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京丹波の歴史〜近世(江戸時代)編

田植えの季節になり、水がはられた田んぼにカエルの大合唱が響き渡っています。
田んぼや山や空を切り取ると、江戸時代の京丹波でも、今と変わらぬ風景があったのかなぁ…なんてタイムスリップしちゃいそうですね。

『丹波町誌』をもとに、今回は、京丹波の近世(江戸時代)について、まとめてみました。

やっぱり、時代が近づいてくると、史料の量が増えてきて、読むのが大変になってきますね(汗)
でもその分、分かることも増えてくるのですが。

前置きはこれくらいにして、江戸時代の京丹波、見ていきましょう!


江戸時代の京丹波を支配していたのは?


明智光秀の支配の後、いろいろあって(略しすぎ!)

徳川幕府の江戸時代になりました。

徳川幕府は、組織を組み直し重要な場所に幕府の直轄地親藩(徳川家の血縁者の藩)を置いたり、

関ヶ原の戦い前後から家臣になった’(まだ信頼が浅い)外様大名を遠くの地に置いたり・・。

と、それまでの支配の仕方を改革しました。


京丹波はというと、3つの管理者に分かれていました。

1、中央部にある村はおもに幕府の直轄領で、

 印内(院内)村は、旗本の前田氏・柴田氏が治めていました。

2、北部にある村は、園部藩領

3、南部にある村は、亀山藩領

我が家は○○領!とか、地図で線引きできると面白いのですが、情報が見つからず・・調査中です。


京丹波の村の人々の暮らし


京丹波の村々にも役人がいて、幕府または藩の代官(村の行政担当者)の指示に従って村内全てのことに責任を持っていました。

5~10戸で組を作る五人組の制度があり、五人組の仲間は、監視し合う面助け合う面があったといいます。

丹波町にも当時の村の様子が分かる史料がいくつか残されており、以下のようなものがあります。

○亀山藩

当時の藩は、制札といって、決め事などを立て札に書いて、領民にお知らせしており、内容は以下のようなものがありました。

忠孝礼の事」・・家族仲良くしなさい、倹約しなさいなど。

毒薬札の事」・・毒薬・にせの薬禁止、にせ金や悪銭も禁止。

唐物札の事」・・密輸品も禁止。

切支丹札の事」・・キリスト教禁止

人身売買札の事」・・人身売買禁止。

徒党礼の事」・・集まって暴動を起こすの禁止。

博奕礼の事」・・博奕禁止。

などなど、ざっくり言うとこのような内容なのですが、

特徴的なのが、内部告発に対してご褒美をやる(しかもかなり高額)というところで、

例えば、「徒党札の事」では、

とたう(徒党)の訴人=「村の人たちが、よからぬことのためになんか集まってるようだよ~。」とか

ごうそ(強訴)の訴人=「村の人たちが、激しく抗議活動をするそうだよ。武器を用意する奴もいるかも・・・。」とか

てうさん(逃散)の訴人=「村の人たちが、もうこの土地で農業するのいや~!って逃げだそうとしているよ。」と藩の担当者に教えた人

には銀100枚をあげます。


「切支丹札の事」では、「はてれん(宣教師)がいるよ~」と教えたら、銀500枚

いるまん(ばてれんの次に偉い宣教師)や

立かえり者(一回キリスト教をやめたけどまた信仰にもどった人

だと、銀300枚


このように、五人組で互いに監視させて、幕府や藩の体制をゆるがす者たちを抑止しようとしていました。

もし仲間内で悪い人をかくまったりしていたのがバレたら、連帯責任で全員罰せられたりも。

なんだか息が詰まるような仕組みですね。


しかし、現代でも田舎は特にそうですが、この「ご近所の目が・・」といった周りの目を気にする文化がありますよね。

この五人組などが影響している部分もありそうです。

また、京丹波の地区によっては、今だに集落内で、1組・2組・・と分かれており、組内で誰かが亡くなったら、いろいろ手伝いに行ったりする文化があったり、

子どもの初節句では五月人形などを近所の方がプレゼントしてくれたり。

私たちの一世代前頃は、嫁いで来た人がいれば、嫁披露の宴会を開いたりなど、

ご近所同士の繋がりが深いところは、江戸時代を思わせてくれます。もちろん、いいところも悪いところもありますが・・。


○園部藩

村々申渡条目」を作って、各村に通達しています。

こちらは全16条あり、内容は・・

父母祖父母を敬いなさい、年貢は遅れずに納めなさい。

独り身で農作業が大変な者がいたら手伝ってあげなさい。

猿や鹿が田畑を荒らした場合は、村で話し合い、道や川岸の掃除をしたり、邪魔な木は切りなさい、道路が壊れていたら直しなさい。

火事には気をつけなさい。

などなど、わりと当たり前のことも書いてありますね。

猿や鹿の登場は、田舎あるあるですね。


○旗本領(直轄領)

印内村御法度五人組帳」という史料が残っています。

こちらは文化11(1814)年・弘化3(1846)年・嘉永3(1850)年の3回に渡り、領主に提出したもので、細かな決まり事があります。

・・・54条も!笑

内容は、キリスト教禁止からはじまり、しっかり農作業をして年貢を納めなさい、勝手に新しい土地を耕してはいけない悪い人がいたら知らせて、武器はもたない、捨牛馬禁止、登録内容の変更は役人に申し出ることなどなど・・多岐にわたります。


さらに、こんなのも・・

村の役人同士で寄合(飲み会)をする際は、「珍物酒肴などの過分の入用のないように遊興費を百姓の税に上乗せしないこと。

これは、現代でもありそうでおもしろいですね。


○高屋村「宗門改帳」

こちらは、嘉永4(1851)年のもので、現代の戸籍のような役割をしています。


・・長かったですね。

以上のように、旗本や藩はさまざまな決まり事を村の人たちに通達していたことがわかります。


江戸時代の京丹波農村の税


『丹波町誌』には、亀山藩の竹野村と水戸村を例にして書かれています。

竹野村の石高は1822石4斗8升

年貢米は488石1斗6升9合


税率は46%・・・高ッ!笑


(ちなみに、一石とは、1年に大人1人が食べる米の量で、150kg(1合の1000倍)ほどです。)


藩は、各村の石高を決める時、田畑を上・中・下の3ランクに分けて計算していたし、「永引(えっぴき)の覚」といって、洪水や土砂崩れなどの際に減税・免税することもありました。


それでも、年貢米の質が悪かったら、お米を再び村まで持ち帰り、亀山(亀岡駅の近くまで!歩いて!)まで持って行くという過酷さもあったり、


さらに、年貢米の他にも、大豆・藁・むしろ・縄・竹なども税として納めることもあったりで、

村民の暮らしはかなり厳しかったといわれています。


やっぱり栄えたのはココ! 宿場町・須知


江戸幕府の政策のひとつに、全国統治のための街道の整備がありました。

主要な街道に一定の間隔で宿場を置き、荷物の輸送や書状の継送(郵便局みたいなリレー方式)・宿泊などの施設を作り、宿場ごとに一定の人馬を用意することが決められていました。


この宿場は須知にあり、現代になっても当時の町並みが実は残っています。
道幅が狭く古い家々が軒を連ねているエリアがそうです。

道が狭いな~、不便だな~とイラッ・・としそうになったら、「あ!江戸時代の宿場町!」と思い出してみてくださいね。笑


この宿場町ですが、

宿場が用意すべき人馬が不足すると、助郷役といって、周辺の村々から出させたりもしていました。

須知への助郷役は、八田津じ村・八田篠尾村・八田中畑村・八田なかむら・八田鎌倉村・八田下むら・西階村・新水戸村・水戸村・市森村・上蒲生村・下蒲生村・塩田たにむら・塩田安井村にかけられていたそうです。

一般の旅人や幕府の公用の利用者が増えるにつれ、人馬を用意するという負担が重くなっていったので、周辺の村々の負担も大きかったと思われます。

宿場でもっとも重要な役割を担っているのが問屋で、須知の問屋は「亀屋」といい、この亀屋の『宿場問書』という史料から当時の様子を伺い知ることができます。


曽根に隕石が落ちた!


地元民ならご存知の方も多いかもしれません。

慶応2(1866)年6月7日、曽根に日本で3番目に大きい隕石が落ちたそうです。

重さ17.1kg、縦約16cm、横約29cm

曽根に行けば、『農耕飛翔 須知何鹿の大地』と書かれた石碑の横に、曽根隕石のレプリカがあります。

(本物の隕石は、東京の国立科学博物館に展示されているそうです。)

実際に隕石が落ちた地点ではないそうですが、隕石の大きさなどを体感できますね。

隕石が落ちたときの記録は詳細に残っていて、石碑にも書かれていますが、

おおざっぱに訳すと・・・

「正午過ぎ頃、大砲のような音が2回、続いてホラ貝のような雷が響き渡る中に小石を弾いたような音がして、何か落ちた

探してみると、曽根村の土橋の南の麦畑から、土煙が…
行くと、火薬の香りがめっちゃして、木が焼け折れてるものもある。

畑の土が乾いて白い灰をかぶったすり鉢のようになっているところがあった。ほってみると、烏帽子のかたちをした鉱石のようなものがでてきた。」

と、かなりリアルに描写されています。

火薬の香りがしてきそうですね。

有り難い記録です。

宇宙と江戸時代へのロマンを感じられる曽根隕石・・そのうち見に行ってみてくださいね。


江戸末期・万延の一揆


江戸時代末期になると、豪商が物の買い占めや物価の高騰をはかってお金儲けをしたりするなど、貧富の差が拡大し、怒りやたまりに溜まった不満などから、全国的に暴動などが起きやすくなっていました。

江戸時代が終わる7年前、万延元(1860)年、京丹波でも反乱が起こっています。

天田郡大身村の半左衛門・甚六・茂助らが米価があまりに高いので細野峠に集まり、仲間をどんどん増やして、最終的に2000人ほどまでになりました。

この軍勢は、上大久保村酒屋辻金右衛門のところで暴れ、水原村の呉服屋菊屋の家屋を破壊。

井脇村の旗本柴田氏の掛屋(金融業者)である西野又兵衛方に乱入。

保井谷・粟野・妙楽寺の各村を襲撃。

三ノ宮村に綾部藩士がいたので引き返し、桧山村で二手に分かれて、半分は出口村から和田村へ。中丹波総代の中尾定治郞方に乱入し隣の中尾弥一郎方も破壊。もう半分は油商の上田忠左衛門方を破壊。

合流後、また中台村・院内村コースと橋爪村・紅井村コースに分かれ、須知村で亀山藩とバトルし首謀者は逮捕。撤退し、井尻村をめぐり塙仁輔・荒木茂兵衛らの家を破壊して解散。

というように、町内を駆け巡り、4日間に渡った騒ぎとなりました。

かなりご存知の地名や名字が出てきたのではないでしょうか。


京丹波・江戸時代のまとめ


曽根の隕石以外はなかなか濃い話になってしまいました。

一回でまとめようとしたのが無理があったのかもしれません・・。汗

江戸時代は、平和な時代とも言われていますが、人々の暮らしはかなり厳しかったことが想像できます。

中世と同じように飢饉もおきていますし、国全体でも、各村々でも貧富の差がありました。

良い面も悪い面も、現代に通じる部分がたくさんあり、私自身もさらに考えるきっかけになりましたし、江戸時代に関しての勉強不足も痛感しました。

懲りずに、明治時代編もやりますので、またおつきあいください。



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