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【ノベルゲーム】新年のご挨拶と点数談義。

新年あけましておめでとうございます。

思えば、昨年はノベルゲームが好きなんだと強く実感するとともに、触れた作品をしっかり刻み込んでいきたいなと決意した一年でした。

また、私生活(仕事)の変化、note開始、Xの整理及び運用変更など、変化も大きい一年でもありました。

「人に伝える」ということが苦手な私ではありますが、私の記事から何か感じていただけるような、そんな記事が書けるようになれればと思っております。どうか温かい目で見守っていただけますと幸いです。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、ここからが本題。

界隈のTLでチラホラ流れてきた、作品の点数付けに対する賛否。

新年から何もそんな噛みつかなくてもねぇ・・・とは思うものの、採点については常々悩んでいたのも事実であり、せっかくなので記事を書いてみたいと思った次第。


【結論】

クリア感想を残す立場上、「賛成」。

【理由】

そもそも、ノベルゲームの感想や評価はビジネスではなく、三者三様、十人十色、千差万別の趣味の行為であり、他者が介入する余地がないと思う。

つまり、書きたいから書いている。ただ自分の感情を閉じ込めたい。
これに尽きるかなと。

※他人に評価を押し付ける事が目的の人は、ほぼいないと思っている。

多くの人にとっての採点が「自分の為の行為」であり、自己満足。
他者に促されて行うものではない。

だからこそ、その情報が必要かどうかは、見る側が取捨選択すべき問題。
乖離するなら、それはもう趣味嗜好、理解の差と割り切る他ない。

作品に触れ、そこから得た感情は読み手次第。
1回で細部まで読み込める人間もいれば、何回読んでも理解が足りない人間もいる。繰り返し読んで評価が変わったのであれば、その人が都度訂正すべき話で、点数自体には意味がないとは言えない。

本当に複数回読み込むことでしか理解できない程の作品であれば、点数とは別に、「読み込み必須」「難解」「刺さる人にはとことん刺さる」みたいな作品に対する補足を広めるしかないんじゃないかな。

私にとっての正解は以下。

・中央値、そして批評空間の意義は、あくまでも集合知であり指標。
中央値は絶対ではないが、目安としては少なからず機能している。
数が少なければ無視推奨。

・プレイ前
旧作なら中央値以外は一切見ない。
新作なら全て見ない。

・プレイ後
好きな作品の評価が乖離していれば、趣味嗜好の差と割り切る。

【感想】

ネットを活用する以上、取捨選択することは当然のことではないかなと。

なお、点数は付けたほうがいいと考える理由は以下の2点。

  1.  自分の中での好きな作品を整理と視覚化。

  2.  より細かく読もうとする意識の習慣化。

1.について。
プレイした記憶を少しでも風化させない為に、
「好きという感情」を視覚化することを大事にしたい。

私が子供の頃は、手にいれた作品を大切に、ひたすらプレイしていた。
時が流れ、ネットが普及して以降は、実況配信で触れる機会もあった。

そういった作品は本当に強く心に刻まれている。
だからそこ、俺屍だったり、EVER17のような作品は強烈に覚えている。

しかし、現代はDL版や通販など比較的容易に入手できる。
1本だけをひたすらプレイするというのは逆に難しく、少しでも多くの作品に触れたいと思うのは当然のこと。

時間効率の面で、より少ない回数で確実に咀嚼すること。
自分の好きな作品を理解し、新たなる出会いに繋げること。
そういった面でも、記録を付ける事は決して無駄ではないと思う。

2.について。
元々、細部まで注意深く読めるタイプの人には無縁の話。
結構伏線をスルーしてしまうような人には、意識付けになると思うので、オススメしたい。

なお、感想記事を書くようになって悩んだのは、その採点基準。
ジャンルで基準を変えるべきか、どう調整するかのがバランスがいいのか。今でも悩んでいるし、これからも悩み続けると思う。

まとめ

書き手は自己満足の世界。
あとは、見る側がその内容を参考にするか、無視するかの話。

自分の感情を閉じ込める手段として、感想記事と点数付けも、文章を書くという行為自体も無駄になることはないと信じている。

そして、以前と比べ容易に作品に触れられるこの時代。
先達の方々による「感情という名の集合知」を信じてみるのは大事だと思う。

中央値だけでなく、埋もれている作品のレビューから、熱量のあるものを信じることで、いい出会いに繋がる事もあるかもしれない。

今は名作ばかりやっているが、そういう日が来るものだと信じたい。

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