第1話 片恋の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】
渡辺透は恋に落ちていた。一ヶ月の入院、そして退院(さようなら、外脛骨参照)、その後の休養で計1年間の休養を余儀なくされた渡辺が長年通っている就労継続支援B型作業所に復帰した初日、男女数人が新たに入ったとのことでそれぞれと軽く挨拶を交わした。その内の一人に片恋してしまったのである。二ヶ月前に入ったという小林真理なる名前の40前後の女性に一発でやられてしまった。
渡辺は今年36歳にもなろうかというのに、女気は皆無で日照り状態を続けざるを得ない状況を強いられていた。最後に女性と付き合ったのが23歳の頃であるから、もう13年間も日照りを強いられているわけなのである。無論誰に強いられているというわけではなく、単に渡辺が女性に相手にされないというだけの話であるが、最初の内こそ様々な手段をもって恋人を作ろうと果敢に挑み、様々な手法を画策し、それを実際に行動に移し、出来る限りの努力をしていたのである。しかし何人もの女性に路傍の石以下の扱いをされていく内に、自分は独り身のまま人生を終えるのだと納得せざるを得ない心境に陥ってしまったのである。諦観、静観の境地に入ることで自らを守ることに味をしめてしまったというわけである。
単純な話、どうせ自分は一生女性から相手にされないのだから自分も一生女性を相手にしないという、ミソジニーじみた慰めで、毎夜自慰行為に耽るだけのことだ。
ここで、渡辺がなぜ女性に相手されないのかという理由を述べねばなるまいが、それは別に外見や内面が劣っているからというわけではない。いや、実際のところ外見は劣っている。劣り切っている。
まず第一に、背が低いのである。その上太っているのである。160センチしかない身長なのに体重は70キロを超えているのである。この時点でお話にならない。土俵に立つ資格すらないのである。どうすることもできない身長はこの際置いておくとして、体重が70キロを超えているというのは極一部のデブ好事家以外からは異性としての認識すらされないであろう。太っている上に痩せようという努力をしない。つまり腹が減れば飯を食い、それだけでは飽き足らず一日の消費カロリーを優に超えるだけの菓子やジュースを食らう自堕落な食生活を送っているという証左にもなるわけで、そこを女性に見透かされてしまうのであろう。
そして次に、顔が悪いのである。その上髪が薄いのである。体が太るということは顔も太るということで、10年前の運転免許証と比べると1.5倍は優に大きくなっている。左目はローヴィジョンでほとんど見えず、幼少期から使うことなく放置した結果常時右目とは別の方向にだらしなく寄りかかっている。前歯は掘って埋めてを繰り返した道路のように不揃いで黄色く汚れている。頭皮に脂肪が溜まっているとのことで、頭頂部の皮が引っ張られ髪の毛が薄くなっており年中バリカンで刈らざるを得ない。少しでも伸ばせば手のひらサイズの脂肪部分がくっきりと薄毛として現れる。が、バリカンで刈っても薄毛とわかるので最終手段として常時キャップやニットを被って隠している。
後は男性器が小さいとか指が太くて短いとか耳の裏が臭いとか眼鏡のレンズが常に汚れているとかデリカシーがないとか所構わず屁をこくとかそれがまた気絶しそうなほど臭いとか部屋が汚いとかコーヒーばかり飲むせいで口臭がきついとかスマホ依存症であるとか常時金欠状態であるとか、劣りについてはいくらでも枚数を消費することが可能である。その上内面の劣りについても書き加えるとなるとこれだけで短編が一つ終わってしまうため本題に入ろうと思う。
外見と内面以外に人より劣っている部分があるのである。
それはなにか。
渡辺は障害者手帳2級を持った精神障害者で、その障害によって生活保護を受給している。
冒頭の半年間の入院も精神科閉鎖病棟のことである。
精神障害者がタイプであるとか生活保護受給者と付き合うことを夢見ている人などこの世に存在しない。誰がわざわざ好き好んで事故物件を選ぶだろうか。渡辺も、自分が女だとして自分を選ぶだろうかと自問自答したことが何度もあるが、毎回答えは否である。他人より二倍も三倍も劣る脳みそで何時間考えたところで、精神障害者で生活保護というのは異性どころか人に必要とされないものなのである。
これは渡辺の経験に基づいた渡辺の現実を述べているだけで、なにも精神疾患や生活保護を批判しているわけではない。
当然言うまでもないが、精神疾患があって生活保護を受給している人で、恋人や友人に恵まれている人は数多いるであろう。外見や性格が良かったり、日々を楽しく充実して生きていたり、他者から見て好感のある人なのであろう。が、渡辺はそうではないというだけの話である。
渡辺は精神病院に入院している間やデイケアに通っている間、数々の女性に片恋しそれを伝えたが、そのすべてから働いていないことを理由に断られていた。何度断られても学習しない頭の悪さには自らのことながらほとほと愛想を尽かしている。
頭の悪さには定評のある渡辺であるが、精神病になってから10年余、健常者には一度も片恋していないのである。相手はすべてがすべて、同じ精神疾患患者である。当然そこには同じ病気を持った人間同士の方が健常者より分かり合える可能性が高いであろうという姑息な計算も入った上でのものであったが、そんな脳内計算脳内妄想通りに事が進むわけがないのが現実の怖さといったところであろう。
女性は精神障害者で生活保護受給者であっても比較的相手を見つけやすいようにできている。これまで渡辺が出会ってきた精神障害者の女性は、ほぼすべて健常者と結婚している。これは単に男女の違いの話であって、渡辺の言葉で言えば「メンヘラ女は需要があるけど、メンヘラ男は需要がないんだよな」に尽きる。
渡辺は働いていないから女性に受け入れられないと考えているが、果たしてそれはどうなのかわからない。相手には聞けないし聞きたくもない、ただの現実逃避と言われればそれでお終いなわけであるが……。
という長ったらしい前置きを経て、ようやく話は進む。
渡辺はこれでもう5年福祉作業所に通っている。苦手なことは数え切れないほどあり、同じところに通い続けるということも苦手としている渡辺の過去を振り返ってみても、小学校に次ぐ継続歴で、これまで仕事は一年と続けた試しがない渡辺が5年も通えていることはほとんど奇跡に近いもので、それだけ自身に合っているということなのだろう。
週に3回、朝の10時から12時まで区内の公園を清掃する。これは挙手制で希望者のみが参加し、希望しない者は作業所内で小さな部品の検品作業等を行う。公園の清掃は時給が高くなる。が、就労継続支援B型は雇用契約を結ばないので、時給は室内作業で250円で公園清掃で400円前後といったところである。
午後は月水金と2時間の検品作業があり、火曜と木曜は区内を散歩する。
年に一度バスを借り切っての泊まりと日帰りの旅行があり、参加費は無料である。
渡辺のような楽だけして生きて行きたいというふざけた人間が5年も通所できているというのは、以上のようなあまりにもゆるいぬるま湯であるからで、当然渡辺はA型へ移るだの障害者枠での就職するだの生活保護から脱却するだのは一切考えておらず、一生をここで終えることを望んでいる。渡辺にとってここは終の棲家というわけである。
自分に、人生に、そして他人に一切期待せずに生きようと渡辺は強く心に決めている。
作業所に半日通い、あとは読書や映画といった趣味に時間を費やすだけで毎月口座に決まった額が入金される生活は明らかに恵まれすぎている。世の大多数の人は朝から晩まで労働し、その上残業だの交代だので心身を削り、家族を養い子を育て親孝行し、血と汗と涙と忍耐と努力に努力を重ねて生きている。
渡辺はそういう人たちの努力のおかげで生きながらえさせて貰っているわけで、現状に文句を言える立場にないことは重々承知しているし、当然の話であるが日々深く感謝している。
だから、毎日の楽しみに小林真理観察が加わっただけでも僥倖過ぎる僥倖であるし、あまりに出来すぎていると感じている。もしこれで渡辺が立場をわきまえず調子に乗り小林にちょっかいをかけたとして、それが原因でどちらか及びどちらも作業所を辞めるだのいう結末に至るのが最悪手だとも理解している。重ねるが、渡辺にとって作業所は終の棲家なのである。小林が将来をどう考えているかは不明であるが、少なくともすぐ作業所を辞めるという選択肢はないはずだ。
なにをどう考えたところで、観察に留めておくのがお互いのためであると、渡辺は低学歴の低知能なりにちゃんと理解している。
しかし、いくら理解し自分を納得させようとも、欲は止まってはくれない。
欲の始まりは、木曜の散歩の時間のことであった。
渡辺は篠崎みどりという50過ぎの中年女性と雑談をしながら散歩をするのを作業所の楽しみの一つにしていた。母子ほど離れた篠崎みどりに恋愛感情など当然あるはずもなく、兵庫の地元で孫を可愛がることを人生において一番の楽しみにしている実母の面影を重ねたもので、同じく篠崎みどりも渡辺を実の息子のように親しみを込めて接してくれていた。
みどりは作業所でも最古参の一人で、利用者からみどりさんと呼ばれて慕われている。
中年女性は彼女のいない年頃の男を心配する癖があるようで、実母はもちろんみどりも、閉鎖病棟退院後(恋する閉鎖病棟https://kakuyomu.jp/works/1177354054897230689参照)月に一度二度渡辺宅に訪問する看護師も、口を揃えて「彼女を作れ」と顔を合わせるたびに言う。雑談の話題提供の一つに過ぎないとはコミュニケーション障害を患っている渡辺も理解しているが、毎度毎度繰り返されると、35歳にもなって彼女がいないことが犯罪を犯しているような気分になる。そして得てしてそう言う人は年頃の女性を紹介してくれるわけでもないのである。しかし、まともに人生を生きていない人間に紹介する女性など存在しないことは理解している。
さて、散歩の時間のことである。散歩の時間は賃金が発生しないため強制参加ではないが、渡辺はみどりや他の利用者と雑談するためにほとんど欠かさず参加している。作業所を出てすぐ、みどりが渡辺に話しかける。
「ねえ、あの話聞いた?」
みどりが声を落として言った。大体の始まりがこれである。ほとんど利用者と会話しない渡辺は当然聞いてはいない。というと語弊があるが、単に話す人とは話し、話さない人とは話さないだけである。精神疾患患者の集まりなので基本は静かな時を過ごしている。
「なにかありました?」
「それがさ、笑っちゃったのよ。最高だよ、ほんと」
「どうしたんです?」
「香山さんいるじゃない、誠一さん」
香山誠一、60代前半。作業所歴15年強のベテラン。太った体をしているが、これでもかなり痩せたほうだと自慢していた。妻の春子と共に作業所に通所している。作業はスムースで性格も明るく、大声で豪快に笑うのが特徴の、問題とは遠くかけ離れた男性だ。渡辺と同じく関西出身で、よく話しかけてくれる。妻の春子は40代で東京出身。誠一が仕事の関係で上京した際に出会い結婚した。その後病気になり誠一のみが通所を始めたが、妻が家で暇そうにしているとスタッフに訴え、二人揃って通所することになった。渡辺が入所する前の話である。
「誠一さんが美樹本さんに、美樹本君は独身だろ。小林真理ちゃんと年が近いんだし、仲良くしてもらえよって言ったんだって」
美樹本洋介、50代後半。大柄で髭面、無口でスタッフにも敬語を使わず時として反抗的な態度を取る影の問題児。渡辺と同時期に入所し5年が経過したが、作業は苦手で入所したばかりの人がする初歩的な作業を続けている。自分はここで一番出来る人間であると思っているようで、作業がつまらない、他のことをやらせろとたまに訴えている。
「そ、それでどうしたんです?」
渡辺は内心焦りを感じながら答えた。
「美樹本さんって散歩は絶対に参加しないじゃない? でも、真里ちゃんが散歩に行く時にくっついて来てたのよ。で、散歩の間に居酒屋に行きませんかって誘ったんだって」
みどりは合間合間に我慢できず笑い声を入れながら一気にまくしたてるようにして言った。
「そ、それでどうしたんです?」
渡辺の焦りは加速する。
「タイプじゃないからって断ったんだって。あとお酒は飲まないからってさ。何度も誘って来たらしくて、スタッフに相談したって言ってたよ」
渡辺は大きく息を吐いた。
誘いを断ってくれて、よかった――
誘いを受けて飲みに行ったと聞かされたら、渡辺は激しい鬱でまた閉鎖病棟行きになっていたであろう。これは大袈裟な話ではない。
「誠一さんも余計なこと言うよね。ところでさ、渡辺君って今35歳でしょ。真里ちゃんは41歳なんだって。丁度いいんじゃない? 狙っちゃいなよ!」
みどりの目が妖しく光るのを渡辺は見逃さなかった。美樹本の話はこれを言うための振りであった。
なにが丁度いいのかわからないが、しかし丁度いいと言われれば丁度いいような気がしてくるから不思議なものである。19歳から22歳まで付き合った女性は7歳年上であったし(ロンリー・グレープフルーツhttps://kakuyomu.jp/works/1177354054897230963参照)、生まれてこの方付き合うなら絶対に年上がいいと思い続けていた。0代の時は10代に、10代の時は20代に、20代の時は30代に、そして30代の今は40代の女性と恋人関係に陥りたいと強く思い続けている。母親が50代のため、それを超えなければいいとも考えている。
「いや、でも、僕みたいな外見も内面もマイナス5万点の男なんか相手にしてくれませんって」
「そんなことないし、そんなのわかんないじゃん。これも出会いなんだから。私応援するよ。色々手助けするよ」
「作業所に、いい人何人もいるじゃないですか」
「他の人なんて関係ないって。渡辺君がどうしたいか、でしょ」
みどりは明らかにこの状況を楽しんでいる。が、それを無下にする理由は渡辺にはないのである。渡辺は気にならない女性とはいくらでも話せるのに、気になる女性とは一切会話が出来ないという病気も持ち合わせているため、みどりのような味方は一人でも多く付けておきたいところであった。これまでの経験上、渡辺は何年経っても小林と挨拶を交わすだけの関係で、そしてそのままなにもなく終わっていたであろうとは想像に難くない。
渡辺は内心ニヤついていた。高笑いしたくてたまらなかった。いや、結局、渡辺自身が動かねばならない問題ではあるが、関係性を近づけようとする助っ人がある程度場をかき乱してくれると成功率は確実に上昇するであろう。小木流に言えばメンヘラ助っ人人である。
みどりはそれだけを伝えると、誠一の妻春子夫人の元へ向かった。このようにして相手に考える時間をくれてやる優しさがみどりには兼ね備えられていた。だから渡辺と違って利用者から好かれ、信用され、重宝されている。渡辺は、誰からも好かれず、信用されず、重宝されていない。
で、以上のみどりの話を聞いて、渡辺は思った。
「ふうん、顔がタイプだったら作業所通いの精神障害者でも誘いに乗る可能性があるってことか」
「いや、単に話の落ちとして言っただけの可能性もあるか」
「ま、そりゃそうよな。ちゃんと普通に働いてる人以外を選ぶ意味もないもんな」
「というかそもそも前提が間違ってるんじゃないか」
「どういうこと?」
「僕が、生活保護の精神障害者は女性に相手されないって思ってる、それと同じことを小林さんも思ってんじゃないかってこと」
「つまり、小林さんが、ちゃんと働いてないし病気もある私を相手してくれる男性なんかいないって思ってるってことか? そんなのあるわけないだろ。あの美貌だぞ。ブスならともかく」
「ま、やっぱそうなるわな……。めちゃくちゃ美人だもんな」
「可能性があるとすれば、作業所に通所している間仲良くする関係にはなれるかもな。当然付き合うとかはなしで、ただ作業所で会話するだけの関係。で、小林さんが作業所から抜け出したら、そこで終わり」
「うん、それで十分だな。通所する楽しみが増えるに越したことはないし、真面目に通おうって気持ちにもなるし、なにより生きてて楽しいし」
「それが一番だよな、結局」
「小林さんが他の利用者と出来るってこともあるしな」
「それに嫉妬しないようにしないとな」
19歳から一人暮らしを続け誰とも会話しない生活を繰り返した結果、渡辺は自分と会話する能力を得た。以前は飼っていたハムスターに話しかけていたが、2年で亡くなってからは自分と会話をするように成長した。
そして自分との対話の結果、小林とは作業所内で楽しくお話が出来れば上等であるという結論に至った。
結局の所、渡辺の一生一人で生きていくという決心は、誰がなにをどうしたところで変わることはなかったのである。それは単に傷つきたくないという自己保身なだけであるが、気づかないふりをして生きていくのであろう。
自分にも他人にも期待せず、現状を維持する。これが渡辺の人生なのである。
渡辺透は、恋に落ちていた。が、その恋が成就することは渡辺自身が望んでいないのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?