その解釈は歪んでいるかしら?
お久しぶりです。
悪いことがあったときに「自分はなんてクズなやつだ」と責めるばかりで、解決策が浮かばない…。
恒常的にこれだったらつらいですね。
このような歪んだ解釈はどうして起こるのでしょうか?
「事実か、解釈か」の違いに関しては、以下だとおもいます。
-----------------------------------------
・100人いたら100人とも同じ答えになるものを事実
・そうでないものは解釈
-----------------------------------------
間違った解釈を、まるで事実かのように錯覚してしまう…。
一説によると、以下の流れで歪みが生まれるようです。
↓
-----------------------------------------
1.幼い頃の経験
自分に対する印象と密接に関わる事件、人間関係、生活環境。
(虐待、世間から見て変り種であったなど)
↓
2.自分への最終結論
1の経験に基づき、自身に人間としての価値判断を下す。
(自分はおろかだ、自分はもっと優秀でなくてはならないなど)
↓
3.生きるための安全策
最終結論が正しい、と信じて それでもなお、自分が生きるための安全策。
(自分は人より愚かなので、常に自分の意見より人の意見を優先させなくてはいけないなど)
-----------------------------------------
そして、最終結論が強化されるような体験をしてしまうと
(自分の意見が聞き入れられない、など)
より「生きるための安全策」をかたく守ってしまうようになるのです。(やっぱり自分は不完全だから、より自分より人のことを優先させなくてはいけないのだ)
では、歪んだ認知を「ふつう」程度に戻すには
どうしたらいいのでしょうか?
↓
---------------------------------------------------
1.幼い頃の体験と、自分に下した最終結論を書き出す
↓
2.その最終結論を守るためにできた、生きるための安全策を書き出してみる
※だいたい「~ねばならない」系の安全策は、
歪んだ認知による自分ルールの傾向があります。
↓
3. 最終結論が強化されるような体験をしたとき、都度メモをして、別の見方を意図的に考える
メモする項目は以下です。
①日時、状況
②そのときの感情
③そのときどういう見方をしたか、それは客観的に見て何%正しそうか。
④それに代わる見方はないか、それは客観的に見て何%正しそうか。
メモしていくと、「事実」ではなく「解釈だ」ということに気付かされます。
↓
4.メモを繰り返し、日常の「認知のゆがみ」に気がついてきたら
いよいよ「最終結論」も崩していきます。
( 例 )
最終結論:
・私は、常に自分より人を優先させなくては人から認められない。
↓
生きるための安全策:
・自分を押し殺し、人の意見を優先させる
↓
利点:
・ある程度は周りと協調している感じがある
↓
デメリット:
・人を優先させるほど、自分の無力感を感じ、より意見を言ってはいけないと思う
・人と心から繋がれている感じがない
↓
利点とデメリット、どちらが大きいか?:
デメリットのほうが大きそう。
↓
生きるための安全策は本当に正しいのか?:
・過去に思ったことを言ったほうが、人と仲良くなれるときがあった。
・自分が、何も言わない人と対面したときに何を思うか?意見を言ってほしいとおもうのでは?
・意見を言ったところでその人自身の人格が否定されるわけではない。
↓
新しいルールをつくる:
・自分が好きだと思えることをたくさんやり、発言し、楽しむ人生にしよう
------------------------------------------------------
とにかくメモ。今の認知の、反対を書き出す。
これをねばりづよく実施していくことが大切です。
これは「自信をもてないあなたへ―自分でできる認知行動療法」という本を参考にしました。
こういう話が好きな方いたら、オススメの本をおしえてください!
まとめると・・・
----------------------------------------------------------
1.自身への見解は、事実ではなく解釈だということに気付く。
└それは、何か考えが浮かんだときに、都度メモをすることによってクセに気付ける。
2.自分への否定的な見解に客観的に気付けるようになると、生きるための間違った自分ルールを壊す準備ができる。
3.自分への認知は、昔からの経験に基づいているので、そのルールの根本はどこから生まれたのかを考える。
----------------------------------------------------------
長いのに読んでくださり、ありがとうございました。