見出し画像

【短編集】「京都のホームズ」他三篇【ショートショート】

京都のホームズ


1.鴨川の夜は知っている

 鴨川の夜風には、何かしらの匂いが混じっている。それは古い書物が発するカビ臭のようで、どこか懐かしくもあり、決して好ましいとは言えないものだ。は四条大橋の欄干に寄りかかり、その匂いを鼻腔で味わいながら、この街が抱える奇妙な謎について考えていた。
 その夜、僕の隣には彼がいた。彼──本名は忘れた──自らを「ホームズ」と名乗るその男は、どこか風変わりで、明らかに何かを隠しているような人物だった。口元には薄い笑みを浮かべ、手には煙草ではなく木製のカズラ笛を持っていた。見慣れない笛を指で弾きながら、「君は成功哲学というものを信じるか?」と唐突に尋ねてきた。
「哲学?」と僕は聞き返した。「成功するかどうかは運次第やと思うよ。哲学なんて大げさなものが必要とは思えへんな。」
「それは君が成功したことがないからだよ。」彼はまるで指摘するように言ったが、嫌味は微塵も感じられなかった。むしろ、彼の声にはどこか真剣さが宿っていた。
 その時僕の頭にふと浮かんだのは、数日前に知り合いから聞いた話だった。京都の北区、上賀茂神社の裏手にある古い料亭で、ある男が忽然と姿を消した。奇妙なのは、その男が地元の商工会議所で「成功哲学」と題した講演を行った直後に消えたことだった。その料亭は、昔から地元の有力者たちが密かに集まる場所として知られていたが、そこに招かれるのは限られた人間だけだ。成功者のみが訪れる場所、それがその料亭の評判だった。
「君もその話を聞いたことがあるのか?」ホームズは僕の考えを読み取ったかのように言った。
「まあ、でもただの噂話やろ?」
「世の中に噂話以上の真実なんてない。すべての真実は噂話から始まるんだ。問題は、それがどれだけ現実に食い込んでいるかということだ。」
 ホームズはそう言うと、鴨川の向こう岸を指差した。そこには古い京町家を改装したらしい一軒のカフェが灯りをともしていた。そこは夜な夜な京都中の変わり者が集まる場所として有名だった。芸術家、詩人、哲学者、そしてただの酔っ払い。そんな連中が一堂に会し、互いに無意味な会話を繰り広げる場所だ。
「僕らはまず、あそこに行くべきだろう。」ホームズは断言した。「あのカフェにはこの街の全ての謎が集まる。そこで話をする価値のある人間がいるかもしれない。」
 僕らは四条大橋を渡り、そのカフェへと足を運んだ。店内は煙草の煙で薄暗く、カウンターの上には大きな招き猫が鎮座していた。壁には無数の写真が貼られており、その中には著名な文化人の顔もいくつか見受けられた。しかし店内の客の誰もが、その写真の中の人物たちよりも奇妙に見えた。ある男はスーツのジャケットを裏返しに着ており、別の女性はひたすらスプーンを舐め続けていた。
「成功哲学を信じるか?」ホームズは、近くのテーブルでコーヒーを飲んでいた初老の男に声をかけた。
「成功哲学?」男は怪訝そうな顔をした。「そら他人を信じる能力のことやな。」
「どういう意味ですか?」僕が尋ねた。
「成功なんて、自分一人で成し遂げられるもんと違って。結局のとこ、他人が君をどう見るか、どう扱うか、それが全てや。それを理解してへん奴はなんぼ哲学を語ろうが無駄や。」
 その言葉には一理あるように思えたが、同時にどこか冷徹すぎるようにも思えた。僕がそれについて考えを巡らせている間に、ホームズは次の質問を投げかけていた。
「最近、成功者たちが謎の失踪を遂げているという話を聞いたことは?」
「もちろんや。」男は低い声で答えた。「その背後には、あの料亭が関わってるっちゅう噂や。」
「料亭が?」
「ただの料亭とちゃうんさ。あそこは特別な場所や。京都の影の歴史が積み重なった場所でな。成功者たちは、あそこに招かれることでほんまの成功を得るとか言われとる。」
「そして、姿を消す。」ホームズは静かに言った。
 男は答えず、ただ一口コーヒーを飲んで席を立った。その背中にはどこかしらの影が宿っているように見えた。
「どう思う?」僕がホームズに尋ねた。
「世の中に成功哲学なんてものは存在しない。ただ、人はそれを求めて生きるだけだ。」彼は肩をすくめて言った。「けれど、その料亭には行く価値がありそうだ。」
 その夜、僕らは料亭への手がかりを掴むため、さらに奇妙な京都の闇へと足を踏み入れることになる。それは僕がこの街で見たことのない風景を見せつける旅の始まりだった。



2.成功者たちの料亭

 翌日、ホームズと僕は上賀茂神社の裏手へ向かった。冬の京都特有の乾いた空気が静謐な神域の匂いと混じり合い、異様な緊張感を生み出していた。
 僕はこれがただの好奇心で済む冒険であればいいと願ったが、ホームズの表情を見る限り、それはなさそうだった。
「見えるかい?」ホームズは目を細めながら言った。
 神社の奥、鬱蒼とした森の中に古びた料亭がひっそりと佇んでいた。朱塗りの門は時代の風化を免れたようで、いかにも格式高い雰囲気を漂わせている。門の両側には「成功者たちへ」とだけ書かれた木製の表札が掲げられていた。その文字は無駄に装飾的で、どこか嘲笑めいた意図すら感じさせた。
「いかにも怪しいな。」と僕は言った。
「怪しさというのは、時に最高の信頼の証になるんだよ。ネズミにとってのネズミ講と同じさ。」とホームズは言い放った。
 料亭の門前には着物姿の若い女性が二人立っていた。彼女たちは冷淡な微笑を浮かべながら僕らをじっと見つめた。まるで僕たちの思考を読み取っているようだった。
「ご予約は?」一人の女性が尋ねた。
「もちろん」とホームズはポケットから一枚の黒い招待状を取り出した。それには金箔で「特別招待」とだけ記されている。僕がその招待状の出所を尋ねる間もなく、女性たちは門を開けて僕たちを中へと案内した。

 料亭の中は、古びた外観からは想像もつかないほど洗練されていた。床の間には華道の巨匠の作品らしき生け花が飾られ、壁には雅な水墨画が並んでいた。その一方でどこか非現実的な雰囲気が漂っているのは、室内に満ちた異様な静けさのせいかもしれない。
「ようお越しやす。」と奥から現れた中年の男が僕たちに声をかけた。彼は紋付袴を着ており、その笑みはどこか作り物めいていた。
「あなたがこの料亭の主ですか?」ホームズが言った。
「表向きはな。」と男は答えた。その曖昧な言い回しに僕は違和感を覚えたが、ホームズは意にも介さずさっそく話を切り出した。
「ここではどのような条件で人を招いているのですか?」
「簡単どす。成功者か、成功者になり得る潜在性を持つ人だけどす。」
「その基準は?」
「世の中の大部分の人間は、自分の人生を自分で作る力を持ってまへん。彼らはただの観客どす。そやけど、成功者はちゃう。彼らは舞台に立ち、観客に見られることを恐れへん。ここでは、そないな舞台にふさわしい人間だけが集まります。」
 ホームズはしばらく黙ったまま、男を観察していた。そしてふと口を開いた。
「つまり、ここは“選ばれた者のための劇場”というわけですね」
 男は意味深な笑みを浮かべた。「そう言えるかもしれまへんなあ。」
 その後僕らは奥の大広間に通された。そこでは数十人の男女がそれぞれ高価そうな和服やスーツに身を包み、静かに会話を交わしていた。彼らの顔には奇妙な輝きがあり、その場の空気自体が何かしらの磁力を持っているように感じられた。

「彼らは何者や?」僕が小声で尋ねた。
「成功者たちだよ」とホームズは答えた。「少なくとも表面的にはね」
 その時、突然部屋の隅にいた一人の女性が立ち上がった。彼女は和服の裾を優雅に整えながら、声高らかにこう宣言した。
「この場所に集まるすべての人間に共通する哲学はただ一つ。他人を食べることどす!」
 一瞬、部屋の空気が凍りついた。僕は耳を疑ったが、彼女の表情は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
「……なんやそれ?」僕は思わず声を上げた。
 彼女は静かに微笑んだ。「言葉の通り。他人の失敗や犠牲の上にしか成功は築けへん。あたしたちはそれを認め、ここでそれを祝福するのよ!」
 その言葉に、大広間にいた他の成功者たちが拍手を送った。その音はどこか狂気じみており、僕の背筋を冷たくした。

「もう充分やろ。」と僕はホームズに言った。「こんなん、頭おかしなるで。」
 しかし、ホームズは平然としていた。「何事も中途半端では真実にたどり着けない。もう少し踏み込むべきだ」
 彼は席を立って部屋の中央に立つと、こう言った。
「この場所の真実は何だ?成功哲学とは、ただの詭弁なのか?」
 その時、部屋の奥にあった襖が静かに開き、黒いスーツを着た男たちが現れた。彼らは何も言わずに僕とホームズを見つめていたが、その目には明らかな敵意が宿っていた。
「さて、少し厄介になりそうだ」とホームズが呟いた。

 僕たちは部屋を離れ、裏口から森の中へと逃げ込んだ。後ろから何者かの足音が追ってくるのを感じながら、僕は思った。この料亭には、成功哲学などという言葉では説明できない何かが隠されている。そしてそれはおそらく人間の最も醜い部分に根ざしたものだ。



3.失敗者たちの劇場

 森の中は、京都の夜らしく静寂だった。しかしその静寂はどこか異常で、僕の中に言いようのない不安を掻き立てた。足音を立てるたび、周囲の木々がその音を吸い込むように思えた。追手の気配はすぐそこまで迫っている。
「ホームズ、どうするつもりや?」僕は息を切らしながら尋ねた。
「とにかく料亭の奥に隠された何かを突き止める必要がある」とホームズは淡々と答えた。「彼らが守ろうとしているものこそ真実だ。それを見つけ出さなければこの謎は解けない。」
「でもあの襖の奥に何があるのか、わかっとるんか?」
「もちろんわからないさ。」と彼は肩をすくめた。「けれどわからないことを放置するのは、人生において最も非生産的な行為の一つだ。君だってそう思わないか?」
 正直なところ、僕はそうは思えなかった。むしろ、このまま逃げ延びることができればそれで十分だとすら思った。しかしホームズの目にはいつものように不気味な自信が宿っていた。その目を見ると僕は彼に従わざるを得なくなる。

 森を抜けた先に料亭の裏手に通じる小さな門を見つけた。ホームズは迷うことなくその門を押し開けた。門の向こうには地下へと続く石段があった。苔むした石段は、何年も人の手が入っていないように見えたが、それが逆に人工的な意図を感じさせた。
「ここが答えの入り口だ」とホームズは言った。
「でも、罠やったら?」
「それもまた真実への手がかりだよ。」
 僕は彼の後を追うしかなかった。

 地下へと続く階段を下りると、そこには広大な空間が広がっていた。薄暗い光に照らされた部屋の中央には、巨大な円形の舞台が設けられていた。舞台の上には、かつての成功者たちと思しき男女が並んでいた。しかし彼らは以前見たときとは明らかに様子が違っていた。
 彼らの目には生気がなく、口元にはぎこちない笑みが貼りついていた。まるで操り人形のように動かされているように見えた。僕は息を呑んだ。
「これは一体?」
「これは“失敗者たちの劇場”だ。」とホームズは言った。
「失敗者?」
「表の世界で成功者と呼ばれる人々の大半は、実際には他人の期待や基準に従って動いているだけだ。ここにいるのは、その中でも最も従順で、最も使い捨てにされやすい者たちだ。彼らは表向き成功者として祭り上げられるが、裏ではこの劇場の道具として利用される。」
「アホな!」
「成功哲学というのは、言い換えれば『他人に操られる哲学』なんだよ。彼らは自分で成功を定義する力を持たない。その結果、こうして舞台の上で踊らされる運命を受け入れている。」
 その言葉を聞いて、僕は背筋が凍るのを感じた。

 舞台の奥から男が現れた。男は黒いスーツに身を包み、堂々とした足取りで僕たちの方に近づいてきた。彼の顔には異様なほどの自信が満ちていた。
「ようこそ、我らの劇場へ。」と男は言った。「ここは真の成功を望む者たちが最後に訪れる場所だ。」
「真の成功?」ホームズが問い返した。「それはどういう意味だ?」
「成功とは他人の上に立つことだ。しかしそれを可能にするのは、さらに多くの犠牲者を必要とする構造だ。この劇場では、その犠牲者を育て、彼らを利用することで新たな成功者を作り出す。」
「つまり、ここは人間を搾取する工場のようなものだと言いたいのか?」
「そうとも言える。しかし搾取される側にも意味がある。彼らが犠牲となることで、上に立つ者たちの輝きが増す。これこそが真理だ。」
その言葉を聞いて、僕は思わず怒りを覚えた。「そんなもん、許されへんやろ!」
 しかしホームズは冷静だった。「君の言葉に彼が耳を貸すと思うか?彼にとって重要なのは、自分の理論がいかに機能するかだけだ。倫理など彼の関心事ではない。」

 劇場全体に鐘のような音が響いた。舞台上の人々が一斉に動き出し、奇妙な踊りを始めた。その踊りは美しさと狂気の狭間にあり、僕はその光景から目をそらすことができなかった。
「これが彼らの結論だ。」とホームズが呟いた。「成功とは他人の犠牲の上に成り立つ。しかしその構造を作る者たちもまた、いずれ消費される運命にある。無限に続く虚無の連鎖だ」
「それなら、僕らはどうしたらええの?」僕は問いかけた。
「僕たちにできることは一つ、この場を立ち去り、自分たちの成功を自分で定義することだ。それが唯一、この連鎖から抜け出す方法だ。」
 僕たちは劇場を後にし、再び冷たい京都の夜へと戻った。

 その後、ホームズはその料亭について一切語らなかった。僕が何度聞いても彼はただ曖昧に微笑むだけだった。あの場所が何であったのか、本当に真実を見たのか、それは結局わからずじまいだった。
 ただ一つ確かなのは、その体験を経た後の僕の中で「成功」という言葉の意味が完全に変わってしまったということだ。成功とは、何かを手に入れることではなく、何かを手放すことなのかもしれない。僕はそう思うようになった。
 それでも、あの劇場で見た光景は今でも僕の脳裏に焼き付いている。そして真夜中の鴨川の風に当たるたび、あの奇妙な踊りを思い出さずにはいられない。





監視の長城


1.長城の影

 万里の長城は、ただの壁ではなかった。それは時間の断層であり、記憶の墓場だった。長城の麓に位置する「黄昏の村」と呼ばれる小さな集落は、外界から完全に隔離されていた。そこには、住民たちが絶えず監視される奇妙な社会が存在した。監視の中心には、「偉大なる目」という名の塔がそびえ立っていた。その塔から放たれる鋭い光は、昼夜を問わず村を照らし出していた。
 村の暮らしは一見すると穏やかだった。住民たちは規律正しく畑を耕し、季節の祭りを楽しみ、静かに夜を迎える。だがその穏やかさには、何か奇妙なねじれがあった。村には「規律委員会」という組織が存在し、誰もがその目を恐れていた。委員会は「日報」と呼ばれる個人記録を毎日提出させる。それは日記というよりも、自分の行動や思考を詳細に記録し、自らの「正しさ」を証明する文書だった。

 ある男──名を陳賢(チェン・シェン)という──はこの村の図書館員であり、唯一の特権階級とも言える存在だった。図書館は古い文献と「認可された知識」で埋め尽くされていたが、そのほとんどが政府の検閲を受けた改ざんされた情報だった。陳はその仕事を淡々とこなしていたが、ある日、禁書目録に載っている古い本を偶然発見する。それは『記憶の迷宮』という題名の書物で、薄汚れた羊皮紙に書かれた謎めいた内容が記されていた。
「長城は、外敵から守るための壁ではない。それは心の壁であり、真実を隔てるための装置だ。」
 そう記された一文が、彼の心を捉えた。だが本を開いてすぐに彼は気づく。そのページは途中で破り取られ、何者かによって隠蔽されていた。陳は不安と興味を抑えきれず、破れたページの手がかりを探すために夜な夜な図書館を調べ始める。
 ある夜、図書館の地下に隠された密室を発見する。その部屋には奇妙な機械が置かれていた。まるで時計と望遠鏡を組み合わせたような複雑な装置だった。その装置の前には、一枚の小さな木片が置かれていた。その木片には、次のような文字が彫られていた。
「見るな、ただ知れ。」
その言葉は、陳にとって一種の挑発だった。彼は木片をポケットにしまい、部屋を後にした。その夜、彼は眠れなかった。頭の中では「見るな」という言葉が何度も反響していた。
 翌日、村には新しい指令が下された。「偉大なる目」の修理作業が行われるため、住民全員が労働に動員されるという内容だった。陳もその作業に参加することを命じられた。彼は監視塔の頂上へと登る途中、思わぬ光景に出くわす。
 塔の内部には無数のレンズが設置され、それらが複雑に組み合わさって村全体を監視していた。だが、さらに驚いたのは、塔の中心に設置された巨大な機械だった。それは図書館の地下室で見つけた装置と酷似していたのだ。
その夜、陳は自分の家に戻ると、地下室で見つけた装置をもう一度調べることにした。装置の中にあった木片を回転させると、突然、壁に文字が浮かび上がった。それは暗号のような文章だった。
「真実は目の中にある。だが、目を見るな。」
暗号の意味を解くため、陳は村の外れに住む老人を訪ねた。その老人は村の伝統や歴史に詳しいとされていたが、実際は「規律委員会」に目をつけられ、社会から半ば追放された存在だった。老人は陳の話を聞くと、静かに首を振った。
「君は危険な領域に足を踏み入れているよ。だが、後戻りはできないだろう。」
老人は謎めいた微笑みを浮かべると、陳に一枚の古い地図を手渡した。その地図には、長城のある区画に奇妙な記号が記されていた。それは「影の門」と呼ばれる場所を示していた。
「そこに行けば何かが見つかるかもしれない。ただし、覚悟を決めて行くんだ。」
 陳は地図を握りしめ、決意を固めた。だがその帰り道、彼は「規律委員会」の巡回隊に呼び止められる。
「陳賢、君の行動は少々不可解だ。我々は少し話をしたい。」
 彼らは陳を連行し、監視塔の地下室へと連れて行った。そこには村の住民たちが、無表情で並んで座っていた。全員が目を閉じ、何かを聞いているようだった。だが何を聞いているのかはわからない。
「ここは、記憶の再構築を行う場所だ。」と、巡回隊の一人が言った。「君が知っていること、そして知り得ないこと。全てを修正する。」
陳の目の前には、あの図書館の装置に似た巨大な機械が動いていた。その音は低く、不快な振動を伴っていた。そして機械が動くたびに、陳の頭の中で何かが微かに揺れるのを感じた。
 彼は気づいた。真実を知ることは、ただ危険であるだけではない。それは全てを失う可能性があるということを意味していた。



2.影の門

 監視塔の地下室で陳賢(チェン・シェン)は、目の前で唸りを上げる巨大な機械を見つめていた。その不気味な振動音が頭の奥にまで響き、彼の心をざわつかせる。目を閉じて無表情で座る村人たちの姿は異様で、まるで魂を失った抜け殻のようだった。規律委員会の隊員たちは何かを話していたが、その言葉は彼の耳に入ってこなかった。
 突然、部屋の中央に立つ塔の管理者と思われる初老の男が口を開いた。彼の声は冷たく、どこか感情を抑え込んだような響きがあった。
「陳賢、君は危険な本に手を出した。だが、我々は君を処罰するつもりはない。ただ"真実"を見せてあげるだけだ。」
 その言葉の直後、巨大な機械がさらに大きな音を立てて動き始めた。鋭い光が部屋中を照らし、陳は目を細めた。そして彼の頭の中には不思議な映像が流れ込んできた。誰かの記憶なのか、それともただのフィクションなのかはわからなかったが、それは彼がこれまでに見たことのない景色だった。
 荒涼とした大地の中、無数の人々が長城を建設している。彼らの表情は死んだように無感情で、ただひたすら石を積み上げる作業を続けている。そして、その作業を指揮しているのは塔の中にいた管理者にそっくりな男だった。いや、それどころか男自身だと確信できるほどだった。
 映像が途切れると、陳は汗だくになって床に倒れ込んだ。塔の管理者が冷笑を浮かべて彼に言った。
「この村、そして長城の秘密を知りたければ、自らの記憶を再構築しなければならない。そのために、君は『影の門』へ行くべきだ。」
 陳はその言葉に驚いた。影の門という言葉は、先ほど老人から渡された地図に記されていた場所と一致していた。管理者はなぜそのことを知っているのか? しかしその問いを発する間もなく、陳は突然の眠気に襲われて意識を失った。

 目を覚ました時、彼は自分の家の床に横たわっていた。まるで何もなかったかのように静かな朝が訪れていたが、彼の頭の中では塔で見た映像がくすぶり続けていた。彼はすぐに老人から渡された地図を取り出し、影の門への道を確認した。どうやら、長城の北側にある廃墟のような場所を目指せばいいらしい。
 しかし、村の外に出ることは規律委員会によって厳しく禁じられている。陳は考えた末、夜陰に紛れて村を抜け出す計画を立てた。

 その夜、陳は最低限の荷物をまとめ、慎重に村の外れへと向かった。監視の目をかいくぐり、長城の裏手にある小さな抜け道を見つけた。道中、月明かりが淡く彼の足元を照らしていたが、何かに見られているような不安感が彼の背後にまとわりついていた。
 数時間の歩行の末、彼は地図に記された場所にたどり着いた。そこには巨大な石の門が立っていた。門には無数の文字が刻まれていたが、それらはどれも北方騎馬民族の古代文字で、解読することはできなかった。門の近くには小さな祠があり、その中には朽ちかけた石像が立っていた。石像の目には何かを訴えるような鋭い輝きがあった。
 陳が門をじっと見つめていると、祠の奥から低い声が聞こえた。
「来たか、愚かな者よ。」
驚いて振り向くと、そこには老人が立っていた。村の外れで会った老人とまったく同じ姿だが、どこか異質な雰囲気をまとっていた。
「あなたは何者だ?」と陳が問うと、老人は静かに笑った。
「私はただの記憶だよ。この村、長城、そしてお前自身の心の中にある記憶だ。」
 老人は続けて言った。
「影の門をくぐるということは、自らの真実に向き合うということだ。しかしその真実が何をもたらすかは、誰にも分からない。」
 陳は迷いながらも、門の前に立った。次の瞬間には、彼の目の前に塔の管理者が現れた。だが、その顔は徐々に陳自身の顔に変わっていった。彼の目は暗闇の中で不気味に輝いていた。
「陳賢。門をくぐるか? それともここで引き返すか?」
 管理者、あるいは陳自身の顔をした者の声は挑発的だった。陳は拳を握りしめ、覚悟を決めた。そして影の門を一歩踏み越えた。

  彼は広大な草原に立っていた。そこには、無数の人々の影と長城の建設現場が広がっていた。よく見ると、陳と同じ姿の人物が群衆の中に混ざっているのを発見した。
「どういうことだ?」
 陳がつぶやくと、遠くから声が聞こえた。
「これはお前の記憶だ。そしてこの記憶は真実でもあり、偽りでもある。」
 声の主は、再びあの老人だった。
「お前が追い求めているのは自由か、それとも真実か? それはお前次第だ。」
 陳は草原を見つめたまま立ち尽くした。影の門を越えた先にある「真実」とは何なのか。それを知るには、さらに進むしかないのだと彼は悟った。



3.記憶の迷宮

 草原の風は乾いていて、どこか懐かしい匂いがした。しかし、それが何を意味するのか、陳賢には分からなかった。ただ一つ確かなのは、目の前に広がる景色が現実とも幻影ともつかない、不気味な曖昧さを孕んでいることだった。
 遠くに立つ自分自身──いや「もう一人の陳賢」を見つめながら、彼は一歩一歩その光景に近づいていった。そこでは無数の労働者が長城を建設していた。彼らの表情は虚ろで、誰もが同じ動きを繰り返している。それはまるで機械が人間に姿を変えたかのようだった。
「これは……夢なのか?」
 そう問いかけた陳の背後から、再び老人の声が響いた。
「これは夢ではない。だが現実とも言えぬ。」
 振り返ると、老人が祠で見たときと同じ表情で立っていた。その目はまるで全てを見透かしているかのように冷たい光を宿していた。
「影の門を越えた者が見るもの。それはお前自身の記憶の断片だ。そして、その記憶はお前の知っている通りではない。長城が築かれる理由も、村が閉じられている理由も、全てはこの中に隠されている。」
 老人の言葉を聞きながら、陳は自分の胸の奥にじわりと湧き上がる感情を感じた。それは恐怖か、怒りか、あるいはもっと複雑な何かだった。
「お前が求める真実とは何だ?」老人が続けた。「自由か?それとも過去か?いや、それとも……希望か?」

 老人の言葉が終わると同時に、陳の目の前の景色が激しく揺らぎ始めた。労働者たちは次々と消え、代わりに新しい風景が現れた。それは村の広場だった。そこでは自分が「規律委員会」の隊員として村人たちを取り締まっている姿が映し出されていた。
「何だ、これは……?」陳は呆然とその光景を見つめた。
 そこに映る自分は、現在の自分とはまるで別人のようだった。鋭い声で命令を下し、従わない者を躊躇なく罰している。冷酷で、機械のように正確に動く姿──それは陳自身が最も恐れていたものだった。
「これはお前が忘れた記憶だ。」老人が低く言った。「お前はこの村の監視者だった。そして、お前自身の手でこの村を閉ざし、長城を監視の壁へと変えたのだ。」
「嘘だ!」陳は叫んだ。「そんなはずない!俺はただの図書館員だ!」
「図書館員は偽りの役割だ。この村には真実を求める者を騙し、誘導する仕組みが組み込まれている。そしてお前は、その仕組みの中核にいた。」
 老人の声は冷酷だったが、その一方で奇妙な哀れみを帯びていた。

 陳は信じられない思いで目の前の光景を見つめた。だが、その記憶が彼の中に深く刻み込まれていることを感じざるを得なかった。老人はさらに続けた。
「お前が求める真実はただ一つだ。長城は心の壁だ。そしてそれを築いたのは、お前自身だ。」
その言葉を聞き、陳の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。全ての記憶が洪水のように押し寄せ、彼の意識を埋め尽くした。規律委員会に所属していた頃の自分、村人たちを監視し、抑圧していた日々、そして最終的に自らその記憶を封じ込めた理由。全ての真実が明らかになっていく感覚と共に、彼は膝から崩れ落ちた。
「なぜ……なぜそんなことを?」陳は自分自身に問いかけた。
 だが答えは得られなかった。ただ、老人が静かに呟いた。
「それはお前が知るべきことではない。"真実"を知ることは、必ずしも救いをもたらすものではないのだから。」

 陳が次に目を覚ました時、彼は再び図書館の中にいた。全てが夢だったのかと思わせるような静けさが漂っていた。だが、棚に並ぶ本の中に一冊だけ見慣れない本が置かれているのを見つけた。それは『記憶の迷宮』というタイトルの本だった。
 彼がそれを開くと、最初のページにこう記されていた。
「真実は目に見えるものではない。それは心の中に隠されている。」
 陳はその言葉を読んで本を閉じた。そして静かに窓の外を見つめた。そこには相変わらず長城、そして「偉大なる目」がそびえ立っていた。
 彼は真実を知ったのだろうか。それともまた一つの迷宮に迷い込んだだけなのか。答えは分からない。ただ一つ分かるのは、この村にかかる長城の影は、決して消えることはないということだった。





『夢を旅する者たち』


前編:巻物とペンダント

 ニューイングランドの港町に秋がやってきた。乾いた風が海から吹きつけ、石畳の路地を抜けていく。潮の香りが混じった空気はどこか錆びついた音色を漂わせていて、朝の冷たさは人々の肩を縮こまらせる。大きな漁船が港に帰るたびに、鳴り響くホーンの音が霧の中を割るように響いた。
ジョナス・ケンドリックはその町で生まれ育った。27歳、独身、特に大きな夢もなもなければ、特徴もない男だった。強いていうなら、歩き出す時は左足から踏み出すことに強いこだわりを持ってはいたが。彼は地元の灯台で灯台守をしていた。灯台守なんて、この21世紀にはまるで時代遅れの仕事だと思うだろうが、ジョナスは気にしていなかった。「誰かがやらなきゃいけない仕事なんだ」と彼はよく言った。それに、古い灯台に座って海を眺めるのは悪い仕事じゃない。少なくとも、ジョナスにとっては。
 灯台は町から少し離れた岬に建っていた。赤茶けたレンガでできたその建物は、地元の歴史と一緒に風化しつつある。ジョナスの父親もその灯台で働いていたし、そのまた父親もそうだった。だから、ジョナスにとって灯台守になることは特に意識的な選択でもなかった。それはただ「そうあるべきもの」だった。

 ある日、ジョナスは古い港町の骨董店で一冊の古びた巻物を見つけた。それは棚の隅に無造作に置かれていて、誰も手を触れていないように見えた。タイトルは『夢を旅する者たち』。皮表紙は擦り切れていて、文字もかすれていた。その巻物はなぜか彼の目を引いた。
「それ、あんまり触らない方がいいぜ」と店主の老人が言った。彼は長い白髪を無造作に束ね、タバコの吸い殻を細長い指で弄んでいた。「開くと変なことが起きるらしい。」
ジョナスは鼻で笑った。「変なことって?」
 老人は肩をすくめた。「読んだ人間はみんな、人生が変わるとか、真実に目覚めるとか言うんだ。でも大抵の場合、それは大したことじゃない。たとえば、恋人を捨てて山奥に引っ越したりとかね。ま、そんな感じだ。」
「いいじゃないか。少なくとも退屈はしなさそうだ。」
 ジョナスは巻物を買った。値札には10ドルと書いてあったが、店主は3ドルでいいと言った。ジョナスが払うと、老人は奇妙な微笑みを浮かべた。その表情には、ほんの少しの悪意と、ちょっとした好奇心が混ざり合っていた。

 その夜、ジョナスは灯台の部屋でその巻物を開いた。紙は黄ばんでいて、独特の古い紙の匂いがした。巻物の冒頭にはこんな言葉が書かれていた。
「旅を始める者は、自分が何を探しているかを知らない。だが探し続けることでしか、人生の意味は見つけられない。」
 ジョナスは眉をひそめた。「人生の意味」なんて、あまりに陳腐なフレーズだ。こんなことを大真面目に書く人間は、たいていカルト宗教の教祖か詐欺師に決まっている。さもなくば学者かぶれの大学生か。だが、それでも彼は続きを読んだ。何かが彼の手を動かしていた。
 巻物の中身は実に奇妙だった。物語のようなものではなく、断片的なエッセイや詩、暗号のような文章が並んでいた。あるページには、こう書かれていた。
「人間の成功は、何を手に入れるかではなく、何を捨てるかにかかっている。欲望は人生の地図を曇らせる霧であり、その霧を晴らすには、心の中の余計なものを捨て去らなければならない。」
 ジョナスはその言葉を読んでしばらく考え込んだ。「捨てる」とは具体的に何を指すのだろうか? 金か、物か、それとももっと抽象的な何かか? 彼はその答えが自分の中にあるとは思えなかった。

 翌朝、ジョナスは不思議な夢を見て目を覚ました。夢の中で、彼は広大な砂漠を歩いていた。空は灰色で、風は乾いていた。遠くに古びた門が見え、それを通ると彼の目の前に巨大な迷路が広がった。その迷路の中心には、一冊の巻物が置かれていた。その巻物には、何か重要な秘密が書かれているようだったが、どんなに近づこうとしても届かない。目が覚めた後も、その夢の感覚は現実と混ざり合って彼を支配していた。
 その日、ジョナスは無意識のうちに港の方へと足を向けた。彼はいつもの灯台の仕事を放り出して、町の路地を歩き回った。何を探しているのかは、彼自身にもわからなかった。ただ何かが彼を動かしていた。
 港の片隅に、一人の男がいるのが目に入った。彼は奇妙な服装をしていて、ボロボロのコートを羽織り、帽子を深くかぶっていた。その男がジョナスに近づいてきた。
「君、巻物を読んだんだろう?」と男は言った。
 ジョナスは驚いて答えた。「どうしてそれを知ってる?」
男は笑った。「あの本を手に取る人間は、特別なんだよ。君もその一人だ。今、君の中で何かが動き始めているのを感じているはずだ。」
「特別って、どういう意味だ?」
「それは自分で見つけるしかない。」男はそう言って、ジョナスに古いロケットペンダントを手渡した。開くと、子供の落書きのような線画が入れられていて、何の役に立つのかもわからなかった。
「これを持って、旅に出なさい」と男は言った。「君が探しているものは、このペンダントが指し示すだろう。」

 ジョナスはその日、灯台に戻らなかった。彼は町の外れに向かい、列車に乗った。どこへ向かうのかはわからなかったが、彼はなぜかそれを気にしなかった。ただ、このまま日常に戻るのが不可能だという確信だけがあった。
列車の窓からはニューイングランドの森が見えた。枯れた木々と湿った土の匂いが漂ってきた。ジョナスはその景色を眺めながら、これが何の旅なのかを考えた。だが、答えはどこにも見つからなかった。



後編:教会の男

 列車はニューイングランドの森を抜け、さらに北へと進んでいった。ジョナスは窓際に座りながら、古いペンダントをじっと見つめていた。しかし、何かを指し示しているとは思えない。ただ、まるで神経回路のように入り組んだ線と点が描かれていて、それが何かを伝えようとしているように思えた。しかしその意味は一向に分からなかった。
 隣の座席には若い女性が座っていた。赤いウールのコートを着ていて、髪は黒く、顔立ちはどこか古風な雰囲気があった。彼女はジョナスの手元のペンダントに目を留め、軽く微笑んだ。
「それ、ずいぶんと興味深いわね。」
 突然の言葉に、ジョナスは驚いて顔を上げた。「どうしてそう思うんだ?」
「だってそれ、私も持ってるから。」
 彼女はそう言うと、バッグから一つのロケットペンダントを取り出した。ジョナスのものとは微妙に表面の模様は違うものの、中には同じような線と点の絵が描かれていた。ジョナスは思わず息を呑んだ。
「君は巻物を知っているのか?」
 彼女は頷いた。「『夢を旅する者たち』でしょ? たぶん、あなたが思っている以上にあの巻物を読んだ人間は多いわ。あれはたくさんあるのよ。そしてみんな旅に出る。でも誰も戻ってこないのよ。」
「戻ってこない?」
「そう。私は今までに、奇妙な巻物を読んだという人に数人会ったけど、全員が謎のペンダントを持ってどこかに消えたわ。もしかしたら、みんな“目的地”にたどり着いたのかもしれない。でも真相は誰も知らない。」
 彼女の言葉は不気味だったが、ジョナスの中にある興味をさらに煽った。
彼女の名前はエミリーと言った。彼女は、理由はわからないが、人生を終わらせるためにその巻物を読んだそうだ。そのさっぱりとした笑顔の中に何を見ているのか、ジョナスにはわからなかった。

 列車が停車した小さな町で、二人は降りた。町は灰色の空に覆われ、古びた家々が軒を連ねていた。通りにはほとんど人影がなく、全体が時間に取り残されたような雰囲気を漂わせていた。ジョナスとエミリーは、導かれるように無言で歩き続けた。
「どうしてを旅をしているんだ?」とジョナスがふと尋ねた。
エミリーは足を止め、少し考えるような顔をした。「別に。ただそうする以外に選択肢がないのよ。私にはこれしか残されていないから。」
 その言葉にジョナスは戸惑った。自分がこの旅に出た理由は、もっと漠然としたものだった。灯台の単調な日々から逃げ出したかったわけでもなく、特別な目的があったわけでもない。ただ、何かに突き動かされるようにして旅を始めた。そして今、この町にいる。

 彼らは町外れにある古い教会にたどり着いた。日が沈む少し前だった。その教会は放棄されていて、ステンドグラスは割れ、木製の扉は朽ちかけていた。教会の壇上には、大きな鏡が立てかけられていた。不思議と、そこに何かが待っているような感覚があった。二人は教会の中に入った。
 中には一人の男がいた。ストールを纏った背の高い男で、手には何も持っていなかった。彼は二人が入ってくるのをじっと見つめ、薄く微笑んだ。その目は、すべてを見透かすような鋭さを持っていた。
「ようこそ」と男は言った。「君たちがここに来るのを待っていた。」
ジョナスは眉をひそめた。「誰なんだ、お前は?」
 男は答えなかった。ただ、二人に向かって歩み寄り、その場に立ったままこう言った。
「君たちは『巻物』の意味を知りたくてここに来たんだろう?」
「そうだ」とジョナスが答えた。「あの巻物、そしてこのペンダントは何を示しているんだ?」
男は笑みを浮かべた。「それらは答えではない。ただ、君たち自身を映し出す鏡だ。」
「どういうこと?」エミリーが尋ねた。
「君たちはそれぞれ違う線と点を持っているが、どちらも同じことを示している。その絵の線や点は君たち自身の選択や行動だ。それをどう読むかは君たち次第だよ。そしてその先に何があるのかは、誰にもわからない。」

 男は二人を横目にゆっくりと立ち去り、教会内に強い風が吹きつけた。空気が震え、窓がカタカタと揺れる音が響いた。日光がステンドグラスから薄く差し込み、壇上の鏡に淡い輝きを放つ模様が映った。それは、ペンダントの絵に描かれた線ととても似通っているように見えた。
 ジョナスとエミリーはその場に立ち尽くした。鏡に映る模様の中に釘付けになったが、やがて日光が雲で遮られ、模様は消えてしまった。
「これがペンダントの指し示していたものなの?」エミリーが呟いた。
 ジョナスは答えなかった。ただ、その光景を見つめることしかできなかった。吹き抜ける冷気は一段と強くなり、二人の体を芯から震わせた。

 夕暮れ、ジョナスは灯台の部屋に戻っていた。エミリーとは駅で別れたような気がするが、教会の後の記憶は曖昧だった。ペンダントもいつの間にかどこかへ行ってしまっていた。まるで何事もなかったかのように、目の前には果てのない海が、夕闇の中で静かに揺れていた。

 しかし、ジョナスは何かが違うと感じていた。自分が探しているものは、まだどこかで自分のことを待っている。そしてそれを見つけるための旅は、まだ終わっていない。
 灯台の光をつけたジョナスは、再び海の向こうを見つめた。そこには何もなかったが、彼の胸の中には、かつての世界とは違う、微かな鼓動の響きを感じていた。

 翌日、彼は旅の支度をしていた。ペンダントはないが、彼はどこへ行けばいいのか自分の中に答えがある気がしていた。その旅が何を意味するのかは、ジョナス自身にもわからない。しかしジョナスに迷いはなかった。きっといずれわかることだ。
 ジョナスは次なる旅の大きな一歩を、右足で静かに踏み出していた。





東京藝術大学の黒い譜面


1.芸術の毒

 上野駅から東京藝術大学まで歩くのは、何か特別な儀式のようだった。坂道を登りながら、は周囲の空気が少しずつ変化していくのを感じた。普通の都会の雑踏から、どこか時間が止まったような空間への移行。それはまるで、錆びついたトランペットがふいに響き渡るような、不意打ちの音楽的瞬間だ。アトリエの窓辺から漏れる微かなピアノの音や、敷地内を漂う油絵具の匂い。それらは複雑に交じり合いながら、密やかに語りかけてくる。

「芸術には独特の毒がある。」
 かつてそう言ったのは、音楽学部作曲科の非常勤講師をしている友人の武井だ。彼は僕より少し年上で、細身の体にいつも灰色のスーツを着ている。夏でも冬でも同じだ。スーツはぴったりしているわけではなく、むしろ一回り大きい。まるで過去の自分が着ていたものをそのまま着続けているように見える。彼の話を聞くと、藝大は外から見るよりずっと奇妙で複雑な場所らしい。芸術という美しい名のもとに、多くの人間がそれぞれの執着や虚栄、嫉妬や恐怖を密かに抱え込んでいる。
「毒?」
 僕が訊ねると、武井は意味ありげな微笑を浮かべた。
「うん。毒だよ。でもね、これは必要な毒なんだ。たとえば、ある特定の毒がなかったら、音楽は退屈で無味乾燥なものになるし、絵画もただの平面的な模倣になっちまう。」
 彼は言葉を選ぶようにして話を続けた。
「でも、毒は毒だ。時には誰かを殺すこともあるし、自分を破壊することだってある。」

 そんな話を聞きながら僕は、武井が言う「毒」が何を指しているのか、漠然とした興味を抱いていた。そしてその好奇心は、彼からの突然の電話で具体的な形を取り始めた。
「君に会いたい。藝大で奇妙な事件があったんだ。」
 武井の声は少し落ち着きがなかった。珍しいことだ。彼は普段、どんな状況でも冷静な男だったから。僕はその日の予定をキャンセルして、藝大へ向かうことにした。

 藝大の敷地に足を踏み入れると、妙に空気がざわついていた。学生たちが普段より少しだけ緊張しているように見えたし、職員たちの表情にも不自然な硬さがあった。それが何に起因しているのか、僕にはまだわからなかった。
 武井は音楽学部の古い講堂の前で待っていた。木造の建物で、外壁には年月の跡がしっかりと刻まれている。中に入ると、薄暗い廊下がいくつも続いていて、まるで迷路のようだった。僕たちは誰にも会うことなく、講堂の奥にある小さな部屋にたどり着いた。
「ここだよ。」
 武井がそう言って部屋のドアを開けると、中には小さな机と椅子が一つずつ置かれていた。机の上には、古びた譜面が無造作に置かれている。紙は黄ばんでいて、ところどころに黒いシミが付着していた。そのシミが何なのか、僕は考えたくなかった。
「これが問題の譜面か?」
 僕が訊ねると、武井は静かに頷いた。
「そう。これは19世紀のドイツで作曲された未発表の曲だと言われている。大学の地下倉庫から偶然発見されたんだ。だがそれが本物かどうか、まだ誰にも分からない」
「それがどうして事件になる?」
 僕の問いに、武井は少し言葉を詰まらせた。そして、低い声でこう言った。
「この譜面について調べてた二人の教授が、立て続けに死んだんだよ。一人は心臓発作、もう一人は自殺だ。」
 僕は譜面を見つめた。見た目はただの紙だ。しかし、そこには不気味な何かが潜んでいるように感じられた。音符はどこか歪んでいて、規則的でありながら不規則でもある。奇妙なテンポ記号や意味不明な記述も散見される。それらが不安を煽った。
「何が起きているのか、まだ分からない。でもこれがただの偶然だと思うか?」
 武井の言葉には、確信めいたものが含まれていた。

 その夜、僕は家に戻り、譜面の写真を何度も見返した。だがそこからは何の手がかりも得られなかった。ただ一つ気になったのは、譜面の右下に書かれた小さな文字だ。それはドイツ語で「死者の音楽」と記されていた。
 翌日、僕は再び藝大を訪れ、武井と共にこの譜面に関する手がかりを探すことになった。だがその探索は奇妙な方向へ進むことになる。予想もしない事実が次々と明らかになり、僕たちは次第に「毒」の核心へと近づいていく。
 それが明確な答えをもたらすものか、それともさらなる謎を呼び込むものかは、この時点ではまだ誰にも分からなかった。



2.悪魔の音楽

 翌朝、冬の冷たい光が窓から差し込む中、僕は東京藝術大学へ再び向かった。昨日の譜面の奇妙さが頭から離れない。まるで音符の一つひとつが独自の意思を持ち、僕をどこかへ引きずり込もうとしているかのようだった。音楽を専門にしたことは一度もないが、何か底知れぬ不安を感じるには十分だった。
 キャンパスに到着すると、武井が音楽学部の一角にある小さな研究室で待っていた。彼の顔は異様に青白く、生気がない。昨夜は眠れなかったのだろうか。机の上には例の譜面が置かれていた。武井はそれを指しながら言った。
「これを詳しく調べる必要がある。ただし、普通の方法じゃ無理だ。」
「普通の方法じゃ無理?」
 僕が問い返すと、武井はゆっくりと頷いた。
「この譜面は単なる楽譜じゃないかもしれないんだ。何かもっと深い意味が隠されている可能性がある。たとえば、暗号とか、メッセージとか。」
 僕は軽く鼻を鳴らした。
「また君のオカルト趣味か?」
 武井は眉をひそめたが、反論はしなかった。ただ引き出しから分厚いノートを取り出し、僕に渡した。それには彼がここ数日間に調べた内容が細かく記されていた。ドイツの作曲家「カール・ヴァルトシュタイン」の名前が何度も出てくる。19世紀のマイナーな作曲家で、生前にほとんど知られることのなかった人物だ。彼の作品には、独特の不協和音や異常な構造が特徴として挙げられている。そして、死後の評価によって「狂気の音楽家」と呼ばれるようになった。
「この譜面は、ヴァルトシュタインの未発表作品だと言われている。でも、どうやら彼はこれを完成させる前に何かに取り憑かれたようだ。周囲の証言では、彼は晩年に非常に奇妙な行動を取るようになり、最終的には自宅で首を吊った。」
 僕はノートを閉じた。何かが背筋を冷たく撫でる感覚がした。
「それで、君はこの譜面をどうするつもりなんだ?」
 武井は黙って立ち上がり、部屋の隅に置かれた古びたオルガンに向かった。譜面を持ち上げ、鍵盤の上に広げる。彼の指が鍵盤に触れると、重たい音が室内に響き渡った。それは単なる音楽ではなかった。空気が変わるのを感じた。目には見えないが、部屋全体を何かが覆ったような感覚。音はどこか不安定で、聞いているだけで胃が締め付けられるようだった。僕は思わず叫びそうになった。
「どう思う?」
 楽譜の一部を演奏し終えた武井の顔はさっきより一段と青白く、どこか焦点が定まらない目で僕に尋ねた。
「……これは音楽じゃない。それに君はこれ以上それを演奏しない方がいい。」
 僕は率直な感想を述べた。これを音楽と呼ぶにはあまりに破綻していたし、何か嫌な予感もした。そこには何か強烈な力が込められているようだった。
「そうだ。これを音楽と呼ぶのは間違いだ。もっと、それ以上の何かだろう。」
 武井は、まるで譜面に魅入られたかのように楽譜を見つめ、静かに呟いた。

 結局、その日の午後も僕たちは譜面の背景についてさらに調べることにした。音楽学部の図書室には、古い資料が豊富に揃っている。埃を被った本棚を漁りながら、僕たちはヴァルトシュタインについての手がかりを探した。そして、ある一冊の古い論文が僕たちの注意を引いた。その論文には、彼の音楽が「ある特定の心理的影響を及ぼす可能性」について記されていた。要するに、彼の音楽は聴く者に幻覚や妄想を引き起こすかもしれない、というのだ。
「これが本当なら、この譜面が教授たちの死に関係している可能性がある。」
 武井が論文を読み上げながら言った。僕は思わず笑いそうになった。
「幻覚のせいで心臓発作を起こしたとか? 自殺したとか? それじゃまるで悪魔の音楽だな。」
 だが武井は真剣だった。彼は譜面の一部を指さしながら言った。
「ここに注目してくれ。この音符の配列、普通じゃないだろう? それにこれを演奏すると、人間の心拍数に近いリズムが繰り返されるんだ。」
 僕は思わず息を呑んだ。そのリズムは異常だった。確かに心臓の鼓動に似ているが、どこかズレている。それはまるで壊れた時計の針が動いている音を譜面に起こしたような、不快感を伴う見映えだった。
「君は本気でこの譜面が人を殺す力を持っていると信じているのか?」
 僕は武井を真っ直ぐ見つめた。彼の目は少しうつろで、赤く充血していた。
「正直に言うと、わからない。でもこの譜面には普通じゃない何かがあるのは確かだ。偶然にしては、あまりにも説明がつかないことが多すぎる。」
 僕は答えを保留することにした。科学的な根拠もないまま、音楽が人を殺すなどという話を鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、武井の言葉ややつれた表情に、どこか引っかかるものがあるのも事実だった。

 夕方、僕たちは音楽総合研究センターの資料倉庫に向かった。武井が「何かわかるかもしれない」と言ったのだ。誰もいないその施設の裏側は、ひんやりとして薄暗かった。古い楽譜や書籍、壊れた楽器が無造作に置かれたその場所は、歴史の忘れ物たちが積み上げられた墓場のようだった。
「ここに何か手がかりがあるといいが……。」
 武井は奥へと進んでいく。彼の背中を追いながら、僕は奇妙な感覚に襲われた。何か目に見えない存在が僕たちを観察しているような気がしたのだ。しかし、振り返ってもそこにはただの暗闇があるだけだった。
 しばらく進むと、古びた木箱が山積みになった一角にたどり着いた。箱のいくつかにはドイツ語が書かれている。ヴァルトシュタインの名前もその中に含まれていた。
「これだ。」
 武井は手を震わせながら、一つの箱を開けた。その中にはさらに古い譜面や手紙がぎっしり詰まっていた。彼は手早く内容を確認し、次々と机の上に並べていった。
 その中に、一枚の奇妙なスケッチがあった。円形の図形が何層にも重なり合い、音符のようなものがその中に書き込まれている。それは楽譜というより、むしろ魔法陣に近いものだった。
「これを見てくれ。この図形は、ヴァルトシュタインが作った『音の精神幾何学図形』と呼ばれるもので、彼が最晩年に執着した構造理論だ。これを完全に理解できた者は誰一人いない。」
 僕はそのスケッチをじっと見つめた。円が交差する部分には小さな文字が書かれていたが、字が歪んでいて読むことはできなかった。
「これが何を意味するか、君にはわかるのか?」
 僕が訊ねると、武井は微かに笑った。
「分からない。でもこれが単なる楽譜じゃないことだけは確かだ。この図形は、人間の意識や精神に影響を与えるための構造かもしれない。ヴァルトシュタインは音楽を通じて、人間の心を制御しようとしたんだ。」
 彼の言葉に、僕は寒気を覚えた。音楽を通じて心を操る? それはあまりにも突飛な仮説に思えた。しかし目の前の譜面とスケッチは、その可能性を否定しがたい何かを示唆しているように感じられた。

 その夜、武井が譜面の解読に集中している間、僕は倉庫をさらに探索した。そして、倉庫の奥で一冊の手書きのノートを見つけた。それは、ヴァルトシュタインの弟子だったという人物の日記だった。彼の名前は「フリードリヒ・コッペル」。日記には、ヴァルトシュタインの最後の数ヶ月間について詳細に記録されていた。

「先生は狂ってしまった。彼は音楽を創造するのではなく、音楽によって世界を壊そうとしている。『この音符が人間の心を解放する』と言っていたが、実際にはそれは破壊に他ならない。」

 僕はその文章を読み進めるうちに、ますます深い闇に引き込まれるような感覚を覚えた。
 日記の最後にはこう書かれていた。
「私もあの譜面を覗いてしまった。夜ごと奇妙な夢を見る。目を閉じるたびにあの幾何学図形が浮かび上がり、音符が頭の中で響き続ける。これは我々の知る音楽ではない。何か別の存在だ。ああ、神よ。」
 僕は慌ててノートを掴み、武井の元へ戻った。

 武井に日記を見せると、彼はしばらく無言でページをめくっていた。目が何かを追い詰めるように動いている。そして最後のページを読み終えたあと、顔を上げてこう言った。
「やはりな。これは音楽を媒介して、人間の精神に干渉する装置のようなもので間違いない。」
 僕は黙り込んだ。彼の言葉を否定する材料は、僕にはもう何もなかった。



3.完全な音楽

 身体中を度々走りぬける異様な寒気は、僕たちが楽譜の核心に近づくことへの本能的な警告だろう。僕たちは音楽総合研究センターを離れ、武井の研究室に戻った。武井はすぐに新しい資料、そして譜面と弟子の日記を広げ、何かに取り憑かれたように解析を始めた。その集中力は狂気的で、僕が声をかけても反応しなかった。
 僕は椅子に座って冷めたコーヒーをすすりながら、武井が何を見つけようとしているのか考えた。あの譜面の音符が刻んでいた奇妙なリズム。それはどうしても心に引っかかる。

 翌朝研究室で目を覚ますと、武井はすでに起きていて、黒板に複雑な図形を描いていた。それは例の「音の精神幾何学」の図形をさらに展開したもののようだった。円がいくつも重なり、その中心には奇妙なシンボルが描かれている。
「これを見てくれ。」
 武井が振り向きもせずに言った。
「何だ、それは?」
「この図形が表しているのは音楽でも数学でもない。もっと根本的なものだ。これを見てほしい。」
 彼は黒板の端に書かれた数式を指した。それは振動や波動を表す物理の方程式に似ていたが、どこか違っていた。それは幾何学だけでなく、ヴァルトシュタインが独自に使っていた記号や関数を使い、さらに音楽理論やドイツ神秘主義の理論までを広範に応用している内容だった。
「この図形は単なる音符やメロディを超えて、空間や時間に直接的な影響を与える可能性を示唆している。ヴァルトシュタインはこれを通じて、人間の精神に直接働きかける構造を作ろうとしたんだ。」
「つまり、それは何なんだ?」
 武井は首を鳴らしながら答えた。
「現代の科学の概念をも超えた何かだ。彼はこれを『完全な音楽』と呼んでいたらしい。だがその完成は、人間の理性を超越することでしか達成されないようだ。」
 僕は彼の言葉の意味を全ては理解できていなかった。それは音楽の話ではなく、何かもっと悪魔的な儀式の話に近かった。

 その日の午後、武井が演奏を試みると言い出した。僕は止めた。あまりにも危険なことだと思った。しかし彼は譲らなかった。
「知りたいんだ。この譜面の本当の意味を。それを知るためには、演奏して確かめるしかない。」
 研究室の古びたピアノの前に座る武井の背中は、妙に痩せ細って見えた。彼が鍵盤に触れると、音楽ではない「何か」が空間を満たし始めた。それは低く不安定な音から始まり、次第に高まり、複雑さを増していった。
 音はまるで物理的な存在のように部屋を押しつぶし、僕の耳にはただの騒音にしか聞こえなかった。だが、その中には奇妙な秩序が隠されているようでもあった。僕は手で耳を塞いだが、音は頭の中に直接響いてきた。
 そしてその瞬間、部屋が揺れ始めた。音楽が波のように部屋を満たし、物理法則が崩壊するような感覚が広がった。机や窓ガラスがガタガタと音を立てる。それが本当に起きているのか幻覚なのかは判別しようがなかった。僕は叫びながら武井に止めるように言ったが、彼はまるで催眠状態に入ったように演奏を続けていた。
「やめろ、武井! 君までおかしくなるぞ!」
 だが彼は振り返らなかった。その顔は何かに憑かれたようで、彼自身ではないように見えた。武井の肩を強く揺すったが、びくともしなかった。彼が演奏し終える前に、僕は精一杯の力を振り絞って武井を突き飛ばした。僕と武井は椅子ごとピアノの横へ倒れ込み、演奏は止んだ。

 気がつくと、部屋は静まり返っていた。楽譜は床に落ち、黒い譜面は何事もなかったように虚空を見つめていた。
 僕は武井を揺すった。彼は微かに息をしていたが、目は虚ろで、どこか遠くを見ているようだった。
「武井、大丈夫か?」
 僕が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げ、掠れた声で言った。
「聞こえたんだ……完全な音楽が……でも、それは人間のためのものじゃなかった。………この音楽は、……………………。」
 彼は最後に小さな声で呟いて、また気を失った。
 僕は彼の言葉に絶句した。それ以上、何も言えなかった。

 その後、武井は大学を去った。どこへ行ったのか誰も知らない。彼の研究室には何一つ残されていなかった。楽譜は僕から事情を話し、大学側に対応してもらうことになった。
 僕も藝大には近づかなくなった。だが時折夢の中で、あの音符が浮かび上がる。黒い譜面と歪んだ音が、僕の意識の奥深くに刻み込まれているのだ。そしてそのたびに、武井の最後の言葉が思い出される。

「この音楽は、真実そのものだ。だが、人間が真実を受け入れるには、まだあまりにも脆弱だ」

 果たしてあの譜面が何だったのか、今となっては知る術はない。ただ一つ言えるのは、音楽の中にはまだ解明されていない闇が隠されているということだ。そして、そこに人間が触れてはならないということ。
 それでも僕は、時折音楽を聴く。何の変哲もないピアノソナタや、気の利いたジャズの即興演奏。もちろんポップミュージックだって聴く。だがどこかで、常に不安がある。
 どこかであの譜面のような音楽が、僕たちを待ち伏せているのではないかと。


いいなと思ったら応援しよう!