心構え 正しさとは愚かさとは?
お葬式において、お坊さんがお経を読み上げているときに自分以外の人は何を考えているのだろうと参列する度に気になる。
故人との関わりが多かった、直近会っていたとかなら、思い出もたくさんあるし、鮮明に覚えているだろうからそういったことを思い浮かべながらお経を耳から耳へと通っていくのだろう。
では、そうでない人は?個人として関わりがそこまで多くないけど家族ぐるみでは多い、直近の交流がなくてだいぶ前の交流もそこまで鮮明ではなくなってきた、などの状況時に別れが訪れて参列することになった人は何を想うのか?
そんなことは当の本人に訊けない。主観だし、広い視野になった時、その人よりも私の方がそうでない人に当てはまっていることだってあるだろうし、そもそも
訃報を聞き斎場に来ている時点で直近の関わりがなかったりとかあーだこーだは野暮だし、その人は共に偲び弔う為にいるのだ、と気になって投げかけようと書いていたら、そう思い当たり着地していた。この辺はまた望んで得たくないがその都度の体験により変化していくだろう。
故人との思い出が脳内で出てこなくなり頭がお経に覆い尽くされ始めると、漢文がわかったらお経がわかったり興味が高まったりするのかなと顔からはそんなことを考えているとは微塵も察されないようにしていることがある。雑念がない状態でお経を聴こうと思ってもどうしてもそれが困難で、他の人はどんな状態で聴いているのか気になるし、雑念なく聴いている人は感心する。
こんな時ほど、お坊さんだったり、担当してくださる葬儀会社の方々や様々な関係値の参列者に興味を持ち、訊いてみたいと思ってしまう。(そんな時間はないし)
ただそれは私自身が故人に対して喪に服しきれてないことの現れかもしれない。
また、私がこれまで経験していない形で葬式に参列する時、そういったこと忘れ、違う感情が覆い尽くすことがあるかもしれない。(経験したくない)
人により偲び弔うとき、様々な理由から涙が流れてくることだろう。
私は、出棺前の花入れや思い出の品を棺に入れる時、火葬場で骨になる前がよく込み上げてくるものがある。
泣く泣かない関わらず、悲しくて寂しかったりする時の人の顔は意識してあまりみたくないし、自分もみてほしくないから顔を伏しがちになる。
いつか忘れてしまう故人の体の温もりを棺に入った冷たい体で上書きしたくないから無意識や触れたいと思わない限りは触れないようにしている。
乗り越える為に雑念を持ちつつ参列しているのかもしれないと自分に言い訳しながら人生を歩んでいる。