第6話 湿疹の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】
渡辺透は湿疹に悩まされていた。
5月3日の夕方から突然全身に蕁麻疹が現れたのである。
渡辺は大学病院の救急へ向かった。渡辺が大学病院の救急に行くのは精神科か呼吸器内科の2択であるが、今回は皮膚科である。
渡辺はゴールデンウィークの初日に行った回転寿司で生鯖を食べた。
そしてその日の夜、蕁麻疹が現れた。最初臀部のみに現れた蕁麻疹は次第に広がってゆき、下は足の甲から上は首、つまり全身に広がった。
蕁麻疹はものすごく痒い。渡辺はひたすら全身を掻きむしった。痒いなら掻くしかないわけだ。蕁麻疹が赤に染まる。皮膚が削れる。血が出る。
まるで全身タトゥーのようで、見ようによれば美しくも感じた。
渡辺はタトゥーに美を感じる種類の人間であった。
渡辺は幼少期からアトピー性皮膚炎を持っているため、アレルギーの薬を服用し、風呂上がりには保湿とステロイドを欠かすこと無く全身に塗っていた。
蕁麻疹の痒みが現れると試しにステロイドを塗ってみた。すると痒みが収まった。しかしまたしばらくすると痒みが現れる。ステロイドは塗りすぎるとよくないらしい。結果掻きむしる。
当日はなんとか眠りにつくことができたが、翌日は文字通り地獄であった。痒くて痒くてなにもできない。とはいえ渡辺に連休を共に過ごす恋人も友人もいるわけがなく、連休を有意義に過ごす予定も趣味もなにもないわけで、掻きむしるという時間潰しを得られたのは考えようによってはプラスかもしれない。
が、痒みは時間は潰せるがストレスがものすごいのである。
といいつつその日もなんとか終わらせることができた。これも日頃の鍛錬の成果であろうことは言うまでもない。
翌日、渡辺は蕁麻疹に白旗を揚げた。
夜の6時に大きな病院へ向かった。連休は今日までなので明日の朝皮膚科に行くのがベストであろうということは頭の悪い渡辺でも当然理解していたが、それだけ痒みがストレスだったのであろう。
救急の受付に行くと、前の男が受付に陣取ってなにか書類を書いている。待合スペースのベンチに座って書けばいいのにと渡辺は苛々した。
こっちは全身蕁麻疹で死にそうなんだよ、と脳内で男を罵倒する。受付の中年女性が渡辺に気づき声をかけてきた。
渡辺が蕁麻疹の件を伝えると「今日は皮膚科の先生がいない日なんですが、いいですか」と言った。
いいも悪いもないよなと思った渡辺が黙っていると「#7119で今から行ける皮膚科を訊いたほうがいいかもしれませんよ」とのこと。話を聞いている間渡辺は全身を掻きむしっていた。
「内科でもいいならご案内できます」と言うのでご案内してもらうことにした。痒みのせいで渡辺の思考回路はショート寸前今すぐ治したいのになっていたのである。
4枚の扉の前のベンチで座って待つように言われる。
渡辺は待った。持ってきておいたキンドルを開くが痒みが強く読書に集中できない。しかし他にすることもない。
なんとなく待合スペースを見渡すと、明らかにヤンキーな一家が渡辺の視界に入った。
夫婦は20代後半といったところ。夫はよく見る元ヤンキーといった体で妻はギャルである。二人の子どもがそばに座っている。兄は小学校低学年で妹が保育園か幼稚園であろう。兄はツーブロックで刈り上げた部分にラインを入れている。妹は特筆すべき点はない。
典型的なヤンキー一家である。
一家が呼ばれたようで、夫が先に診察室に入りその後を妻が子どもを連れて向かう。その際妻が「ライト、ニア、早く来て」と言った。
なるほどな、と渡辺は思った。ライト、ニアと来たら3人目はメロであろうことは想像に難くない。ライトはともかくニアとメロはユニセックスな名前なので3人目の性別は関係なくつけることができる。
なんのケチもつけるところがない、幸せそうな一家である。
渡辺は若い夫婦を見るたび、人生が罰ゲームになっているなと思う。
渡辺の両親は20歳で結婚し渡辺が生まれた。渡辺にとって20代前半で結婚し子どもを育てることは、罰ゲームとしか思えないのである。
若いから金もないだろう。周りは遊んでいるのにと思うこともあるだろう。子どもが子どもを育てているわけだからストレスもあるだろう。自分の趣味や夢を諦めざるを得ないこともあるだろう。
それが、渡辺には理解ができないのである。
自分の人生を犠牲にして他人に時間と金と体力を費やす意味がわからないのである。
渡辺は、家族も結局は他人だと思っている。他人に奉仕しなければならない理由がひとつもないのである。
渡辺の父はバイクのレーサーであった。渡辺が小学校低学年頃までは鈴鹿サーキットでバイクを走らせていた。スポンサーがつくという話までなったようだが、同時期に二人目が生まれたため諦めたと言っていた。
つまり父は子どもが生まれなければレーサーになっていた可能性があるということだ。とはいえ父は「バブルだったからそういう話があっただけで、本当につくかどうかはわからなかったけどな」と言っていた。
が、である。
子どもを育てるために夢を諦めたというのは事実である。
渡辺にはそれがわからない。
それは、渡辺が結婚も子育てもしたことがないからわからないのであろう。
そんな渡辺も、甥っ子2人はとてもかわいいと思っている。見返りを求めない贈り物をする楽しさがようやくわかった。つまりこれも奉仕であろう。帰省した際は朝から夜中まで甥っ子に付き合っている。
それも10日間と決まっているからで、これが365日続くと壊れてしまう。かわいいと思うこともなにかを贈ることも、甥っ子であるからだろう。自分の子ではないから責任がまったくない。だからただかわいがる。
理解ができないし意味もわからないし罰ゲームだと思っているが、それを選択しまともに子どもを育て上げたことは、さすがの渡辺も尊敬している。
ただ、両親の姿を見ていると、自分は絶対に結婚も子育てもしないと強く思うのも事実である。できるできないは別として。
などと妄想していると名前を呼ばれた。
渡辺を対応した内科医は30前後の女医であった。ショートヘアで眼鏡をかけている。渡辺はショートヘアと眼鏡をかけた女性愛好家であったので少しときめいてしまった。
渡辺は他に、タトゥー、ナース服、黒タイツ、デニムパンツ、ロングブーツ、革ジャン、網タイツ、パンプス、リクルートスーツ、ヨガウェア、舌といったものに興奮する性癖を持っていたが、今回の話には関係ないので広げないこととする。
女医は渡辺の蕁麻疹を見るなり「なにか変わったもの食べました?」と訊いた。とてもキュートな声であった。渡辺がうっとりしながら「一昨日の5月3日に回転寿司で生鯖を食べました」と答えた。
「なるほど。では点滴をしましょう」と会話を終わらせ、奥から点滴グッズを持ってきた。渡辺の左腕の血管に針が刺さり液体がぽとりぽとりと落ちる。
「1時間で終わりますから、待合で待っていてください」で診察は終わった。受付してから1時間が過ぎていた。
ポララミン注5mgの効果は凄まじく、点滴が終わる頃には痒みも赤みも消えていた。丁度終わる頃に女医がやってきて渡辺の体をチェックし、「24時間以内にまた出るかもしれないので、朝晩とアレルギーの薬を飲んでください」と言って去っていった。
病院を出ると外は闇だった。夜の底が黒くなった。赤信号にタクシーが止まった。夜の8時半を過ぎていた。普段通っている薬局が閉まっていたので開いている薬局に適当に入り書類を提出した。
40前後の中年女性に書類を渡し椅子に座る。感じの良い人だと渡辺は思った。
薬はすぐに用意された。別の60前後の初老女性に呼ばれた。薬手帳を開くなり「薬手帳は医者に見せたの!?」と強い口調で言った。渡辺は少し不快を感じながら「もちろん、見せましたよ」と答えた。
「おかしいわね、あなた皮膚科でアレルギーの薬飲んでるでしょ。それと同じ成分の薬が今日出たのよ。効果が重複するのよ。本当に手帳見せたの? 開いて見てた?」
「手帳を開いて見てましたよ」
「だとしたら処方するわけないのよね。手帳見せ忘れたんでしょ。まあいいわ。で、なんで病院に行ったわけ?」
「全身に蕁麻疹が出たんですよ」
「なんか食べたの?」
「生の鯖を食べました」
「じゃ、この書類のアレルギーの欄に鯖って書かなきゃ駄目じゃないの。自分のことなんだからちゃんとしなさいよ。なんで書いてないわけ?」
「……」
「まあいいわ。効果が重複してること、医者に訊いたほうがいいんじゃないの? 自分のことなんだからちゃんとしなさいよ」
「……」
「で、これ飲むの? どうするの?」
「……」
「3日分出てるから、飲むなら今日から飲みなさいね」
「……」
「手帳にシール貼っておいたから」
「……」
初老の薬剤師は言葉を吐き続けている。渡辺は薬と手帳と書類を手にし、なにも答えず薬局を後にした。
渡辺の行方は誰も知らない。
で、終わらせる予定であった。しかし予定が狂ってしまった。予定とは狂うものである、と渡辺は36歳を目前にしてようやく気づくに至ったわけである。
点滴を打った当日は痒みもほとんど消えてゆっくりと眠りにつけた。が、翌日の朝からまた全身に蕁麻疹が現れたのである。
その日は就労継続支援B型作業所の日であったので昼過ぎまでそこで時間を潰し、夕方にアトピー性皮膚炎で通っている皮膚科へ行った。
ここは受付の女性を若い美女のみで揃えている。医者は若い男性で顔は柔らかく口調も優しい。渡辺は美女を眺めながら、医者はこの美女達とあんなことやこんなことをやっているんだろうな、と妄想に浸るのがが楽しみであった。
「あれ? この間来たばっかりだけど、どうしたの?」
「3日の夕方から全身に蕁麻疹が出て、昨日点滴して貰ったんですがまた出てきたんですよ。生鯖食べたからだと思うんですが」と答え蕁麻疹を見せる。
「最近コロナのワクチン、打った?」
「4月の20日頃に打ちました」
「ワクチンの副反応だよ。2週間ぐらいで蕁麻疹が出たって人、多いよ。うちにも20人以上来たもん」
渡辺は驚いた。まさか自身に新型コロナウイルスのワクチンの副反応が現れるとは。
「生の鯖かなと思ってたんですが」
「鯖でそんな何日も続かないよ」
「なるほど。副反応の場合は何日ぐらい続くんですか?」
「一ヶ月以上続いてるって人もいるよ。とりあえず2種類薬を出すから、普段アトピーで出してるやつと一緒に飲んで。週明けても収まらないようならまた来て」
診察室を出て待合スペースに座る。受付を眺めながら、医者はこの美女達とあんなことやこんなことをやっているんだろうな、と妄想に浸っていた。
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