京丹波町最古の遺物~旧石器時代から弥生時代まで~
京都府にある田舎。お隣にある兵庫県の丹波篠山市とよく間違えられる町、京丹波町。
京都市内にも、綾部市にも、福知山市にも、兵庫県丹波篠山市にもアクセスできる、なかなかおもしろい場所にあるのです。なにせ、長いこと政治の中心だった京都市に近いので、歴史的に重要な役割も果たしていたのではないか?と考えられるのです。
また現在大河ドラマで熱い!明智光秀ゆかりの地もありますし、これから京丹波をもっと知るべく、調べていきたいと思います。
さて今回は、
京丹波町にある旧石器時代~弥生時代にかけての遺跡について、『京都府埋蔵文化財調査報告書』を参考にまとめ、当時の京丹波について思いを馳せたいと思います。
京丹波町内最古・旧石器時代の遺物
京丹波町内での最も古い考古資料と言われているのが、現在須知高校の敷地内にある蒲生遺跡から出土した「国府型ナイフ形石器」と和知中山地区の「チャート式スクレーパー」の2つです。
「国府(こう)型ナイフ形石器」というのは、サヌカイトの塊を割ってナイフの形にした石器です。大阪府藤井寺国府遺跡で最初に見つかったので「国府型」と呼ばれており、主に瀬戸内、関西、中国、四国でよく見つかっています。
このサヌカイトは奈良県葛城市と大阪府河内郡太子町と跨ぐ二上山で産出。近畿地方でのナイフ形石器の材料はサヌカイトが多いです。
「チャート式スクレーパー」は、チャートという種類の石で作られた、ヘラのような使い方をする道具です。獲物の皮から身をそいだりするのに使ったりしました。フライパンについた焦げをこそげ取るようなイメージでしょうか。
チャートという石材は丹波産地から産出し、綾部市の以久田野遺跡や旗投遺跡、南丹市八木町池上遺跡などでもチャートを使ったナイフが出土しています。
旧石器時代は、今よりももっと寒い氷河期にあり、動物を狩ったりしながらの生活でした。石器を作り、動物を狩って、毛皮を身につけたり、肉を食べたりしていたのでしょう。
京丹波にいて、これらの石器を使った人もどこかへ移動しながら生活していたのかもしれませんね。
京丹波町・縄文時代の遺跡
縄文時代草創期の遺物として、味夢の里の横にある塩谷古墳群の3号墳の墳丘の中から「サヌカイト製有舌尖頭器」が出土しています。
有舌尖頭器とは、石で出来た槍の先っぽのことで、棒に差し込む部分に出っ張りがありこれを「舌」と呼ぶのでこの名前が付きました。
縄文時代草創期は、温暖化は進んではいましたが、まだ寒冷な気候ではありました。
これから、徐々に温暖化は進み、もっとも温暖だったと言われる、縄文中期・・・
といきたいところですが、
中期は飛ばして、後期と晩期の遺物が出土しています。
中台遺跡において、縄文晩期の「ホルンフェルス製の石刀」や縄文後期中葉の「北白川上層式の土器片」が出土しました。
ホルンフェルスという材料で作られた刀(ナイフ)と
京都市内の北白川遺跡で出土した土器に似た形の土器のかけらが見つかったということです。
他にも和知の子来地区でサヌカイト製打製石鏃(矢の先につける)や石器のかけらが。
京丹波町曽根の深志野古墳群周辺で、表面を整えた形跡のある深鉢形土器が出土しています。
他にも、縄文後期の人間がいた痕跡が町内のあちこちで見られるので、確実に人々が生活を営んでいたことがわかります。
縄文時代も終わりにさしかかると、また気温は寒冷化しはじめますが、この頃には集落を作り、土器を使って食べ物を調理していのでしょうね。
京丹波町・弥生時代の遺跡
弥生前期のものは見つかっておらず、この特徴は南丹地域全域でみられます。
不思議ですね~。
蒲生遺跡では弥生中期の円形住居、お墓、土器や石器、食べ物を貯蔵する穴なども出土しており、その北側にある美月遺跡からはV字形の溝や水を引くための水路が発見されています。
また蒲生遺跡の東に位置する、蒲生野遺跡からは、弥生時代中期後葉の遺物が数多く発見されています。
東西に12mもある方形周溝墓という、周りに溝が掘られているお墓や、土器、口の部分に模様のある壺、水差し、甕が出土しています。
この甕にはススがついていたため、調理に使われたことが分かります。
壺は貝殻でつけられた模様があり、東海地域から持ち込まれたものである可能性も示唆されています。
この他に珍しい出土品もありました。
4~8mmの管玉(くだたま)が9点と青色透明の美しいガラス片(弥生中期のものは近畿地方3例目)です。
管玉とは、ブレスレットや首飾りに使われるビーズのようなもので、おしゃれだけでなく、身分を表したり、呪術的(まじない、お祭り)な意味も持っていました。
遺跡は、町内の南側の平野部(丹波自然運動公園の周囲と考えてもよさそう)から、居住域が形成された痕跡が見つかっています。
このころには、大陸から、九州、四国経由で稲作が伝わってきており、集落を築き、稲作をしていたと考えられます。もちろん、現在でも京丹波にはよくいらっしゃる鹿やイノシシを狩ったり、雑穀などの様々なものが煮炊きして食べられていたでしょう。
京丹波町・最古の遺物~旧石器時代から弥生時代まで~まとめ
1、京丹波町には旧石器時代から人がいた。
2、付近で採れる、木材や石材を使って石器や土器を作って使用していた(とはいえ、徒歩だと採石できる場所とかなり距離がある石材もあるため、他の地域との交流もあったと考えられる)
3、だんだんと集落を作り、水を引き稲作などの農業もおこなっていた
氷河時代にアフリカを出た人類が、世界中に散らばっていき、日本に、そして京丹波にも到達。そこで、動物を狩ったり、食べ物を採集・栽培して、調理したり、家や集落を作ったり。
想像や教科書での話?と思いきや、自分たちが住んでいる地域でも実際の痕跡がみつかると、大昔のことが急に身近に感じられませんか?
お読みいただきありがとうございました。