第8話 失恋の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】
渡辺透は失恋した。相手はもちろん福祉作業所に通う6歳年上の小林真理である。が、小林に思いを伝え断られたというわけではない。それだからよりダメージは深刻であり、あまりに情けない自分を蹴り殺してやりたいと思った。
これを突き詰めると閉鎖病棟入りとなることは渡辺の過去が証明しており、理解もしている。しかし理解していてもやめられないのが渡辺であった。
述べるまでもないことだが、渡辺は精神が弱い。とても弱い。所謂豆腐メンタルというやつである。その上に統合失調症を患っている。障害者手帳は2級を取得し、生活保護を受給し作業所に通っている。
作業所で何気なく出した自分の言葉に数日間悩まされることは日常茶飯事であった。つまり己の発言で相手が傷ついていないか、怒りを感じていないかが気になってほかになにも手がつけられなくなる。相手の何気ない行動に深く傷つくことも、同じく日常茶飯のことである。
当然渡辺は独居生活であり、祝日や平日の夕方以降は一人で生きている。連絡を取る人間もいない。その一人の時間の間に、思い悩む必要のないことで思い悩み、自問自答を繰り返す。それから逃避するために本を読んだり映画を観たりしている。
基本的に渡辺は世界中の誰からも好かれていないと思い込んでいる。その思い込みが事実となる。幼少期から母に「お前は被害妄想が強すぎる」と言われ続けて育った渡辺であるが、その悪癖が36歳になる今も続いている。
些細なことで思い悩み、相手は自分を嫌っていると判断し、渡辺から縁を切る。その繰り返しで現在に至る。
仲がよい関係であると渡辺が勝手に思い込んでいるが、一人になった瞬間、実際は仲などよくないと気付くわけである。その気付きは渡辺にとって真実ということだ。
その結果、渡辺には友人が一人もいない。
自分の精神を傷つけないための自己防衛反応が渡辺を一人にしている。
渡辺は筋力も魅力も毛髪も金も甲斐性も地位も名誉もなにもなく、その上己の人生を己で決めることすらできない、生まれ持っての怠け者体質で他力本願にできていた。あるものといえば贅肉だけであろう。だから、渡辺は常に自分を引っ張っていってくれる女性に憧れ、欲していた。当然年齢は上でなければならない。
小林はそんな渡辺にとって完璧な女性であった。
まず、しっかりしている。性格に一本筋の通った芯がある。しっかりしていない渡辺にとって最も必要な要素である。毎日手作り弁当を持参している。
当たり前の話だが、渡辺は「女は黙って家事しとったらええんや」などというオールドタイプな人間ではない。19歳で実家を出てから家事全般を行っている。積極的なものではなく、己以外誰もしてくれないから仕方なくやっているという状態だが、家事全般嫌いではない。
次に、年上である。5歳上というのがちょうどよい。まあ、何歳年上でもなんら問題はない。渡辺の両親が56歳であるからそれ以下であればよい。渡辺が36歳で小林が41歳なので条件はクリアーしている。
次に、子どもがいない。渡辺は過去にシングルマザーと暮らしたことがあるが、なかなか難しい。渡辺は子どもは嫌いではないというか好きなほうであるから、血が繋がっていようがいまいが子は子として可愛い。が、渡辺の両親は賛成しない。当然な話であろう。揉めに揉める。
新型コロナウイルスが流行しマスク着用の現在、人の顔を見ることがほとんどなくなっている。渡辺はこれでもう半年片思いを続けているが、小林の顔を見たことは数えるほどしかなかった。昼食時渡辺は作業所の休憩スペースで食事を摂るが、小林は作業所から歩いてすぐの自室で夜の残りを食べているようであった。勿論、直接本人から聞いた情報ではない。
顔も禄に見ないで惚れることはありえる。渡辺の二度目の恋愛はお互い顔を見ない間が長く続いた。(ロンリー・グレープフルーツ参照https://kakuyomu.jp/works/1177354054897230963)
今回は同じ作業所に通っているため、顔を見る機会はいくらでもあった。が、渡辺は敢えて焦らし、妄想と期待で股間が膨張するプレイを楽しんでいた。
そして焦らせば焦らすほど、実際に見た時の感動は強まるわけである。
たまたまお互いが近くにいる瞬間だけ話しかけ、一言二言やり取りを交わすことをひたすら繰り返していた。小林にとって渡辺は道端に転がっている煙草の吸い殻以下の存在であるから、少しずつ少しずつ自己をアピールしていかねばならない。まず、道端に渡辺という吸い殻が転がっていることを知って貰わねばならない。
焦る気持ちを抑え、じりじりと自己をアピールする。
もっと話をしたいという思いを抑え込み、我慢の日々を繰り返す。その我慢を開放させるのが、年に三度あるイヴェントである。
渡辺が通っている作業所は、年に一度の宿泊旅行がある。参加は自由で参加費は1000円。バスを借り切って東京近郊をうろつき、ホテルに宿泊する。
年に三度、日帰り旅行がある。同じくバスを借り切って東京近郊をうろつき、食事をして帰る。参加は自由で参加費はなし。
作業所では宿泊旅行を旅行、日帰り旅行をイヴェントと呼んでいた。
前述の通り新型コロナウイルスの時代であるから、宿泊旅行の予定が消え、代わりにイヴェントの回数を四度に増やすこととなった。スタッフの粋な計らいである。
4月の日帰りに初めて小林が参加した。小林が入所したのが12月である。当初は入ったばかりで緊張するからと渋っていたがスタッフに説得され参加することとなったと、渡辺はとある利用者から聞いた。
渡辺は何度も参加しているので勝手はわかっている。
バスに乗り、どこぞを見学し、食事をし、土産を買って終わりのシンプルな日帰り旅行である。
そのイヴェントの間、渡辺は違和を感じていた。
どこぞを見学している間も、食事をしている間も、土産を買っている間も、隣に常時小林がいたのである。
小林が渡辺の隣にいるのではなく、渡辺が小林の隣にいただけだ、と渡辺は己をせせら笑った。渡辺が小林の隣にいる理由は数多あれど、小林が常時渡辺の隣にいる理由は皆無である。
「思い上がるのも大概にせえよ。社会のゴミがなに調子に乗っとんねん。ええ加減にしとかんと、マジで蹴り殺すぞ」と渡辺は己を戒めた。実際に三度頬を張り飛ばした。頬の底が赤くなった。
このイヴェントの間の二人の会話は、小林が入所してから現在に至る4ヶ月の会話量を超えていた。
食事では隣同士になり、小林が食べ切れず残したものを貰った。土産を見ながらああでもないこうでもない、そうでもないどうでもないと話をした。休日はどう過ごしているかなど、プライヴェートな部分まで突っ込んだ。
帰宅後、今日一日を思い返し、考え込む。しかし当然というか仕方なしというか、どうやっても渡辺にとって都合のよい結論に至ってしまう。
つまり、小林は渡辺に興味を持っているのではないか、ということである。
「お前みたいな禿げて太った醜い肉塊に、女性が興味を抱くわけないやろ」と渡辺は己を戒めた。今回は一度だけ頬を張り飛ばした。眠気が飛んだ。
渡辺は己に置き換えて考えることが出来る人間であった。であるから今回の件を己に置き換えて考えてみる。興味がない人と雑談をするだろうか。
「そりゃ、するよな」
興味がない人に食事の残りをあげるだろうか。
「まあ、しないことはないよな」
興味がない人に休日の過ごし方を教えるだろうか。
「そういう話になったら言うわな」
好意を持つ相手の言動に一喜一憂している。気分が上がったり落ち込んだり、悩んだり苦しんだり、渡辺は人生を謳歌していた。このような状態は実に10年振りであった。
渡辺は日帰り旅行が終わってからも、小林がたまたま近くにいた場合のみ話しかけ、一言二言他愛のないやり取りを交わしていた。
それを何日か続けていると、30代の男性スタッフ久保田から注意を受けた。
「小林さんはまだここに慣れてないから、話しかけないで。あと、男性と話すのが得意じゃないからね」
それを言われた瞬間の渡辺の表情は、賭博黙示録カイジの電流鉄骨渡りで落下した中山のそれとまったく同じであった。
ショックに続いて自己嫌悪が湧き上がってきた。己を蹴り殺したくなった。戒めではなく刑罰である。
結局渡辺は、己の欲求だけを満たしていた、禿げ豚の短小包茎オナニー屑野郎であったのだ。
久保田の言葉は渡辺のボディーにめり込んだ。床にぶっ倒れ、視界が歪曲しなにも考えられない。その間レフェリーのカウントは続く。
なんとかカウント8で立ち上がるが、ファイティングポーズを取る気力がない。そして試合が終わった。
久しぶりにとてつもない衝撃を受けた。話しかけるなという言葉がショックだったわけではない。いや、ショックはショックであったが、それよりも、小林の状態を一切考えることなく己の欲求しか考えていない己の腐りきった思考がショックだったのである。
渡辺は小林と話をしたいが、小林は渡辺と話をしたくないのである。考えるまでもなく、当たり前の話なのである。渡辺に好意を持つ女性はこの世に存在しない、と渡辺もよくわかっていたはずだった。それなのに例外を作ってしまったことが今回の敗因だろう。例外は皆無である。地球上に生息するの女性で渡辺に好意を持つ者は存在しない。
毎日己に言い聞かせよく理解していたはずなのに、小林は違うのではないかと期待してしまったのである。
渡辺は、何度もこれを繰り返していた。一方的に岡惚れし例外認定し、拒否されやはり例外ではなかったで終わる。そのたびに何度も何度もメンタルを傷つける。もう今回きりにしようと決意するが、気がつけばまた繰り返している。
渡辺が女性だったとして、渡辺を選ぶことなど絶対にありえない。世界に渡辺と女性二人だけになったとしても渡辺など選ばない。渡辺は、人から選ばれることのない人間である。
しかし鳥頭の渡辺は二週間も経つと忘れてしまう。忘れるどころかまた己に都合のよい妄想で固めてしまう。次は、小林が直接話したくないと言ったわけではない、という例外である。
しかしそれもすぐに叩き壊されてしまった。
渡辺は小林に話しかけるが、小林が渡辺に話しかけることは皆無である。これには、久保田の「まだここに慣れていないい。男性と話すのが得意ではない」で反論できる。
で、雑談中の雰囲気からして、渡辺と話をしたくないとは思っていないのではないかと渡辺は判断した。論理的思考ではなくそうであって欲しいという願望の思い込みである。
小林も、女性には話しかけるが男性には話しかけていない。それを見るに久保田の言葉は嘘ではないとわかる。
渡辺も反省し、話しかける頻度を極端に減らした。週に一度か二度だけである。少しずつ己をアピールしていかねばならない。最初に戻ったということだ。
そして来月、またイヴェントがある。そこで制限を解除し楽しく雑談すればよい。
期待に胸が開くとはこのことかと思った。
渡辺が作業所の休憩スペースで弁当箱を洗っていると、小林が自室から戻ってきた。キッチンの横にある給水器のお茶を持参の水筒に入れている。渡辺が話しかけ、小林が返し、終わる。そして渡辺は長机で読書をする。毎日の繰り返しである。
お茶を入れ終わった小林が休憩スペースの隅にあるソファに座りスマホをいじる。これも毎度のパターンである。
が、今日はソファに座らず渡辺とは別の長机に向かう。そして40代の田中に話しかけた。田中は20代前半で入所した最古参の利用者で、仕事の流れも理解しており久保田に代わって指示をすることもあった。
それを見て渡辺のメンタルは粉々に砕け散った。
渡辺は心の中で「男に話しかけられんじゃん……」と思った。
渡辺が床に倒れ込むと同時に、セコンドからタオルが投げ込まれた。
小林と田中が楽しく雑談している。渡辺は本を開いているが文字など目に入らずずっと同じページを見ている。
小林と田中が楽しく雑談している。渡辺の気分が落ちていく。
小林と田中が。渡辺は頭を抱えた。
小林と田中が。渡辺は「今回の片思いもすぐ終わったか……」と心の中で呟く。
小林が笑い、田中も笑う。渡辺は――
ピエロであった。
渡辺は、もう二度と誰かを好きになるまい、と心に決めた。が、いくら誓ってもどうせまた誰かを好きになるのであろう。どうせその片思いは成就せずそのまま終わる。そのたびにメンタルにダメージを負い、傷つき、小説にして、慰める。馬鹿馬鹿しいがどうにもならない。渡辺にも誰にもどうにもできない。
失恋にはB-DASHの恋するPOWの歌詞が沁みるな――
渡辺は自室のフローリングに寝転がり、天井を見ながら大きくため息をついた。
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