真に「愛する」相手と1つに「合一」する~「主客合一」の観点から〜
0.はじめに
「自分の真の意味での理解者はおらず、結局は独りきりだ」とずーっと思っていたが、そうではない。もう1人の自分たる他者に出会った、出会えた。
それは、友人でもない、普通の恋人でもない、特別な異性であった。
どうして出会えたのか?どうしてその人なのか?
今までその理由を自分なりに調べて、また考えて来たのだが、その考察を一層深めていくために導入としてこの文章を書いた…
以下のこの文章では、西田幾多郎が唱えた「主客合一」の概念を援用していく。この概念はなかなか難しいが、自分が考えたいことにとても有用なのである。
それでは始めて行こう。
1.主観と客観問題について
「我々は独りでは生きていけない」とよく言われ、また自分以外の物、特に他者と共有し、一体化したい欲求があるが、それは精神上・物理上、完全には実現されない。
通常の我々の意識は、外界の物・者を自分と隔てて二分して観測しており、自分の意識は主観、それ以外の外界の物・者は客観の対象として認識している。
しかし、このことを突き詰めて考えて行くと、主観は結局のところ、客観の対象にはたどりつけない、不完全な認識しかできないとなってしまうのである。
また、主観が客観の対象を認識している時に、実際は単なる主観内の現象にすぎず、客観の対象は幻であるという考えにさえ至ってしまう。
これは非常に困った、まずい問題なのだが、古今の哲学者たちが様々な知恵をしぼり考察を与えてきた。
自分は先に述べた西田幾多郎の「主客合一」の概念を援用しつつ、以下の考察を進めて行こうと思う。
2.「主客合一」について
1.で述べたように、人間の認識(精神)と認識の対象(物質・者)を分けて考えた時に、精神・物質二元論、あるいは、人間の主観ー客観の認識では、どこまで行っても主観と客観は分離されて一致することはなく、致命的な問題が生じることは分かった。
ここで、それを「合一」させる考え方に、西田幾多郎が唱えた「主客合一」の概念がある。
認知はされるが、自らの感覚、感情、言語等による意味解体・解釈がなされる前の「純粋経験」の状態でこそ「主客合一」がなされるという考え方である。
この「主客合一」の状態では、文字通り自分の主観と客観は「合一」して分離されておらず「一体化」している。主観と客観が融合して一致している状態にあるのである。
よって、この考え方に立つと、1.で述べていた問題は解消されるのである。
3.他者との「主客合一」について
1.で述べたように、他者と完全に共有することはないが、近い状態になることはある。まずはそれについて(1)、(2)で述べたいと思う。
(1)他者との「共感」
色々な場面で他者と「共感」することはあるだろう。学校で。職場で。家族と友人と。
その際の言葉のやりとりや共同作業などの場面では、完全ではないが「主客合一」に近い状態になっていると思われる。
その場での気持ち(感情)がある自分(主観)と同一の感情場(客観)の「合一」が形成されているのである。
(2)通常の「愛」の関係
①親子(特に母子)
親子の間では、通常の人間関係より、密な愛情関係にあるが、とりわけ母親と幼少の子供の関係は密着度が高い「愛」の関係にある。
母体に胎児がいる際もそうだが、乳幼児が母に抱かれている際は母子一体となっており、この時に「主客合一」にかなり近い状態になっていると思われる。
母親から乳幼児への意識も、乳幼児から母親への意識も一部が「合一」してつながっているからである。
特に乳幼児においては凄いことに、母親どころか、周囲の環境やそれ以上の宇宙もとつながり、「合一」の状態にあるとも言われているのである。
ここで重要なのは、つながりがある母親と乳幼児には「我」ー「エゴ」がほとんどなく接していることである。
この状態にあるからこそ、お互いが完全に近い「主客合一」の状態になり得るのだと考えられる。
②通常の恋人
恋人同士は密な関係の2人だから、「合一」した「主客合一」の状態になることはあると思う。
ただし、(3)に述べるように、通常の恋人の「合一」は疑似の「主客合一」の状態であるのではないかと思うのである。
その理由は、2人の間には「我」ー「エゴ」がまだ残っており、相手と駆け引きしてどうにかしよう、嫉妬するなどの意識が残っているからである。
その意味で、恋人同士が「主客合一」になり得るのは一部分で限定的だと考えられるのである。
(3)特別な異性同士の関係~真実の「愛」の関係~
上記の(1)、(2)とは違い、完全に「合一」し、「主客合一」する関係がある。それがこの(3)の関係である。
一般には信じがたいと思われるかもしれないが、恋人同士の通常の「恋愛」以上の「愛」の関係が確かに存在するのである。
それは、単なる「恋愛」関係ではなく、真実の「愛」の関係というものである。
その真実の「愛」においては、最終的には「我」ー「エゴ」は消失する。だから最終的に完全なる「主客合一」が可能となるのである。
自分に限って言うと、まだ継続中で結論が出ていないのだが、その相手との間で、この真実の「愛」の関係が自分の告白により始まった際には、これは最初で最後の最上の「愛」だと直観した。
しかし、訳あって今は別離が続いている…(自分は相手といつか再会・再開すると固く信じている)。
別離前の実体験で、この真実の「愛」の関係では、相手とともにいて、いや、離れていても常に「愛」を感じ、さらに恍惚として1つに溶け合っている感覚になったのである。
その溶け合っている感覚はこの3次元上で溶け合って1つになっているというよりかは、もっと高次元のどこかで「魂」が溶け合って1つになって「存在」している感覚がしたのである。
最終的な統合を迎えた2人は真の「合一」に達すると言われ、お互いは完全な「主客合一」の状態にあると考えられるのである。
(自分は再開していないのでまだである)。
そして、この「主客合一」は、①の母子の「主客合一」より遥かに強い作用であると推察される。それまでにこの「主客合一」は強いのである。
一度確立された真実の「愛」では、自分の心の底の「魂」の中に、その1つに溶け合った「愛」として固定・確立され、別離後も事あるごとにその1つとなった「魂」=「愛」の「存在」から、「愛」を感じ続けているのである。
※この真実の「愛」についての物語は、別の機会にまた書きたいと思う。
4.まとめ・真実の「愛」の関係で「主客合一」される訳
以上、各々のケースの「主客合一」を見てきたが、それぞれ段階がある。結びつきが強い関係は、一般には母子関係であるが、真実の「愛」の関係というそれ以上の最上の関係があることを見てきた。
その真実の「愛」の関係において、相手となる異性は自分の「魂」の片割れ的存在とも言われており、出会うことができれば、当然「主客合一」に至ることが生来的に運命づけられているのである(お互いの「魂」が計画して生まれてきたとも言われる)。
自分は運よくというか計画的というか相手と出会うことができ、相手との「主客合一」のさわりの素晴らしさを経験することができたが、そもそもなぜ自分は真実の「愛」の相手と「主客合一」する前の体験をするに至ったのか?
それはおそらく順序が逆で、2人が1つの「愛」で「在る」ことを目的に2人は出会い、「主客合一」がなされると考えられるのである。
言い換えれば、1つの真実の「愛」という「存在」になるため「主客合一」することが必要であるということである。
「主客合一」というのは「客観的な対象」に「没入」し「分離不可分・一体化・融合」することであるから、特別な真実の「愛」の関係にある2人ならば、お互いに相手に「没入」し「一体化・融合」し、「主客合一」することが必要であり、また可能なのである。
以上のような経験を実際にすると、自分と厳密に「主客合一」できる同じ「魂」が「他にも存在する」ことがわかる。
別の目的としては、自分の「魂」は、この宇宙に独りきりではなかったということが、独我論を超えてわかることが目的とされているのである。
では、この特別な真実の「愛」の関係とは一体何だろうか?
それは「ツインレイ」と呼ばれるものである。