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私じつは、宗教二世でした。

じつは、私は宗教二世でした。
3年前、奈良県の大和西大寺駅で元総理が射殺されたとき、ニュースで語る犯人の動機の中で「とある宗教団体に恨みがあり」というのを聞き
「…もしかして」と、感じたのです。

幼い頃の思い出

私の母は、私が3歳のときに離婚し、産まれたばかりの弟と3人暮らしでした。
その頃の母は仕事が終われば保育園に迎えに来てくれ、夕飯を作ってくれ、一緒にお風呂に入って、母なりに寂しさを感じないように一生懸命私と弟を育ててくれていたのです。

でも、あの日の夜はちょっと違っていて、知らない男の人が家を訪ねてきた。

母が玄関でどんなやり取りをしたのかはわからないけれども、気がついたら男の人はローソクに火をつけ、目を瞑る母の前でお祈りをしていたのです。

「なにをしているんだろう?」と思ったけれども、まだ4歳だった私は1歳になった弟と遊ぶことに夢中で、さほど気にしていませんでした。

はじめての教会

「お母さんはあっちで神様のお話を聞くから、こっちで遊ぼうね」と、若い女性に言われて、私と弟と母は引き離されました。

連れていかれた部屋には数人の子供たちがいて、みんなそれぞれ絵を描いたり絵本を読んだりしながら過ごしていたのです。

人見知りが始まって、母を探し泣く弟をなだめながら
「お母さんはなにをしているんだろう?」とだんだん私も不安になる。

「すぐ戻ってくるよ、絵でも描こうか」と紙とクレヨンを渡されたけれども、私はそれを無言で受け取るだけで、早く母に戻ってきて欲しいと心で願っていました。

変わっていく母

保育園が終わると、そのまま教会に直行する日々に変わっていきます。

本当はお家に帰って、母と遊びたい。

でも、まだ幼い私は母にそのことが言えずに我慢して「保育室」に預けられるのです。

夕飯は、教会にくるときに買ってきたスーパーの半額のお弁当。
 
弟は毎回、母との別れを惜しんで泣いて、私も本当は泣きたかったけれども、お姉ちゃんだから泣くのは堪えていました。

お家の中には
「いつ買ったの?これ?」というような壺のようなものがあり、母はそれをとても大切にしていました。

そして、見たこともない人の写真がお家のあちこちに飾られて、母は毎日のように朝と晩、写真の前でお祈りをしてたのです。

ある日
「今日も教会に行くの?」と聞くと
「毎日行くよ」と母が言います。

「お家で遊びたい。お家でご飯食べたい。」精一杯自分の気持ちを伝える私。

しかし
「あなたと弟のために、この家が良くなるように毎日教会に行かないとダメなんだよ!!」と母は怒りだしたのです。

「そんなこと言う子はいけない。まだまだサタンの血が入っている。」と、わけのわからないこと言われて、全否定された感じがしました。

その頃から
「保育園でダンスをした。」というと
「男の子と手ぇ繋いだら手を洗いなさい。」 「将来はこの人達が決めた人と結婚するのよ。」とお家にたくさんある写真の人を指さして言われ続ける日々。

「〇〇ちゃんと喧嘩した。」と、言っても
「ああ神様を知らないからそういうことになるんだよね。」と、なんでも神様、なんでも教祖様になってしまっていました。

ウンザリした

「お母さん断食だからお水しか飲めないの。だから、切手舐めて欲しいんだけど。」と、ある日唐突に言われたのです。

「切手も舐めちゃダメなの?じゃ水に濡らしたら。」

小学生になった私は、もう教会へは行っていなかった。

学校が終われば鍵っ子で、母は相変わらず仕事からそのまま教会へ行くのは変わりません。

夕飯は納豆とかいわれ大根を刻んだものに、シラスが入ったものが冷蔵庫に入れられていたので、炊いてあるご飯でそれを食べる。

友達が遊びにくると「なにこの壺!!」と言われ、写真を見られては「だれ?おじいちゃん達?」と聞かれるのにウンザリしていました。

学校で
「昨日何食べたの?」と聞かれて「納豆」と答えると友達が「それだけ?」と返してきた。

そう…それだけでした。
次第に弟も教会には行かなくなり、私と2人で母を待つ日々。

帰ってくるのは夜中で、朝目が覚めてもそこに母の姿はありません。

朝の祈祷会に行って、学校に行く前に帰ってきて、朝ごはんを作って仕事に行く。

断食も重なりやつれた母を見て私はとても不安な毎日でした。 

義父との再婚

私が13歳の頃に、母は再婚しました。

その人は、神様が決めた人でもなく、母の父親が決めた人。

「なーんだ。お母さん神様神様言うけど、そうでもないじゃん!」と、少し安心したのを覚えています。

そこから、母の宗教活動は少し落ち着いたものの、それは一瞬。

「お母ちゃんのやることに反対はしない。」と言っていた父も一緒に教会に行くこともあったのです。

嫁いだ先の祖母はとても心配し「大丈夫がァ!?あれは大丈夫かのがぁ?」と何度も私に尋ねてきていました。

神様神様言うお母さんは嫌い

16歳で家出したときでした。   
1週間ほど家出を友達としたのですが、私の母は、一緒に家出した友達の母親も連れて教会に行っていました。

家出したら、捜索願いとか警察じゃないの?

不意に家に帰った私と友達は呆気にとられて、挙句に友達には「ちょっと距離取りたい」と言われる始末。

友達の母親も
「なんか変なところに連れていかれた!」となっていたそうです。

友達にそう言われた私は母に激怒し
「神様、神様って、巻き込むな!」と罵倒し、それ以上、母との交流を避けるようになったのです。

曖昧な母と娘

その後、私はたくさん母に迷惑をかけました。
 
でも、警察に保護されても迎えに来るのは義父である父。
 
「ねえ、なんでお母さん来てくれないのかな?」

16歳で東京に家出し保護された私を東京まで迎えに来た父に聞くと

「お母ちゃんは、だめなんだ。神様にお祈りしてお前を助けるって、すぐ教会に行っちまうんだ。」と、寂しげに話してくれました。 

帰りの新幹線を降りる時、降りたくない私の腕ギュッと父が掴んで
「もっと甘えなさい。」

そう言われたのが救いでした。

父の死

私の父は重い腎不全で17年透析をしていました。

その父が2021年に余命宣告をされた時、私は仕事で奈良に移住していました。

40近くなった私も、昔よりは母と会話するようになったのですが、やはり母に愛されていない気持ちは強かったです。

父が余命宣告された時、母は意気消沈したものの、やはり毎日教会へ。

いつ亡くなるかわからない父の介護しながら、何度も母を恨みました。

「なにやってんの!お父さん死んじゃうかもしれないのに!」と、母と喧嘩したこともあります。

それでも毎日教会へ行くことを辞めない母。
そして、余命宣告された1ヶ月後に父はあの世に旅立ちました。

父が亡くなり、少しは落ち着くかな?と思った母の宗教活動は、逆に激しくなっていきます。

私はそのころ、奈良の福祉施設を退職しライターとして地元で稼働していました。

しかし、実家に住んだ事で母との間の溝が深まり、早々と奈良へ戻ってたのです。

その後結婚し「普通の幸せな家庭を築きたい」と思っていた時でした。

母の死

2022年の1月に結婚をしたのですが、その後5月に母が急死しました。

私と弟は母の急死のことでアタフタ。
司法書士事務所で何度も相談し、遺産のことも調べました。

しかし、出てくるのは母の借金ばかり。

「こんな金額返せない」と私が言うと、弟は「全部献金してたやつだ」と。

嘘だ…と思ったものの、遺品整理していると勝手に作られた私や弟の印鑑。

社のような聖像の作り物が何個も。
壺も、書籍も何冊もあり、すべて財産をつぎ込んでいたのは間違いなかったのです。

その状況を司法書士に話し、理解してくれた司法書士さんからは「あなた達姉弟には罪は無い」とし、なんとか返済は免れたものの、早目に土地の相続をするように言われました。

父が亡くなり母が全ての土地を相続していたのは2021年の5月21日。

母が亡くなったその翌年の5月21日未明。
仲良しの夫婦なので、お父さんが呼んだんだろうと言っていたのですが、弟がボソッと

「土地まで取られなくて良かった」と言ったのです。
 
泣き虫で私の後を追いかけていた弟が、じつはしっかりと母を見ていた。

「母ちゃんは変だった。」
そう弟が言ったのです。

大和西大寺駅の事件

母が亡くなり、2ヶ月後の時でした。
 
仕事をしていた私は
「今日はやたらヘリコプターが飛ぶな」と思っていたら、緊急速報で元総理が撃たれたと報道。

撃った犯人の背景を知った私は、なんだかいたたまれない気持ちになりました。

犯人を援護するつもりはないけれども、なんとも言えない違和感。

手続き関係で、また地元に戻り、弟と話をしていた時
「お母さん生きてたら騒いでたろな。」「お父さんが、お母さん騒ぐとアレだから呼んだんだろ。」と、なんだか納得しました。

「そーかぁ。お父さん、私とあんたが寂しい思いしてるの知ってたのかもねぇ。」と言うと「だからこれ以上娘と息子に悲しい思いさせないように呼んだんだよ。」と弟がつぶやきました。

誰が何を信じようと 

誰が何を信じようと良いと思います。 
確かに母は元気だったし、楽しそうでした。

…でも、変わりゆく母の姿や、父の気持ちを考えると、なんとも言えない気持ちになります。

今でもマルチとか聞くとめちゃくちゃ反応するし、怖いなって思います。    

けどね
私はお母さん好きでしたよ。
ほんとは。


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