文章にならなかったものへの想像力
佐藤友美(さとゆみ)さん著『書く仕事がしたい』を1年ぶり3回目に読んだ。
「今回、本当に刺さったところはどこか」というと、最後のところだった。
そうか、だから、私たちは歴史を、知ることができるんだ。
流れる時間、それぞれのなかでふわふわとしている思い、
そして喜び、苦しみを、誰かが書き残したからこそ、残り、伝わっている。
だけど同時に、
書くことで鮮明になる記憶がある一方で
書かなかった記憶は失われる。
書かなかったこと
書かれなかったこと
書けなかったこと。
ここでまた、歴史の話に戻ると…
(大学を卒業してから十数年経っているので、うろ覚えなのだけれど、)
歴史の史料には、信憑性の高い史料(一次史料)と低い史料(二次史料)がある。
一次史料は、古文書、日記、書翰など。
二次史料は、後世に書かれたもの、軍記物語など。
その史料に書かれていることが正しいのかを調査し考えることを「史料批判」といい、歴史の論文を書いたり、研究したりするときに重要になる。
信憑性の低い史料は、証拠としては疑問符付きで扱われる。
その結果、「これは事実ではない」と、なかったことになる物語もある。
後世の人の誇張や創作、勝者が都合よく書き換えたもの、敵対する勢力をより悪役に描いたもの…などに注意を払いながら、古文書などの内容は正しいのか、議論がなされる。
考古学や新たな発見で事実だと裏付けられる場合もある。
時代が古くなればなるほど、それ以上わからないことも多い。
歴史を勉強していて、私がいつも気になるのは、書かれなかった人たちのことだ。
庶民はどんな生活をしていたのか。
奈良時代の戸籍に「女」とだけ書かれた人、室町時代の公家の日記に「死者多数あり」と書かれた、その死者。
荷札木簡(古代日本、朝廷にこんな税を届けたよという荷物の伝票)に書かれた、米や野菜、魚、布などがあって、それを必死に作った人がいる。
そういう人たちにも家族がいて、思いがあって…と、そんなことを考えてしまう。
だから、その書かれていない人や文字の書けなかった人たちのことを忘れてはいけないと、思っている。
人間は忘れる生き物だし、取捨選択は必要。
だけど、言葉になったものや文章になったものだけでなく、そのまわりにふわふわしている見えないものへの想像力も、大事にしたいなと思った。
さとゆみさんの文章と、歴史について普段考えていることがリンクした、そんな話。
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