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あなどりがたき読書会・『三行で撃つ』
おーつーさんとはじめた読書会のおかげで、今日からまた走り出せそう。
Webライターラボのなかで読書会をひらいた。ひらいたといっても、おーつーさんが企画から司会、何から何までやってくださったのだけれど。(ありがとうございます)
課題図書は近藤康太郎先生の『三行で撃つ』
しかも、編集者のりり子さんまでご参加くださり、参加者だからこそ聴けたことも。
感想を書こうと思ったら、長文になりそうだったのでnoteに書くことにしました。
読書会のおかげで、ただの本の感想じゃなくなる
課題図書を読むと、迂闊になにも書けなくなる。
しかも、近藤先生やりり子さんに読まれるとなると、なおさら。
「これ常套句。ダメ」…と言われるような気がして。
でも、私はこの本をいまこのタイミングで読めたこと、参加者の方やおーつーさんとお話できたことがよかったと思う。なので、気にせず書く。
読むのは、1年ぶり2度目。
1度目の衝撃たるや。打ちのめされた。文章を書くのが少し怖くなり、ライターと名乗っていいものかとゆさぶられた。
時は流れ…
2度目の今回は、いまから試してみたいことだらけに。
常套句や「〇〇的に」「形容詞」「オノマトペ」「など」を使わずに書く。
そして、本書でもりり子さんもおっしゃっていたけれど「読むと書くはセット」だ。
ここ数ヶ月の私は、「書く」方ばかりで、圧倒的に「読む」が足りていなかった。
「本が読めない」とは知りつつも、嘆きつつも、それがライターにとって致命的なことだとは思っていなかった。口先だけだった。
だから、今日は本気で、反省。
しかも、ご親切なことに、近藤先生の『百冊で耕す』には方法まで書いてあるという。
(速攻ポチった)
届いたらすぐ読もう。
そしてまずは、本を読む時間を死守しよう。
読書もライターの仕事?いや基礎練習。吹奏楽部でいうロングトーンのようなものか。
そう思ったら、絶対に外せないじゃないかと気づく。
吹奏楽部では、基礎練習は絶対に欠かせなかった。
基礎練習をしてからでないと、コンクールや発表会用の曲は練習してはいけなかった。
そんな大事なことを脇に置いて書いていたのか。背筋がぞくっとした。
というわけで、私が今回、もっとも響いたところが『P251 「書く」と「読む」はセット』だった。この部分と、日ごろ自分が頭の中で考えていたこと、そしてりり子さんの言葉が合わさったからだ。
でも、ここが一番刺さるとは、感想を書くまでは、思ってもみなかった。
(これも書くことのすごいところ)
他に忘れたくない部分メモ
せっかくなので、というよりも自分が忘れたくないから、以下にあと4つだけ、何回でも太い線を引きたい、丸で囲みたい部分を書きます。(プラス稚拙なひとことを)
(喜怒哀楽の)楽とは、自分ではない、他者を喜ばせること。はたをラクにすることを指すんです。
→文章で他者を喜ばせる、この視点を持っていたい。
ー年以上も同じものを書き続ける。あるいは、一生、なにかを書き続けることに決めた。そういう人は、「好きなとき、暇なときに書けばいい」というわけにはいきません。書く時間と書く場所を、きちんと決めていなければならないんです。
→原稿書く時間=女神に通知する時間だそう。
私も、書く時間と場所を決めよう。
文章を書くとは、表現者になることだ。表現者とは、畢竟、おもしろい人のことだ。おもしろいことを書く人がライターだ。」
→「おもしろい」って難しい。まだよく分からない。でも、おもしろい人になりたい。
書き言葉とは、書き手の所有物ではないのだ。書いた時点で、テクストは作者のものではなくなる。書き言葉とは、読者のものだ。
いい文章とはなにか。分かりやすい文章などではない。すきまのある文章、飽和され得ない、読者の運動の「痕跡(trace)」が残る文章。誤読の種を孕む文章のことだ。
文章を書くとは、迷路を創ることである
→この2ページは、私からいうことは何もないのだけれど、全て書き残しておきたい部分。(なんだか贈与的だなと書いて、「あ!〇〇的」と気づき、消した。)
身体を通して、理解されていくものなのかなと。
文章だけ読んで分かったような気になってはいけないのかなと。
書いて書き続けていったら、そのうち分かることがあるのかもしれない。
以上、今回の読書会の感想のつもりが、読書メモや自分自身の整理になってしまい、失礼しました!
次回の読書会もぜひ、よろしくお願いします!