第7話 取寄の男、渡辺透 【渡辺透クロニクル】

 渡辺は取り寄せていた。なにをか。戸籍謄本である。とある事情により戸籍謄本を某所に提出せねばならないことになり、600キロ離れた本籍地である大阪府の某役所に郵送で取り寄せたのである。
 渡辺はあと2ヶ月で36歳になろうかという現在まで、一度として己の戸籍謄本などは見たことがなかった。
 見る必要も理由もなかったというだけであるが、さて、今目の前で開いてみるに、渡辺一家の情報が事細かく書いていることに目を見張る。
 戸籍謄本を見るまで知らなかったことがいくつもあるわけである。
 まず、両親の出生地。祖父母の名前。両親の入籍日。渡辺の兄弟が生まれた日。それを届け出た日。等々。
 渡辺の故郷は大阪府で、当然父親の生まれも大阪府である。そして当然、渡辺の本籍地も大阪府である。山をいくつも持ち、家は1階だけで11部屋あり、庭は家の倍以上あり、昔は地主で羽振りもよかったようだが、昔の話である。山は売っても二束三文なので放置しているが、最近は不法投棄が多いと祖母が言っていた。
 その昔、渡辺が小学生の頃などはまだ元気であった祖母や渡辺の兄弟と共に山に筍を取りに行っていた。祖母が飼っていた犬の墓もあった。兄弟の探検ごっこに最適の場所だった。
 祖父は渡辺が生まれる前に亡くなっていたので会ったことはない。戸籍謄本で初めて祖父母の名前を知った。

 母親の親族である祖父母や伯父夫婦は京都府に住んでいるため母の出生地も京都だと思っていたが、戸籍謄本には北日本の某県と書かれていた。渡辺の不確かな記憶では、北日本になど一度も行ったことがないし、母親や祖母からその地の名前すら聞いたことがない。
 伯父と母が生まれた後、一家で京都に移り住んだのだろう、と渡辺は推測する。
 祖父母は渡辺が生まれてしばらく後に離婚し、祖父とは数度会ったのみである。祖母はなにかにつけ会って可愛がって貰っていた。しかし出身が北日本だとは知らなかった。
 同じく初めて祖父母の名前を知った。祖父の名前の一文字を、伯父と母が受け継いでいた。渡辺兄弟にも伯父の子らにも受け継がれてはいない。

 後は特筆すべきことはなにもない。妹が除籍と書いていたので何事かと思ったが、どうやら入籍すると戸籍を除籍になるようだ。渡辺は入籍したことはないし、その予定もないし、相手すらいない。

 大体こんなものか、と戸籍謄本を机の上に置こうとしてある部分に目がいった。
 両親の入籍日が、渡辺の誕生日の三ヶ月前なのである。
 それを見た瞬間、渡辺の脳裏に記憶が蘇る。

 小学生の頃の記憶である。母に自分は婚前妊娠結婚で生まれたのか、と質問をした。どうせ、テレビかクラスメイトの話題で知ったのだろう。特に深い理由もない。20歳で結婚し20歳で生まれたことに疑問を持ったのかもしれない。
 そんな渡辺に母は半笑いのような表情で「いや、ちゃんと結婚してからあんたが生まれたんだよ」と言った。

 母が婚前妊娠結婚を否定したのは当然渡辺を思ってのことであると理解しているし、否定せざるを得ないことであるとも理解している。できちゃった結婚が珍しくない今であればまだしも、渡辺が生まれたのは1980年代のことである。
 大いに揉めたであろう。
 渡辺が2歳になるまで父の実家で暮らしていたと話には聞いていた。その後市営住宅に引っ越し、渡辺の妹が生まれている。父は長男であるが、実家を出て以降父の弟が家主となっている。
 市営住宅に引っ越したのは、渡辺の祖母、つまり母にとっての姑が母のやることなすことすべてに文句をつけ、連日恨み言を繰り返していたという。
 より問題をこじらせた原因に、宗教の問題があった。前述の通り父方は代々続く地主で一族の数も多く、山を削って作った墓地は同姓の墓が無数に並び、家のすぐ隣にある寺の設立にも関わったというような話を幼少期祖母から聞かされていた。
 それに対して母方は新興宗教で、その2団体は組織的に対立していた。父と母の家が対立しないわけがない。
 婚姻するにあたり、子に宗教を押し付けないという決まりがなされたようだが、母もその祖母も当たり前のように渡辺以下の兄弟を信徒の集まりに出していたし、共に連れて行っていた。

 そういう様々な揉め事が「結婚してから生まれた」という言葉になったのだろう。いじめられるかもしれない、というのもあっただろうと渡辺は推測する。

 と、頭ではわかっていても、自分が婚前妊娠結婚であるという事実と、それに対する母の否定、そしてその事実を35歳になるまで知らなかった自分の勘の鈍さに渡辺は少しからぬ衝撃を感じた。
 まあでもそりゃそうだよな、と渡辺は苦笑した。20歳で結婚して20歳で生まれたってどう考えてもおかしいわな。それを今の今まで信じてたんだから、馬鹿だよな。
 戸籍謄本をデスクの上に飛ばし、椅子のリクライニングを倒して天井を見上げる。

 そこにしてようやく、母が嘘をついていないことに気付くのであった。

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