天守だけが城じゃない!そもそも城って何?〜はじまりから現代まで「お城」の歴史をいっき見〜
天守どどーん!以下にあるのは大阪城の天守です。
このような建物を一般的には「天守閣」と呼びますが(俗称)、お城の世界では「天守」といいます。
そして、お城=天守は間違いで、お城の定義はもっともっと広いんですよ。
この記事では、お城の定義をおさえた上で、お城の歴史を縄文時代から現代まで、ざざーーーっと見ていきます。
(1万字超えているので、お気楽に読んでいただけると嬉しいです)
お城ってなに?
お城と聞くと、こんなのを思い浮かべる人が多いと思いますが、実は、以下のような品川台場とか、弥生時代の吉野ヶ里遺跡だって、立派なお城なのです。
そう言われると、たちまち「城って何なんだ?」と思えてこないでしょうか。
この記事では、城のはじまりから現代までを簡単にたどりながら、城を中心とした激動をみていきます。
この記事を通して、「城」が予想以上に人々と共にあること、歴史とともにあること、定義が広いこと、など感じていただけると嬉しいです。
城の定義
日本城郭協会は城のことを以下のように定義しています。
簡単に言うと、とある範囲の土地と建物のことで、そこで人々は、住んだり、軍事や政治をしていたよ〜ということ。
「マイホームは俺の城だ!」みたいな話があるけれど、ゆるふわ〜に解釈すると…
・家族の健康を守る、雨風や寒暖、不審者から身を守る(防御)
・今日はどんな戦略で仕事や家事をするか、防犯対策はどうするか(軍事)
・ハウスルールをどう決めるか(政治)
といった点で、あながち間違いではないのかもと思います。笑
ちなみに、日本城郭教会が選定しているお城に「日本100名城」と「続日本100名城」があります。
となっているため、お城は全国に2万〜5万あるといわれているなかで、一定の基準やお城巡りの参考になるものと考えていいでしょう。
城ができたのは守る必要ができたから
吉野ヶ里遺跡が城だということからもわかるように、城の歴史は大昔からはじまります。もっと遡ると、縄文時代では、人同士の争いというよりは、動物の襲撃から集落や身を守るために、何らかの対策をしていたと考えられます。
城が防御設備だと述べましたが「なぜ守る必要が生じたか?」というと、「争いが生まれたから」です。
そして、「人々がなぜ争うようになったのか」というと、富の争奪戦がはじまったから。
定住革命については、こちらの記事でお話しましたが、
定住し、農業生産がはじまると、富を蓄えることができるようになり、奪い合いがはじまります。
単純にいうと、A村が豊作で、B村が不作。B村の人はお腹ペコペコなので、仕方ないのでA村から奪おうという形になります。
だからA村は、防御する必要が生じ、土を掘って、溝や穴を作り、壁や柵を作り、敵を中にいれないように工夫します。
吉野ヶ里遺跡には、物見櫓があったといわれていますが、これも、遠くの敵を発見するためなのです。
「城」という漢字
「城」の成り立ちは、漢字そのものからもわかります。
「き」という読み方をする漢字に「柵」があります。
さくのことです。
①②から、
城は「柵や土(を堀った溝や盛った山)で囲んだ場所」ということになります。
どこを囲んだかというと、自分たちの土地や生活空間です。
「土で囲む」と言われてもピンとこない人もいるかもですが、自分たちの土地の周りの土をぐるりと掘れば、敵は一度その溝のなかに降りないと、先に進めなくなりますし、掘った土を積み上げて壁のようにもできます。
ちなみに、この溝のことをお城用語で「堀(ほり)」といい、水が入れば「水堀(みずぼり)」となります。
お城の定義やお城が造られた理由がわかったところで、ここからはお城の変遷をみていきましょう。
城のはじまり:弥生時代の環濠集落と高地性集落
城の萌芽的なものは、縄文時代からあったといわれていますが、遺跡として残っているのは弥生時代から。
弥生時代前期〜後期の有名な遺跡に「吉野ヶ里遺跡」があります。
小学生の教科書にもありますよね?
吉野ヶ里遺跡では、深さ3mの環濠(水堀をめぐらせたもの)や集落をぐるりと囲んだ柵列、物見櫓のような建物などが復元されています。
他にも、高い丘の上に建てた「高地性集落」も弥生時代には登場しています。
次の古墳時代には、地域の有力者豪族の遺跡も見つかっており、水堀がある家(豪族居館)もあります。
古代|西日本の山城と東北の城柵
古代、7世紀になると、朝鮮半島情勢が心配になったため、大和朝廷は太宰府防衛のためのお城を築きます。
これらは「古代山城」と呼ばれる、朝鮮式山城という形式のお城で、西日本に見られます。
一方、北日本では、宮城県の多賀城をはじめとして、地方官衙(ちほうかんが)と呼ばれるお城が作られていきました。
これらは東北の蝦夷(えみし。いわば先住民)を支配するための拠点となり、出羽柵(でわのさく)や秋田城、志波城、払田柵(ほったのさく)など数多く築かれました。
この秋田城というのが、先日書いた「古代最先端の水洗トイレ」がある場所ですよ〜!!(急にテンションが上がる)
ところで、先ほど、城のことを「き」「さく」と読み、「柵」という漢字を上げましたよね?
お城に「柵」の字を使うのは、この古代の東北地方の城くらいですが、漢字のルーツがみえておもしろいですよね。
中世|武士の館から戦国の山城へ
中世に入ると、武士の世に入り、さらに戦いの色が濃くなっていきます。
鎌倉時代の武士の館
鎌倉時代(1185-1333)になると、古墳時代に居館を築いていた豪族たちは、武士となっていき、「館」と呼ばれる屋敷を構えました。
「館」はほとんどが四角い区画で、正方形のものが多く、大きさは「方一町」が標準サイズ。
「方一町」とは、一辺が109mほどで、これは古代の条里制(古代の土地区画制度)の影響を受けたためと考えられています。
鎌倉時代の武士の館で有名なのが、日本100名城にもなっている「足利氏館(あしかがしやかた)」です。(栃木県)
足利氏館は水堀と土塁に囲まれ、上から見ると長方形をしています。城域は足利氏の氏寺「鑁阿寺(ばんなじ)」の境内になっており、本堂は国宝に指定されています。
このような鎌倉時代の武士の館は、軍事拠点とはいっても、常に合戦があるわけではないので、堀の水が農業に使われることもあったとか。
武士も食べていかねばならないのでね。
南北朝時代の山城
南北朝時代(1336-1392)には、そのままのネーミング「南北朝時代の山城」が誕生します。
この時代は、”天皇をだれにするか問題”に幕府がからみ、天皇が2人いる状態(北朝と南朝)が60年ほど続いた時代です。
南北朝時代の山城は、急峻な山の地形をそのまま活かしたお城。
これは、古代以来の山岳寺院を利用していました。
例えば、後醍醐天皇の笠置城には笠置山寺、吉野城には吉野金峯山寺(きんぷせんじ)があり、寺院の建物や財力、僧兵(武力)までもが使えるというお得なものだったのです。当時の僧侶は戦うし、普通に強んですよ。
この時代で、有名なのが赤坂城と千早城(いずれも大阪府)です。
これらの城を使って、楠木正成は城郭網を作ります。幕府軍は苦戦し、持久戦となりました。
山城が誕生したことで、戦いの方式が、馬に乗った武士同士が戦う野戦から、城を活用した籠城戦へと移り変わって行くこととなります。
室町安定期の守護の館
南北朝時代が終わると、山奥にあって政治や経済の拠点に適さない、南北朝期の山城は使用されなくなります。
室町安定期には、京都に足利義満の「花の御所」が建てられたため、
室町幕府を支えた守護大名たちは、花の御所をまねた守護館を自分の領国に築きまました。
有名なのが大内氏館(山口市)、武田氏館(甲府市)、朝倉氏館(福井市)です。
守護館は「方二町」が標準的で、まわりに守護町が広がっていました。
大内氏館には、庭園があり、堀と土塁で囲まれ、町は条里制で区画。
一の坂川を賀茂川に見立て、京都を模したまちづくりがされていたといいます。
また、この時代、守護以外にも国人や土豪といった人々が、自分の拠点として各地にお城(中世城郭)を築いています。
戦国時代の山城
室町幕府も弱体化し戦国時代に突入すると、山城が築かれるようになります。
この山城は南北朝時代の臨時的なものとは違い、防御構造はどんどん強化されていきました。
とはいえ、毎日戦いが起こっていたわけではないので、合戦のない時は、平地の居館で生活し、戦いのときだけ山城に籠るという使い分けがなされます。
例えば、越前朝倉氏(福井県)の場合、平地の一乗谷に居館があり、背後の一乗白山に「詰の城」(つめのしろ。戦いの際の城のことをいう)としての山城が築かれていました。
戦国大名は、自分の城の強化と支城の整備の両方から、城の整備をすすめました。
城の強化では、縄張(なわばり。城の設計のこと)の複雑化や枡形(ますがた。敵が入って来ないように、城の入り口に施した工夫のこと)や馬出(うまだし。出入り口のさらに外側にある空間)といった工夫が増えます。
完成域に達した山城は、毛利氏の郡山城(こおりやまじょう・広島県)のように、全山が要塞化したものもありました。
支城の整備について、支城とは、本城(拠点となる城)を守るために配置されたお城たちのことで、場所によってさまざまな役割がありました。
こちらの城びとさんの記事がわかりやすいのでぜひ。
近世|戦国山城から平山城へ/土造りから石垣造りへ
戦国時代から江戸時代へ移り変わる安土桃山時代は、お城にとっても変革の時代でした。
大きな理由として、分散していた力の集中と築城技術の向上があったことがいえます。
山城から平山城へ、土造りから石垣造りへ
戦国末期になると、小大名は淘汰され、力のある戦国大名が残ります。
戦国大名は、城を政治・経済の中心地として整備し、多くを平野のなかの小高い丘の上に「平山城(ひらやまじろ)」として築くようになりました。
城の形の大変革の契機になったのが、織田信長の安土城です。
安土城には5層の天守がそびえ、石垣で囲まれていました。(総石垣)
安土城は天守のはじまりと言われており、
信長と関わりのあった武将たちは、安土城を模したお城を築くようになります。
豊臣秀吉は、天正11年(1583)年に大坂城を築き、秀吉の支配を受けた領国には、大坂城と共通点を持つ城が出現し、スタンダードとなっていきました。
一般的な「お城」の姿はこの時代につくられたものなんですね。
この時期には平山城に加えて、平城(ひらじろ)も築かれるようになりました。
これは、建築技術が進展したためで、自然地形を利用せずとも、土を運び、石を積むなどして、城をつくれるようになったのです。
平城は、平地であるため、城の近くに侍屋敷や町人や商人が集住することがより可能になり、城下町が出来ていきました。
一瞬の築城ラッシュ
慶長5(1600)年、関ヶ原の戦い。
これが築城ラッシュの契機になりました。
戦いの後、家康は西軍から獲得した土地を再配分したり、多くの大名を転封したりしたため、新しい領地での築城が進んだのですね。
また、「天下普請」といって、家康などの城を造るお手伝いに、全国各地の大名は動員されることとなりました。
大名たちは、負担はあった反面、普請によって最先端の築城術を学び、自分の居城造りに応用できたのです。
この時期に作られたお城が「ザ・お城」というイメージのお城たち。
巨大な天守や櫓を構え、高石垣がそびえます。
当時は、豊臣と徳川が際どい関係(?)にあったので、豊臣方と徳川方で城の雰囲気が分かれるというおもしろさがあります。
豊臣恩顧の大名たちのお城は、熊本城、姫路城、松江城などで、黒い下見板張り(黒い壁)が多いです。
姫路城は白鷺城とも呼ばれるほど白いことで有名ですが、秀吉がいた頃は黒い外観だったのでは?という説があります。
一方、徳川方のお城は、名古屋城、二条城、篠山城などで、白漆喰(白い壁)や直線と直角を生かした縄張りが特徴です。
(※壁の色はあくまで城主の好みなので、傾向としての話。)
徳川方は、天下普請で大坂城を囲み込むように次々と城を築き、この時期の築城技術は、ほぼ完成域に達していたとみられています。
こうして、各地にたくさんの城が作られましたが
築城ラッシュは早くも終わりを迎えます。
城をつくるな!「一国一城令」
築城技術も極められていき、乗りに乗った築城ラッシュでしたが、あっという間に終わりを迎えます。
大坂夏の陣が終わった2ヶ月後、元和元年(1615年)徳川家康は「一国一城令」を出しました。
内容は「自分の居城を除き、他はすべて破却せよ。」です。
おもに鍋島氏、島津氏、毛利氏、黒田氏などの中国・四国・九州地方の大名たちにあてて出されました。
出された方は大混乱!幕府の破却の基準もはっきりしていなかったらしく、どこまで壊せばいいのか?一国の範囲はどこ?など、各国によって対応はまちまち。
取り壊しの費用をしぶって放置されただけのお城や、「要害」や「旅館」という名目でなんとか残したところもありました。
この法令は、すみやかに全国に発布され、実行されたわけではなく、近畿地方や関東では、すでに度重なる転封によって支城破却が進んでいたし、秋田藩には5年後に通達があったというように、ゆっくり浸透していきました。
一国一城令と同じ頃出された「武家諸法度」では、新規の城の築城や補修・改築工事は幕府の認可を得るようにと定められ、ここに幕府の城郭政策が完成したのです。
これを破るとどうなるかというと…例えば、広島城の無断修築をしたとして、福島正則が減封(49万8000石→4万5000石)させられたそう。かわいそうに。
さらに、寛永14(1637)年の島原・天草一揆をうけて、幕府は西日本を中心に、城の再利用ができないように、石垣も破壊して埋めさせました。
原城(長崎県)、岩国城(山口県)などでこの時の痕跡が見られます。
城下町の発達
お城の築城はストップしましたが、江戸時代に入ると、城下町の整備が進んでいきます。
戦国城下町では、武士と町人が混住していましたが、江戸時代になると、きっちり分けていくようになりました。
つまり、城・武家屋敷・寺社・町屋というように区画に分かれて整備され、
さらに、武家屋敷は、重臣・中級家臣・足軽などの軽輩層の3つに分かれ、
町屋は町人町と職人町に分かれるなどしました。
ちなみに寺社地も防衛として重要でしたし、道も、見通しのよい直角に交差する十字路などは少なく、道幅が狭かったり、丁字路やカギ型など折れ曲がっていました。これは敵がまっすぐ城に突進して来られないような工夫でした。
彦根城を例にあげると、中心部(第1郭)に天守や櫓、表御殿などがあり、堀を挟んだ第2郭には、藩主の下屋敷や玄宮園、重臣の邸宅、その外側(内町)に武家屋敷と町屋、さらに外側(外町)に、商工人の住居と足軽の屋敷がありました。武士と町人は明確に区別されており、職人も職業別に分かれていたといいます。
(参考:彦根の城下町)
現代人の感覚からすると、江戸時代に入る→平和な世の中だ〜という気分になりがちですが、江戸時代に入ったからといって、それぞれの大名は動乱の時代を生きてきたわけですし、いつ戦いが起こっても良いように、城や城下町の防衛を考えるのが普通でした。
幕末の築城ちょいラッシュ
幕末になるとペリーの来航(1853年)を皮切りに、迫り来る外国からの脅威に備えるため、海防のための築城が進められました。
有名なのが、和式築城最後の城と呼ばれる北海道の松前城です。(嘉永3・1850年築城)
松前城には、7基の砲台と25基の大砲がありました。
松前城の和式に対して、様式のお城も登場します。
それは北海道の五稜郭で、欧州の稜堡(りょうほ)形式をモデルに、安政4(1857)年に築城されました。
ちなみに、五稜郭の正式名称は「亀田御役所土塁」だそう。(へぇ〜!)
もうひとつ有名なのが、江戸湾防備のために造られた「品川台場」です。
東京お台場という超都会に佇む砲台は、不思議な感覚がすると思います。
現在「台場」といえば東京お台場くらいしか思い浮かばないと思いますが、
実はこのほかにも全国で800ヶ所もの台場がありました。
現在も残るものに、福井県の松ヶ瀬台場(福井県大飯郡おおい町)、鳥取県の由良台場(鳥取県東伯郡北栄町)が挙げられますが、他はほとんど残っていないそうです。
城の終焉〜現代
前述の砲台は使うことはなかったそうですが、ここからはお城にとってさらに受難の時代がはじまります。(泣)
明治の廃城令
明治維新後の変化は激しいので、少し順を追って説明します。
まず新政府は、幕藩体制を終わらせます。
明治2(1869)年、版籍奉還によって、藩主は地藩事となり、続く明治4年、廃藩置県によって、藩がなくなり県になりました。
藩がなくなってもなお残っていたのが、お城でした。
このように思ったのでしょうか。
新政府は、明治6年「廃城令」を出します。
この廃城令は俗称で、詳しくは、太政官から陸軍省と大蔵省に出された通達2つ(長いし漢字ばっかりなので省略)を合わせて「全国城郭存廃ノ処分並 兵営地等撰定方」といい、略して「廃城令」だそうです。
中身についていうと、陸軍が軍用地として使用する城や陣屋は残すが、それ以外は地方団体や民間に払い下げられることに。
廃棄が決まったのは、城144、要害19、陣屋126。
存置は城が39、要害1。
(ひえ〜〜〜〜〜〜もったいない!)
しかも、残すと決まっても、修理に予算をつけられず「修理できないし壊そうぜ」となった。こうして次々と壊され、天守や櫓は薪に・・・。
(薪!!まき!!)
同時の人々は城をどのように見ていたのでしょうね…。
でも、いつの時代にも神!と思える人はいました。
城を残そうと尽力してくれた人がいたのです。
例えば、中村重遠大佐という人物は「名古屋城と姫路城を残すべき」という建白書を、当時陸軍卿だった山形有朋に提出し、破壊を免れたといいます。
また、彦根城の天守も、大隈重信が天皇に直訴。
松本城は、市川量造という活動家が資金をあつめ保存に至ったといいます。
泣けますね。ありがとうと言いたい。
一難去ってまた一難
廃城令を免れて残った城にとって、さらなる受難がありました。
それは太平洋戦争。。。
水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城は、空襲で消失。
広島城は原爆の爆風で崩壊、首里城も沖縄戦で焼失しました。
戦後の復興ブーム
戦後になり、2回の築城ブームを経て、お城たちは現在の姿となります。
1度目のブームは、昭和30年代の「昭和の築城ブーム」でした。
この時期の復元は、木造よりもコストが安く、建築法の問題もあったため、鉄筋コンクリートでの復元が主流でした。
史実に忠実でも、鉄筋コンクリート。
耐震や伝統の問題から、名古屋城や広島城などで解体復元の話が出ていますよね。
そして、「木造で復元したい」という声の高まりとともに「平成の築城ブーム」が訪れます。
平成3年、白河小峰城(福島県)の御三階櫓を皮切りに、建築基準の改正もあり、木造での復元を実現したお城が増えています。
おわりに〜現代人にとって、お城とは何?〜
以上、お城の歴史を1万年くらい前(弥生時代からだと2000年くらい前)から、現代までたどってきました。
「お城が残っていて、よかった。」と私は心から思います。
天守や城跡、城下町の名残があることで、お城とともに生きてきたたくさんの歴史を感じられる。
自分も、大きな歴史とつながれる。
同時に、お城を建てた人、後世に残そうと奔走してくれた人、現在でも修復や復元に尽力してくれる人たち、たくさんの人たちに、感謝の気持ちが湧きました。
一方で、お城を壊すことについては…
現在に置き換えるのは難しいですが、いらなくなったら捨てるというロジックは存在するし、昭和の箱物遺産を解体する向きもあるでしょう。
昭和のシャッター街だって、残せば歴史的建造物群にいつか、なるかもしれません。でも、シャッター街をなくして、新しい街を作って、新しい人を、経済を呼び込もうという活動も一方では評価されるでしょう。
難しいよね。と思いながらも、約1万字も書いてしまったので、頭と目がぷすぷす言っています。笑
このまとめはまた書き換えるかもしれませんが、今感じていることを書いてみました。だいぶ余談ですが。
ということで、長々とお読みいただきありがとうございました!
(追伸あり)
参考文献
・小和田哲男『人生を豊かにしたい人のための日本の城』
・公益財団法人 日本城郭協会 監修『日本100名城公式ガイドブック』
・公益財団法人 日本城郭協会 監修『続日本100名城公式ガイドブック』
(追伸)デジタル城下町プロジェクトについて
私がお城を好きになったきっかけは、実はデジタル城下町でした。
(ここまで読む人はなかなかいないだろうと踏んで、ぶっちゃけています笑)
もちろん歴史好きであるので、全く知らないわけではありませんでしたが、お城を中心に学んだことはなくて(汗)
運営メンバーになれたときは、嬉しさの反面、お城好きの猛者の気配を感じながらの発信は、最初はだいぶ怖かったです。
でも世界は意外と優しかった。今でも、知らないことばかりで、うわ〜ってなりますし、記憶力がなく「このお城何県だっけ?」と調べることが何度も笑
でも、日に日にお城が我が子のように思えてきたような?毎日です。これも、優しく関わってくださるみなさんのおかげです。
申し遅れましたが、デジタル城下町プロジェクトは、オンラインコミュニティのみんなで、お城と地域を盛り上げるプロジェクトです。
CNPというWeb3プロジェクトから生まれたキャラクター・オオカミのマカミがメインキャラクター。
無料のアプリ「デジタル城下町」では、お城の登城記録をしたり、デジタル城下町民証をあつめたり、仲間と交流したりできますよ。
今後もますます、学び続けパワーアップしていきたいと思います!
改めて、ここまお読みくださりありがとうございました。