆたかさ」と「幸せ」を分けて考えてみようと思います。
例えば、生まれたばかりの赤ちゃん。
思い出は持っていないので、上記の定義で言えば、ゆたかであるとは言えません。けれど、これから思い出が蓄積されていくのだと考えると、赤ちゃんはとても幸せな存在です。
例えば、明日滅亡する人類。
人によって捉え方は色々ですが、私だったら、静かに家族や友人と、思い出の写真やビデオを見ながら、のんびり過ごしたいです。まぁ明日滅亡しちゃうので、決して幸せではないですね。けれど、目一杯ゆたかに過ごすことも出来るんじゃないでしょうか。
何が言いたいかというと
幸せって未来があること、なのではないかと思うのです。
(「未来があったら幸せ」というほど単純な事ではないですが、前提条件?のような気がします。)
私は高校で2年間、英語ディベート部に入ってたんですが
引退の時、今日この大会で得た経験を、直接生かすところは(高校では)もうないのかと思うと、尚のこと寂しかったです。これまでの経験を生かす機会が沢山あるというのは、実はすごい幸せで、やりがいのある事だったんだなぁ、と感じました。
もちろん、ディベートを通して、論理的な話の展開を学んだし、考え方も広がりました。英語もずいぶん上達しました!
ということで、この経験は私をゆたかにしてくれたわけです。
まとめ
私にとって
「ゆたかであること」とは「自分を肯定する思い出や過去があること」
だと、改めて感じました。
もちろん、定義は人それぞれですが、ゆたかだなぁと思う瞬間を突き詰めていくと、「思い出」にたどり着くような気がします。
そして、
「幸せであること」とは「未来・生きがいがあること」なのかも?と思い、
「ゆたかさ」と「幸せ」は、意外と違った尺度なんだと考えました。
おわりに
何だか、漠然とした話になってしまいましたが、私がnoteを書いているのだって、いつか「今の私」を思い出してあげたいからなのです。
きっとこの備忘録は、これからの私をゆたかにしてくれます。
これからも、未来があるという幸せを、しっかりと噛み締めていきたいですね。
余談
冒頭で紹介した作文を書くに当たって、クラスの人と意見を共有するという、グループワークをしたのですが、これがびっくり。人によってゆたかさはこんなにも違うんですね!
なかでも、「美味しいマカロンを食べることが幸せ」と真剣な顔で言ってる子がいて、当時の私は「いやマカロンって、食べたら終わりじゃね」って思っちゃいました。
でも、「美味しいマカロンを食べること」だって、その「美味しい」に家族や友人との思い出が詰まっているのなら、もしくは、これからの大切な思い出になるのなら、それは「ゆたかである」のだと、今の私は思います!
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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