
【小説】始皇帝の支配力 第二章
第二章:一「出立」
新潟へ向かう動機は、突き詰めていけば「逃れようのない違和感」と言い換えられるのかもしれない。久美子はその朝、眠りの浅い目覚めから逃れるように起き上がり、部屋中に散らばる昨日の記憶を拾い集めた。
薄暗い冬の朝。土曜日のホワイトクリスマス。窓の外にはまだ雪がちらついていて、灰色の空は夜の延長線上に見えた。何かを夢に見た気がするが、目が覚めるといつも消えてしまう。代わりに、脳裏には昨晩の電話とあのファイルがしつこく残り続けている。
「新潟へ行け」
謎の電話が告げた言葉は彼女の胸の奥に針のように刺さり、夜が明けても抜けなかった。
彼氏の相馬はクリスマスにも関わらず休日出勤するといい、隣に彼の姿はもうない。彼は言葉少なに「今日は忙しいから、帰りは遅くなるかも」と言い残していた。いつものことだ。相馬は久美子に優しいが、その優しさは時々ガラス細工のように脆く、滑らかな表面を保ちながらも内側には触れられない壁があった。
久美子はキッチンに立ち、コーヒーを淹れた。湯気がふわりと立ち上り、わずかに乾いた空気に湿り気をもたらす。彼女はぼんやりとファイルについて考えた。
これは、誰かが私に届けたものなのだろうか? そうでないなら、なぜあの奇妙な写真や地図が、あのタイミングで彼女の手元に現れたのか。なぜ電話がかかってきたのか。自分が何かに巻き込まれつつあるのは分かっている。だが、その「何か」の正体が見えない。
冷蔵庫からトーストを取り出し、バターを塗りながら考え続けた。そしてふと、頭に何らかのビジョンが浮かび上がる感覚があった。
「新潟の、あの村。」
ファイルの最後のページに記されていた地名。新潟県北部の山間に位置する小さな村。記憶にはない場所だが、文字列が妙に頭に残る。ただの偶然だろうか。
ふと、テーブルの上に置いていたスマートフォンが震えた。通知はニュースアプリからのものだった。
「新潟県〇〇村:積雪による通行規制、村へのアクセス一時困難」
久美子は息を飲んだ。まるで、目に見えない何かが彼女をそこへ向かわせまいとしているかのようだった。そして同時に、その知らせが何かの「合図」のようにも感じた。行かなきゃ。
その瞬間、彼女の中で理屈や常識がかき消えた。彼女は直感に従って行動することに決めた。これ以上、違和感の正体から逃げることはできない。
新幹線の窓から見える景色は、東京を離れるにつれて徐々に白に染まっていった。始めはうっすらとした雪化粧だったのが、次第に視界は完全な銀世界となり、空気は重く冷たく感じられるようになった。
久美子は座席に置いたカバンの中にあるファイルを意識しながら、車内販売で買ったホットコーヒーをすすった。隣の席には誰もいない。車両全体がどこか閑散としていて、静けさが異様に際立っている。
車窓の外をぼんやり眺めていると、ある種の既視感に襲われた。──この旅を、以前にも経験したことがあるような気がする。
もちろん、それは錯覚だと分かっている。新潟へ行くのは初めてだし、そもそもこの旅は昨日まで計画になかったものだ。それでも、どこかで同じ風景を見たことがあるような気がしてならなかった。
カバンの中から小さな紙のメモ帳を取り出し、そこに「20XX年12月25日 新潟」とだけ記した。理由もなくそうしたくなったのだ。記録することが、自分を正気に保つ唯一の手段のように思えた。
新幹線がトンネルに入るたび耳に圧力がかかり、世界が一瞬遮断される。その度に久美子は現実から切り離されたような気分になった。
ふと、斜め向かいに座っていた年配の男性が振り返り、久美子に声をかけてきた。
「お嬢さん、新潟へ?」
「え? はい、まあ。」久美子は少し驚きながらも答えた。お嬢さんという響きには心地よいむず痒さを感じる。
男性はにこりと笑い、手にしていた古ぼけた文庫本を閉じた。表紙には『帝王学の本質』というタイトルが書かれている。
「面白い本ですよね、それ。昔、父の書斎にあったので読んだことあります。」
「おや、これをご存知かな?」男性は驚いたように言った。「この本は、支配と統治について書かれた古い書物の一部を現代風にまとめたものだ。権力を持つ者が必ず抱える問題と、その克服について語られている。もっとも、実際に克服できた者は少ないがね。」
久美子は曖昧に微笑んだが、頭の中には「帝王学」という言葉が強烈に残った。支配と統治──それはファイルに映っていた土器の写真とも奇妙に繋がっているように感じた。
「支配する者は必ずしも幸せではない、ということですよ。」
男性はそう言い残し、前を向いてまた本に目を落とした。久美子はしばらく年配の男性をぼんやり眺めていた。支配。
窓の外は相変わらず雪が降り続いている。電線の上に積もった雪が、どこか均衡の取れた美しさを保っていた。
新幹線が新潟駅に到着したのは、午後1時過ぎだった。東京に比べて空気が冷たく、頬に当たる風が鋭い。ホームには数人の乗客が乗り降りしていったが、そのほとんどはすぐに姿を消してしまい、久美子は一人取り残されたような気分になった。ここからはバスだが、アクセスは困難なはずだ。
久美子は手元の地図を確認し、辺りを見まわした。彼女の目に飛び込んできたのは、テラスに映るクリスマスツリーと、駅の案内板に書かれた「大雪のため、運行見合わせ」という言葉だった。
何かに導かれるようにここまで来たのに、道がは閉ざされている。だが久美子はこれを「戻れ」というサインだとは思わなかった。むしろ、その逆だ。
──ここから先は、自分の足で進まなければならない。
久美子は駅の待合室に腰掛け、深く息を吐いた。そして再びあのファイルを取り出した。写真に写る土器の破片の模様が、今にも動き出しそうな気がしてならない。
その時、不意に駅のスピーカーから低い音が流れた。
「次の案内をお待ちください。」
誰に対するメッセージなのか分からない。ただその声が、彼女の心の奥底で何かを揺さぶったのは確かだった。行かなきゃ。
雪はさらに強くなり、世界は静かに白に包まれようとしていた。
第二章:二「謎の男との出会い」
久美子が待合室を出たとき、雪はますます激しさを増していた。駅の外にはかろうじて見える道が一本だけ伸びており、その先に何があるのかは白い帳に隠されていた。目的の村までは通常なら車で30分ほどだが、バスが運休しタクシーもつかまらない今、彼女は自力で進むしかなかった。
手元のスマートフォンに表示された地図を頼りに、久美子は足を進めた。雪が降る音と靴が雪を踏みしめる音だけが彼女を包んでいる。時折吹き付ける風に体をすくめながら、彼女はファイルの中の地図を思い出した。それは粗い手描きのもので現在の精密な地図とは違うが、なぜか脳裏に鮮明に焼き付いている。
「どうして私はこんな無茶なことをしているんだろう?」
自問しながらも、彼女の足は止まらなかった。不安と緊張の中に奇妙な確信が混ざっていた。行くべきだという確信が。
しばらく歩いたところで、遠くに小さな茶色い小屋が見えた。久美子は胸をなでおろし、歩調を速めた。冷え切った体を温める場所が見つかったことに安堵したのだ。
近づいてみると、小屋の扉は少しだけ開いていて中からうっすらと明かりが漏れていた。誰かがいるのだろうか? 彼女は躊躇しながらも思い切って扉を叩いた。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
中からの応答はなかったが、彼女が扉を少し押すときしむ音とともに中の様子が見えた。そこには一つの木製のテーブルと椅子が置かれ、テーブルの上には湯気を立てるカップが一つだけあった。
「誰かいる……?」
久美子は辺りを見回したが、人影はどこにもなかった。それなのに、カップの中の液体はまだ熱を帯びているように見えた。彼女はカバンを下ろし椅子に座ると、雪道で冷えた手を擦りながらカップに目を落とした。
そこにふと、テーブルの隅に置かれた古いノートが目に入った。
表紙には何も書かれておらず、まるで誰かがここに置き忘れたように見えた。久美子は躊躇しながらもそれを手に取り、中を開いてみた。ノートの最初のページには、くっきりとした筆跡でこう記されていた。
「土器はその欠片が全て揃うまで、語るべき真実を秘め続ける」
土器。欠片。真実。
ファイルに収められていた写真を目にしたときは、土器の破片はただの骨董品のようにしか思えなかったが、今この文章と繋がることでそれは別の意味を帯び始めた。
さらにページをめくると、そこには断片的な文章が続いていた。
「支配の象徴は時に破壊されることで新たな意味を得る。欠けた一部を探す者は失われた力の正体を知るだろう。」
久美子はノートを閉じ、テーブルに戻されたカップに目を向けた。誰がこれを書き残したのか分からない。しかし、ノートとカップ、そしてこの小屋全体が、彼女を待っていたような気がした。
突然、背後から人の気配を感じて振り返った。そこには黒い帽子とダッフルコートを纏った長身の男が立っていた。
「ああ、君が来るのを待っていたよ。」
その抑揚のない声は、昨晩受けた謎の電話の声と似ていなくもなかった。
「誰ですか?」久美子は警戒しながら立ち上がった。
「ただの通りすがりの者だ、と言ってもきっと信じないだろう。」彼は穏やかな声で言った。「だが、君がここに来ることは知っていたよ。」
「どうして私がここに来ると?」
男はその質問には答えずに、無機質な笑みを浮かべて彼女が手にしているノートに目をやった。
「それは役に立つだろう。だが、気をつけなさい。真実を知ることは時に非常に危険なことだ。理想主義者と同じくらいにね。」
久美子は感じたことのない不安を覚えた。だが男の放つ言葉と全てを見透かしたような目には、どこか説得力があった。
「あなたは何を知っているんですか?」
「知るべきことは、これから君自身で知ることになるだろう。」
男はそれだけを告げると再び外へ出て行った。雪に包まれた風景に消えるようにして。
久美子はしばらくその場に立ち尽くしていたが、次第に落ち着きを取り戻し、小屋を後にした。
雪道を再び歩き始めたとき、久美子はノートをカバンにしまいながら考えた。今自分が向かっている村で、このノートに書かれた「土器の欠片」と何かしらの関係があるに違いない。そして、その欠片が何を意味しているのかを知ることが、この旅の鍵なのだと。
だが、それが単なる興味や好奇心だけで終わるものではないことも、彼女にはぼんやりと分かっていた。
道の先に、小さな木の看板が見えてきた。
「〇〇村 → 5km」
久美子は立ち止まり、深く息を吸った。そしてまた歩き始めた。
この旅は何か大きなものに向かう旅路のほんの入口でしかない。その確信が次第に彼女の中で強まっていた。
第二章:三「村に到着」
久美子が小さな看板を通り過ぎてから、雪はますます激しくなり辺りはほとんど白い壁に閉ざされたようだった。雪道は細く、わずかに残る車の轍が彼女にとって唯一の道標になっていた。何度も足を取られながら、それでも久美子は進んだ。先ほどの小屋と、あのノート、そして謎の男──そのすべてが否応なく彼女を前へと駆り立てていた。
「5キロなんて、すぐだと思ったのに……。」
久美子はひとりごちた。息が白く凍り、体の奥まで冷たさが染みてくる。こんな場所に何が待っているのだろうか。本当に来るべき場所だったのだろうか。そんな迷いが頭の中に何度も浮かび上がる。それでも足を止めなかったのは、進み続ける以外に選択肢がなかったからだ。
やがて、木立の向こうにぼんやりと建物の影が見え始めた。村だ。
木々の切れ間から広がるその風景は、どこか異様な静けさをまとっていた。雪に埋もれた家々は人の気配を完全に失っているようで、まるで廃墟の村に足を踏み入れたような錯覚に襲われる。
いや、誰かはいる。久美子は確信した。静けさの中にも微かに生活の匂いが残っている。煙突からかすかに煙が立ち昇る家もある。だがその人々はどこへ消えてしまったのか。雪に隠れ息をひそめているかのように、彼女の目には何も映らない。
村の入り口に立つ木製の看板には、かろうじて「〇〇村」と書かれていた。久美子はその文字をじっと見つめた。その場所の名前には何の感情も湧かなかった。ただ、どこかで見たことがあるような、そんな錯覚だけが残った。とりあえず、誰かに話を聞かなきゃ。
彼女は村の中心らしき場所に向かって歩き出した。
村の中心部には、古びた石造りの建物がぽつりと建っていた。かつては集会所か役場のような役割を果たしていたのだろうか。あるいは今も。扉の上には錆びついた鐘が掛かっており、屋根には雪が分厚く積もっている。
「誰かいませんか?」
久美子は扉を押してみた。鍵はかかっていないようで、きしむ音とともに重い扉がゆっくりと開いた。中は薄暗く、冷たい空気が流れ込んでくる。
彼女は恐る恐る中に入った。壁には古い地図や告知の紙が貼られているが、そのほとんどが色あせ、何が書かれているのか判別がつかない。部屋の奥には木製の長机と椅子が無造作に並び、その一角に古びた暖炉があった。今は使われていないようだが、灰が新しいことに久美子は気づいた。その時だった。
「君、何をしているんだ。」
突然、背後から低い声が聞こえた。久美子は驚いて振り向くと、そこには中年の男が立っていた。分厚いダウンコートに身を包み、灰色のニット帽を目深に被っている。その深く青みがかった目つきと無精髭とどこか不機嫌そうな佇まいは、一見してロシアの軍人を思い浮かべた。だが表情にはどこか優しさが漂っている。
「すみません。あの、バスが止まっていて歩いてここまで来ました。」
「歩いてだって!? 君がか。」男は信じられないというように首だけのけぞり、一瞬間を置いてわざとらしくため息をついた。「観光か何かか?」
「いえ、違うんです。ただ……。」
久美子はどう説明すればいいのか分からなかった。電話のこと、ファイルのこと、小屋のノートに書かれていた「土器の欠片」のこと。話せばこの男はどう反応するだろうか。
男は久美子をじっと見つめた後、ポケットからタバコを取り出し、一本くわえた。そしてライターの火を灯しながら言った。
「こんな僻地までわざわざ来るやつは、訳ありに決まってる。」
「訳ありですか?」
「この村に来る人間は少ないが、たまにいるんだ。お前さんみたいに、何かを探してるやつがな。」
久美子は息を飲んだ。男の言葉が、彼女の核心を突いたように思えた。「あなたは、何かを知っているんですか?」
男はタバコの煙を吐き出し、ゆっくりと答えた。
「知らんよ。ただ俺はここに住んでいるだけだ。」
そう言うと男は、部屋の隅に置かれた古びた棚をに目を向けた。その上には、土で作られた壺や皿が無造作に並べられていた。そのうちの一つに、久美子の目を引くものがあった。
「これ……。」
写真の中にあった、土器の破片によく似てる。
久美子は息を詰まらせながら、震える手でその破片を手に取った。破片の表面には複雑な模様が彫られていて、それが何を意味するのかは分からない。だがその模様はまるで、彼女に何かを語りかけているかのようだった。
「ただのガラクタだ。」男は眉をひそめて言った。「だが、昔からこの村には妙な伝説があってな。その土器は何かを封じるために作られたとか、いや逆に何かを蘇らせる力を持っているとか。」
「伝説?」
「くだらん話だ。だが今でも村の一部の連中は信じてる。土器の欠片を集めた者は、ある力を得ることができるってな。」
久美子は破片をじっと見つめた。それはただの古い土器の欠片にすぎない。だが──。
「他の欠片はどこに?」
男は一瞬、驚いたような顔をした。
「他の欠片? 知らんよ。そんなもん、どこかに埋まってるんじゃないのか。」
「そうですか。」
久美子は再び破片を棚に戻した。
「何にせよ、ここに長居はするな。」男は言った。「この村は、よそ者に優しくない。」
久美子はその言葉に、何か背筋が寒くなるものを感じた。
外に出ると雪はようやく小降りになっていた。久美子は役場のような建物を後にし、村の中を歩いた。先ほどまで感じていた異様な静けさは変わらない。
雪に埋もれた村は、時間そのものが止まってしまったかのようだった。そして久美子の中には、何か大きな歯車がゆっくりと動き始めたような感覚があった。
──欠片を集める者は、ある力を得る。
その言葉が、彼女の中で静かに響き続けていた。