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第9話 リハビリ1 2021年8月2日 さようなら、外脛骨

 10時過ぎに起きる。朝食の記憶はないがスマホに写真が残っていたのでちゃんと食べたようだ。
 担当医がやってきて「痛いところはありませんか」と訊かれる。親指の先が痛いなと感じたためそう伝えるが、考えてみれば別に痛くない気がしてきたので「やっぱり痛くなかったです」と答えると担当医がふふっと笑った。痛いかと訊かれると痛い気がするし、痺れるかと訊かれると痺れる気がするし、でも考えてみれば痛くも痺れもない気がする。
 昼食前にリハビリとのことで、50前後の女性介護士にリハビリテーション科まで車椅子で運んでもらう。途中で二度PHSが鳴って止まる。忙しいようだ。
 リハビリテーション科の前で待つ。僕以外に二人老人が待っている。Tシャツに白いスラックス姿の30前後の女性がやってきて「担当のパーソナルトレーナーです」と名乗るのでそれに返す。髪の毛はベリーショートでメイクも薄い。リハビリテーション科はかなり広く平行棒やベンチ、練習用の階段などで埋まっている。3メートルほどの平行棒の前に運ばれ両手で支えながら右足で立つ。その間パーソナルトレーナーが両手でサポートしてくれるが、常時体に触れられているため気になって仕方がない。同世代の女性に体を触れられるなどありえない環境で生きている僕には刺激が強すぎる。
 両手で平行棒を持ち体重をかけ右足を前に出し立つ。これを繰り返し振り返ってもとに戻る。これを3回繰り返すだけで息が上がり両腕が重くなる。明日は筋肉痛だろう。それを見て「これぐらいでへばってちゃ駄目ですよ」と笑うのでときめく。話すイントネーションが関西弁なので進学就職で上京したのだろう。しかしそれを指摘されると田舎者扱いされている気になってしまうのでそれには触れない。僕も上京10年経つのに未だにイントネーションが抜けないのでよくわかる。
 車椅子で呼吸を整え休んでいるとトレーナーがグレーの松葉杖を2本持ってきて「次はこれで歩きましょう」とのことで廊下に出る。廊下はリハビリテーション科を囲むように出来ており一周60メートルとのこと。平行棒と同じ要領で歩く。両手のひらに全体重がかかりとても痛く4歩で止まる。止まると同時にトレーナーが松葉杖で気をつけること3点を教えてくれた。
 松葉杖は横の力に弱い。脇に体重をかけると神経が圧迫されて手が痺れる。左足はなにがあっても床についてはいけない。
 手のひらが痛くなり右足が筋肉痛になり息が切れ途中何度も休憩を挟み、一周はせず途中で回れ右して戻る。そんな哀れな僕を見たトレーナーが「かなり筋力弱ってますね」と笑ったのでときめく。「余裕で一周出来たら卒業ですね」とのこと。前途多難とはこういうことを言うのだろう。僕の頭を見て「髪型はずっと坊主なんですか」と訊くので「一年中坊主頭ですよ」と答えると「私も昔坊主にしたことがあります」と言って楽しそうに笑った。こう見えてハードコアなパンクロッカーなのかもしれない。全身タトゥーだらけで舌はスプリットタン、普段着は革ジャンに首には南京錠、ロンドンパンク派、グリーン・デイやオフスプリングは認めない。
 想像するだけで面白い。今後のリハビリが楽しみになる。
「両手のひら両腕右足の筋肉痛、覚悟しといてくださいね」とまた笑うのでときめく。毎日のときめきが生きる活力となる。
 病室に戻る途中、自販機でペットボトルのブラックコーヒーを買う。5日ぶりのコーヒーはとても美味い。病室に戻り高橋優とすれ違う。声は高橋優なのに顔はくたびれた白髪交じりの中年男性に驚愕。リハビリが始まったということで患者衣が浴衣タイプから上下タイプに変更される。足に気を使いながらズボンを履くのが面倒くさいが浴衣だと松葉杖その他の際下半身が露出する危険性があるので仕方がない。
 女性看護師を性的な目線で見ていることに気づく。これも痛みがなくなったおかげだろう。白いスラックスで前屈みになると下着の線がくっきりと現れてしまうのは、早急にどうにかしたほうがいいのでは。中学生の多感な時期に椎名林檎の本能のPVを観てしまったせいで20年以上ナースモノのAVばかり観るようになってしまった僕には毒でしかない。入院してから一度も自己処理をしていないのも相まって脳内はエロスでいっぱいになっている。看護師たちの下着の線と3日前の座薬プレイで頭が一杯になって読書も出来ない。
 アジアンテイストな若い女性看護師がやってきて「変わったことはないか」と訊くのでギプスに常時当たっているかかとが少し痛いと答えると「ずっと固定されてるから神経が圧迫されてるのかも」とのことで包帯を巻き直して貰う。せっかく巻き直して貰ったが変わらず。「全部覆うギプスに変わったら痛みもなくなると思う」とのこと。
 高橋優が病室で妻らしき人に電話をしている。暇なので盗み聞きする。
「なにか欲しいものある?」
「塩キャラメルが食べたい。あとビスケットの小分けされてるやつ買ってきて」
「たべっ子どうぶつでいい?」
「たべっ子どうぶつって小分けになってるの?」
「多分なってるんじゃないの」
「じゃあ塩キャラメルとたべっ子どうぶつお願い」
 聞いているとお菓子が食べたくなってしまった。病院食はとても美味いがお菓子系は少ない。売店に行くしかないが身動きは取れない。ヘルパーに売店で買ってきてもらうことも考えたが、そんなことで人を使うのは気が引けるのでお願いは出来ない。初老はなにも気にせず看護師やヘルパーに買い物を頼んでいる。それに合わせてついでに僕のも、と考えるが、そもそも売店になにが売られているのかわからないので頼みようがないことに気づきがっくりする。
 僕が唯一お願いするのは、薬を飲む際にコップに水道水を入れてもらうことだけだ。ヘルパーはデイルームに給茶機もありますよと言うが、水のためにデイルームにまで歩いてもらうのは申し訳ないので水道水でお願いしますと答えると「東京の水道水は美味しいもんね」とのこと。蛇口を捻れば美味い水が出てくることに感謝。
 夜にアジアンがやってきて「車椅子の使い方をもう一度見せろ」とのことなので見せ使用許可が出る。毎日見せて許可を貰わなければならないのだろうか。
 爪切りを取りに行くため片足で飛んでロッカーに行くと廊下を見回りしていたアジアンが「ちょっと、なにしてんのもう! びっくりしたぁ! アクロバティックなことしちゃ駄目よ!」と大きな声を張り上げ驚いた。申し訳ないことをしたがその反応がとても可愛かったのでときめく。一日に何度もときめく。看護師は全員マスク常用なのでその下を自由に想像できる。外すことはないので理想が壊れることもない。全員美男美女という設定で楽しむ。

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