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【小説】始皇帝の支配力 第三章



第三章:一「復活の兆し」


 雪が降り続く村の朝は静寂そのものだった。白い風景が空と地面の境界を消し、まるで世界そのものが空虚に満ちているようだった。久美子は古びた宿の一室で目を覚ました。窓枠の隙間から冷気が漏れ、わずかに揺れるカーテンが彼女の意識を現実へと引き戻す。
 宿の主人は無愛想な老婦人で、到着した昨晩も必要最低限の言葉しか交わさなかった。
「泊まるのはいいが、余計な場所に首を突っ込まないことだ。」
 その警告めいた言葉を聞いたとき、久美子は一瞬ひるんだが、結局部屋の鍵を受け取った。村には他に宿泊施設などなく、夜を凌ぐにはここしか選択肢がなかったのだ。
 久美子は昨晩の出来事──役場で出会ったロシア人風の中年男の話、そして土器の破片のことを思い返していた。その破片を見た瞬間、彼女の中では確かに何か動いた。それが自分を待っていたかのように。しかし男の「この村は、よそ者に優しくない」という警告が、ずっと耳の奥にこびりついて離れなかった。
──欠片を集める者は、ある力を得る。
 その伝説めいた言葉もまた、彼女の頭から離れなかった。あの謎の電話や小屋で出会った長身の男、彼らはその力と何か関係があるのかもしれない、と久美子は直感した。
 久美子はベッドから起き上がり、冷たい床を踏みしめながら窓の外を見つめた。雪は相変わらず降り続けているが、村の奥に続く細い道がかすかに見える。その先には何があるのだろうか。ノートに書かれていた謎めいた言葉が、彼女の足をそちらへと向かわせる気がした。
 ファイルと小屋にあったノート、彼女はその二つを確かめると、決意したようにコートを羽織り、部屋を出た。


 宿を出ると冷たい空気が肌を刺した。昨晩よりも気温はさらに下がっているようだ。雪の中を歩きながら、久美子は村の奥へと向かう道を進んだ。
 途中、道端にぽつりと立つ小さな祠が目に留まった。雪に埋もれていて見過ごしてしまいそうなほどだが、どこか異様な存在感があった。久美子は足を止め、祠に近づいた。
 中には古びた木彫りの像が置かれていた。人間のようにも見えるが、顔の部分は抽象的に削られ、奇妙な模様が全体に刻まれている。まるであの土器の破片に描かれていた模様と共鳴しているようだった。
 しばらく祠を眺めていると、不意に背後から声がした。
 「村の奥に行くつもりか?」
 振り向くと、昨日役場で出会ったロシア人風の中年男だった。
「やめておけ。お前が手にした土器の破片、あれはただの骨董品なんかじゃない。あれは、古代の支配者が己の力を封じるために作られた、いわばオーパーツだ。」
「支配者って?」
「秦の始皇帝だよ。」男はゆっくりと語り始めた。「かつて不老不死の理想を追い求めた始皇帝は、この地を訪れたと言われている。始皇帝は死を恐れていただけでなく、己の支配力が他人に奪われることをも極端に恐れていた。そしてその力を守るために土器にその力を封じ、その一部をこの地に隠したんだ。だが土器の破片を集めた者は、その力を取り戻すことができる。もっとも、そんな力がどんな結末をもたらすかは分からないがな。」
 久美子は男の言葉を黙って聞いていた。ファイル、謎の男、ノートの言葉、土器の破片、そして始皇帝の伝説──それらがまるで一本の糸で繋がるような気がした。
「その伝説、本当なんですか?」
「伝説は伝説だ。信じるかどうかは君次第だ。」男はそう言うと、祠を一瞥して背を向けた。「だが俺は忠告したからな。これ以上先へ進むのはやめておいたほうがいい。村人たちも良くは思わないだろう。」
 そう言い残して、男は雪の中へと消えていった。
 久美子はふと新幹線で出会った年配の男性のことを思い出した。
──支配するものは必ずしも幸せではない。
 彼はそう言っていた。


 久美子は再び歩き始めた。道は次第に細くなり、木々が迫ってくる。まるで彼女を飲み込もうとするかのように、雪に覆われた森が音もなく立ち塞がっていた。
 その時、彼女のポケットの中でスマートフォンが震えた。画面を見ると、相馬からの着信だった。
「もしもし、慎也?」
「久美子? 今どこにいるんだ?」
 その声は少し威圧的なものを感じた。久美子は一瞬躊躇ったが、新潟にいることや伝説について、正直に話すことにした。
「信じてはもらえないだろうけど、ちょっと探してみたいの。」
「一人でかい? 随分と大胆だね。」相馬の言葉は、どことなく批判的なニュアンスを感じた。「今日は日曜だし、クリスマスに何もできなかったから二人でイルミネーションでもどうかなって思ってたんだけど。」
「ごめん……。でも今は探さなきゃいけない気がするの!」
 久美子は自分でも驚くほど確信に満ちた声で言った。相馬はあまり納得していないようだったが、一言お詫びを入れて電話を切った。
 久美子は心臓が早鐘を打つのを感じた。

──集めろ。大王を解き放つのだ──

 奇妙な言葉が頭に浮かび、全身に強いプレッシャーを感じる。久美子はスマートフォンをポケットにしまうと、再び前を向いた。行かなきゃ。
 彼女の足取りは、これまでよりも少しだけ強くなっていた。


第三章:二「先生」


 久美子の足元で雪がぎゅっぎゅっと音を立てた。その音だけがこの森の中で現実味を帯びている。冷たい空気が肺を刺し、吐く息が白く曇った。彼女は自分の呼吸の音と遠くでかすかに聞こえる風の唸り声に耳を澄ませながら、細い道を進んでいった。
「こんな場所にひとりでくるなんて……」
 久美子は自嘲気味に呟いた。だが彼女の胸の奥には一種の高揚感があった。それは常識を超えた世界へ足を踏み込む知的好奇心と使命感、そして都会での退屈な日常から切り離されたことへの、言葉にできない興奮だ。
 ふと、木々の間に何かが見えた。それは建物の石柱のように見えた。まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように、木々の中で神秘的な存在感を放っている。
 近づいてみると、何本かの倒れた石柱の奥に、洞窟と一体化したような石造りの建物がみえた。久美子は意を決してその中に入った。
 中は薄暗かった。外の雪明かりがわずかに差し込み、空間の輪郭を浮かび上がらせる。中は思った以上に広く、ところどころに陶器らしきものの破片や埴輪のようなものが雪に埋もれていた。その一つを拾い上げると、それはやはり写真や役場で見た土器の模様と同じものに見えた。
 スマートフォンの懐中電灯で辺りを照らすと、壁には何か文字らしきものが書かれているのにも気づいた。そこには漢字らしき象形文字と奇妙な絵が描かれていた。
 壁を見渡すと、ある一枚の紙が貼っているのが目に留まった。それは村の地図のようなものだった。手書きで描かれた地図には、森の中の道、村の中心部、そして地図の端には「大王ノ御陵墓」と記されている。
 久美子は息を飲んだ。無視意識に地図に手を伸ばしたが、その瞬間背後に強いプレッシャーを感じ、振り向かずにはいられなかった。
「大いなる」そこにいたのは、小屋で出会った黒ずくめの長身の男だった。「大いなる力を、我々は、いや、先生は欲しておられる。しかしそれには代償が伴う。」
 久美子は後退りした。雪を踏む足音もなくこの男は現れたように感じた。その目は深く何かを見据えているようで、何も見ていないようにも感じられた。男の目は凍りついたこの地よりも冷たくみえた。
 久美子が質問しようとした答えを知っていたかのように、男は話しだした。
「聖夜、君に電話をし、ここへ呼んだのは私だ。ファイルを君のデスクに置くよう手配したのもな。先生は、始皇帝の力を復活できる人を探しておられた。」
「……あなたは誰なんですか? 先生というのは?」
 久美子はこの男をなぜか信用せざるを得ないような、不思議な感覚に囚われた。
「先生は、元は衆議院議員をやっておられた。」


「先生は、元は衆議院議員をやっておられた。私はその秘書だ。」長身の男は、軽快だが権威を感じさせる声で話し出した。「だがそれは表の顔だ。先生はその実、この国を影で支える、とある組織を築いたお方だ。その組織は、この国の政治、経済、宗教、そして教育に大きな影響力を発揮し、この国の重大な意思決定に関わっている。表向きは単なる財団法人だがね。あのお方のおかげで、今、この国が直面するはずだった多くの重大な危機とは無縁でいられている。もちろん、それは凡庸な人間には到底理解しえない話だがね。」
「その先生が始皇帝の力を欲していると?」
「なにぶん、先生はご高齢でね。すでに米寿を迎え、その体力や判断力はすっかり衰えてしまっている。だが先生のその政治手腕を失うことは、組織、ひいてはこの国の大きな支柱を失うことになる。」
 男は抑揚をつけるでもなく、一定の調子を保つように話した。久美子はその話を聞いて、自分をここへ導いた存在が明らかになることに一種のカタルシスを覚えた。同時に、権威ある組織の話が出てきて、奇妙な安堵感も覚えた。もちろん証拠など何一つないのだが。
「それで、我々は先生に、もう一度支配力を取り戻してほしくてね。始皇帝の力を欲しているというわけさ。」
「とても面白い話ですね。それで、それと私に何の関係が?」
 男は微かに表情を変えた。だがどこが動いたのかはじっと見ていても全然わからなかった。
「先生は若い頃、とある本を大層お気に入りでね。よくご愛読されていた。『帝王学の本質』という、古代中国の君主論を現代風にまとめたものだ。先生はご自身の支配力の一部を込めた栞を作り、その本に挟んで持ち歩かれていたそうだ。」
 男の体はぴくりとも動かず、石像のようにそこに立ったまま続けた。時折わざとらしく腕時計を触り、その機械じみた仕草がますます無機質な印象を与えた。
「ある日、先生はその本をあるご友人にお貸しになったそうだ。彼は先生よりずっと年下だったが、とある立食パーティーで意気投合し、すっかり懇意になったそうだ。それからしばらく貸していたそうだが、返却されたのは、子供の歯形がついたその本だけで、栞の方はなくなっていた。何やら娘に齧って破られてしまったとのことだったよ。」
 それを聞いた久美子は身体中が熱くなり、汗ばんでいくのを感じた。彼女は高校生の頃、父の書斎で『帝王学の本質』を読んだことがあった。そしてそれを借りた時、父からこんなエピソードを聞いた。
 それは久美子が小さい頃、父と喧嘩した時に、父が当時読んでいた『帝王学の本質』を奪い取って、その栞を噛みちぎってしまったという。しかもそれを口の中に入れて、誤って栞の紙片を飲み込んでしまったというのだ。
 彼女はこれまで、あらゆる組織でリーダーをしてきた。学級委員、生徒会長、キャプテン、部長──。
「ところで君は、勤め先ではプロジェクトリーダーを任されているそうだね。随分と若いのに、結構なことじゃないか。」
 久美子は何も言わなかった。
「それと、ちなみになんだが、先生が設立された組織の現在の理事は、君の勤め先、△△商事の筆頭株主の一人でもある。それに主要取引先の中には、我々と懇意にさせていただいている方もいてね。我々は実は、先生を通してこれまでも深いところで繋がっていたのだよ。」
「私にどうしろというのですか?」
 久美子は支配されているような恐怖を感じたが、覆い隠して強気に聞いた。
「ああ、失礼。脅そうってわけじゃあないんだ。ただ、始皇帝の力を復活させるには、同じ力を宿す若い方の協力が必要でね。君には協力をしてもらいたかっただけさ。だがなにぶん、現実離れした話だからね。それに取引は優位に進めていきたいのが、人の性だろう。もちろん、タダでとは言わない。」
 久美子の中には、ただ非日常が新しい現実として身体に溶け込んでいくような、そんな感覚だけが残った。


続きは書きません。
4章では力の復活、5章は帰宅を書く予定でした。
4章では始皇帝の力を男とともに復活させるなかで、「人の理想とは何か」について深掘りする内容でした。
5章では久美子は巨大な力への無力感を抱えたまま、非日常から日常に戻っていくという結末です。それは表面上は変わらない日常だが、特別な力や背後にある大きな力を知ってしまった後の、変わってしまった日常でもあります。しかし、それはマイナスな面ばかりでなく、自分の人生を新しく捉え直す、重要な機会でもあったということです。


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